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道路レポート 塩原新道 桃の木峠越 第二次踏査 最終回

所在地 栃木県那須塩原市
探索日 2008.07.31
公開日 2024.12.24
このレポートは、『日本の廃道 2009年2月号』『3月号』に執筆した同名レポートのリライトです。
現在多忙のため執筆時間を十分に取れないので、神路駅の続きなど従来レポートを一旦休止してリライトをお送りすることをご了承下さい。

 桃の木峠下山RTA (多分これが一番早いと思います)


2008/7/31 15:30 17.3km 《現在地》

塩原新道との決着がついた。
苦節10時間半、塩原から17kmを越える長途を踏越え、遂に最高地点である桃の木峠に辿りついたのである。
塩原新道と呼ばれる廃道が、山王峠から塩原温泉まで確かに繋がっていることを、実踏により確かめることに成功した。

天然の鞍部に深く刻みこまれた驚異的に長い切り通しは、2ヶ月前に反対側から辿り着いたときと変わらない姿で私を迎えた。
鞍部を吹き抜ける強い北風も健在である。
ただし前回と違い、雨に降られることはなかった。途中の雷雨予報にヒヤヒヤしたが、ここまで保てば、もう大丈夫だろう。



歓びの肉声動画


なんというか、話しに、内容がない……(苦笑)。

感無量というのもあったと思うが、なにより疲れすぎだったと思う。頭が回ってない。



前回(勝手に)名付けた“三島の木”も、もちろん健在。
嬉しいけれど、「みしまー!」の絶叫はもうやらない。あれは魂の叫びだから、そうポンポン出るものではないのだ。

まあとにかく長い道だった。
技術的な難所も“若見薙”とか“スパルタの谷”とかいくつかあったが、やはりこの塩原新道(塩原側)の難しさは、尋常ならざる距離の長さと、それを分割して探索させないエスケープルートの乏しさにあると思う。

10時間以上かかってようやく峠に辿り着いたが、これでまだ峠というのが恐ろしい。
私はもうこれ以上付き合わないが、この道が想定する旅人の動きとしては、ここから前回探索したルートを逆に進んで12km先の県境「山王峠」を越え、さらに3kmほど福島側へ下った位置にある「山王茶屋」まで、塩原から1日で歩き通す必要があったかもしれない。
塩原から山王茶屋まで約35kmあるが、塩原新道はその名前の通り、全く新たに切り開かれた道であったため、沿道に集落は存在しなかったのである。



切り通しの詳細は前作でレポートしているが、この200mはあろうかという異常な長さを除けば、見晴らしとか石碑であるとか、派手に目を惹くものはない峠だ。
だが、この際だった長さは、一度見れば忘れ難いほどの強い印象がある。

そして、歴史が、ない。
ここは日本における馬車交通時代の国幹的道路として、ほんの一年ほどの間は、議論の焦点であったと思う。
おそらく、延べ数千万人が通行することも期待された、そんな切り通しあったと思われる。
しかし、運命はこの道に冷たく、直近の100年では10人も塩原と山王峠の間を歩いていないかもしれない。

ところで、切り通しの北東側の肩にあたる部分に、妙に平らな場所がある。
その存在は前回気付いていて、おそらく休憩所の跡と考えたが、登っては確かめなかったところである。
今回、最後の力を振り絞って、登ってみた。



平場には、猿の大群がいた。
咄嗟にカメラを向けたら、一斉にターザンのような身軽さで散っていったが、日光あたりでもよく見るニホンザルの群れだった。

いま人類が取り返した、この平場。
やはり間違いなく人工的に整地されている。
広さは10m四方くらい。前に見た“飯場跡”よりは狭い。ただ、周りも全体的になだらかなので、他にも整地されている土地があるのかも知れない。



反対に平場から見下ろした切り通し。
通行を見張るにはちょうど良い場所だが、関所でもあるまいし、やはり休憩所(茶屋)でも設置しようとしていたのか。
実際のところは、全く情報がなく分からないが。

塩原新道という道にとって、この桃の木峠という場所の存在感はとても大きかったはずだが、不思議なことに、この峠にあった施設であるとか、そこでの出来事であるとか、そういうことを伝えるエピソードは全く欠落している。さらに、山王峠や男鹿川橋を複数のアングルから描いた高橋由一も、なぜかここを描かなかったし、大旗高橋を撮影している菊地新学も、撮影していない。全く不可解である。



15:40 《現在地》

長い切り通しを歩ききり、左曲がりの北口へ。
前述した平場への小さな寄り道を含め、峠に滞在した時間は約10分。
ひととき足を止めはしたが、休憩といえるほどに休むことはしなかった。時間的なプレッシャーから、その気になれなかった。

切り通しへの到達は、今回の探索の目的だったが、1日の行程の中では、通過すべき地点に過ぎない。
切り通しを抜けたので、後は速やかに成果を東京へ持ち帰るための帰路へ移る。
その計画ルートは次の通りであった。



青線が、今日登ってきた道。
赤線が、2ヶ月前に登った道。
そして緑の線が、今回予定している最速の下山コースである。

これは、徹底的に時間的最短を目指したルートだ。
そのため、途中には地図上に道のない区間が3箇所あるが、徒歩の強みを活かして最短で突破していきたい。
この予定ルートを辿りきった場合の想定距離は、現在地より最終目的地の男鹿高原駅まで約7km。高低差はマイナス450m。
かつ、本日中に電車の乗り継ぎによって日野市自宅まで帰り着けるタイムリミットは、男鹿高原駅18:37(今から2時間57分後)である。


ダルダルな太腿に、喝入れのパンチを見舞ってから……

15:40 桃の木峠からの下山RTA、開始!




15:51

峠の北側最初の切り返しカーブ(切り通し出口から約400m)であるここが、最短脱出ルートの入口だ。
正規ルートはここを右に折り返してから、直線距離で約400m、落差にして160m下方を再び通過するまで、延々4kmも迂回するが、これを上記400mに限りなく近い距離で終わらせてしまおうというのが、この尾根を使ったショートカットだ。

なお、これは冒険ではない。
前回の探索の帰路は、このショートカットが可能であることの確認を兼ねていた。 突入!



物凄い急な尾根であり、自分の身長が4倍にも5倍にもなったように思えるほどの高度感に、一瞬足が竦む。
だが、斜面全体に若いヒバが密生気味に植林されているため、パチンコ盤面の釘の森の通り、うっかり落ちようとしても遠くまでは落ちられない。そう割り切って、テナガザルをモチーフにガシガシ下った。疲れ切った足の踏ん張りが利かない分、手で頑張る。



16:03 《現在地》

転げるように下り!下り!下った結果、12分で“4km先であるはずの道”へと転げ出た!

この三島に楯突くショートカットはマジで気持ちが良い! アドレナリン出た!!



下り着いた地点から約700mは、塩原新道に従って歩く。
本来なら本日散々苦しめられたような急斜面をトラバースしていく難所だと思うが、この辺りは「三島街道を復元する会」の人々の努力によって見事に復元されているので、123年前の旅人と同じ快適さで歩くことが出来るのだ。
(なお、復元された道が現在どうなっているかは未確認)



16:20 《現在地》

2度目のショートカット入口へ。
ここは「復元する会」の人達が整備したショートカットなので、なんの心配も要らない。分かりやすいし、歩きやすい。



でっかいシダが地面を覆い尽くしている沢をテキパキと下って行くと、約4分で眼下に砂利道が見えてきた。



はっ! 砂利道……

現代のみちッ






ダーーー!!!!!!




16:26 《現在地》


死亡。



うれしぼう。



嬉しくて、地面に身体がめり込んだ。




16:33 (まだ死亡中)

林道に着いた瞬間、道の真ん中に大の字で寝転んだ。
まずクルマが来ないだろうことを良いことに、それから7分が経過した今もまだ倒れたまま、腕と首だけを動かして、押し寄せる感動にむせび耐えている。
峠ではまだ危機感が強くて出来なかった歓びの表現を、そして疲労の表現を、いまここで存分に披露している。

峠を発ったのが15:40だから、なんと50分足らずで麓の林道まで下ったことになる。
まさに落雷のような電撃下山。
完全に、下見という名の前回探索が生きた動きだ。
おかげで、タイムリミットまではあと2時間ある。残りの距離は約5kmだが、山地の大半は終えた。



……いい加減、出発するか。

死体に、我慢ならんほどアブが集ってきた。



16:35

ここからは、前回の下山とは反対の方向へ、足元の横川林道を歩いて行く。
前回は素直に道に沿って下山したのだが、地形図を見る限り、2kmほど先にあるこの林道の終点まで行ってから、地図にないところをちょちょいとショートカットすると、より早く横川集落へ辿り着けそうだった。それを試す。



16:49

さすが行き止まりの林道だけあって、進んでいくと目に見えてしょぼくれてきた。
でも、廃道としては全然イージー。
問題があるとしたら、関節がブリキに交換されたのかと思うほどギコギコと痛む両足の状態だ。
いつもの自転車が欲し過ぎてタマラナイ。



17:05 《現在地》

……た、 辿り着いた。

おそらくここが、地形図にある林道の終点だろう。
GPSないから百パーの自信は持てないけど、周囲を夏草と森に囲まれた広場で、これ以上どこにも道が延びている様子はない。
そして、川の音も遠くに聞こえる。

で、あるならば……



終点から、川の音がする方へ、道を外れて下って行く。
踏み跡のようなものはないが、良い具合に緩やかだ。

一段下るとススキの原っぱがあり、休耕地っぽい。
そこを突っ切ってもう一度森の斜面を下ると、目の前いっぱいに真っ白い河原が広がってきた。



17:09 《現在地》

男鹿川の流れだ。

狙い通り、すぐ下流にこれを渡るコンクリート橋もあり、ショートカットは今回も大成功である!
これでゴールである駅まで、行程上の不安要素はなくなった。
あとは3.2km、既知の舗装路を歩くだけ。残り時間は…………約1時間半。


……よし!  やるか!




17:13

ふわぁーーーーーあーーー…………

川で身体を洗濯。 気持ちよすぎる〜〜。
が、少し発つと当然に寒いうえ、水の中に何か「ウネウネ」と動く赤いミミズみたいな小さな生き物が沢山いることを発見。赤虫か?!
水から上がり、リュックの中に秘蔵中の秘蔵であった綺麗なズボンとパンツとシャツに着替えた。序盤で破れて尻マルダシ寸前となっていたズボンは、グチャッとリュックに隠した。

17:24 出発!



17:34 《現在地》

塩原新道はわざわざ山手を大迂回して素通りしたが、会津西街道時代の宿場町で、いまは国道121号が走り抜けている横川集落へ。12時間ぶりに人家を見た。いやそればかりか、生人も見た。呼びかけて、「桃の木峠を越えて塩原から来ました!」って自慢したい衝動に駆られたが、ぎりぎりで我慢した。



集落内の旧国道を経由して、国道121号へ出る。その時点で駅まで残り2km。近いようで遠い。こんな良い道を自転車で進めないのは、私にとっては拷問に近い。堅い舗装路のせいで、腰骨に両足の骨がザクザク刺さるような激しい傷みが出て来た。ここまで酷く足が痛んだのは、探索中初めて。山の中でこうなったら、やばかったな。このまま痛ませ続けるとどうなるだろうか。

とにかく今回の行程は、体力的にも、時間的にも、今の私が一日でやれる限界だったようだ。
三島県令の最後の道は、私を測るためにあったのか。



18:04 《現在地》

男鹿高原駅、到着。

出発から13時間と4分。
今度こそ、ゴールだ。
後は寝ていても家に着く。(と思ったら、乗り換えが4回もあった)

発車の時刻まで最後に余った時間は33分。
それまで備え付けの「駅ノート」をめくって過ごした。
そして、最後のページに私も書いたよ。URLも添えて、私の密かな宣伝活動。誰か見てくれたかな?



三島通庸県令の作った最後の道、攻略完了。



明治18(1885)年。
塩原新道の華々しい開通式典の翌年であり、栃木県会が継続整備の予算執行を停止した、事実上の廃止の年。
地方行政長である栃木県令から、中央の土木局長(現代の国土交通省における事務次官級)となった三島は、全国の国道に歴史上初めて“路線番号”を与える「国道表」公布という改革を行ったが、塩原新道を国道にはしていない。

同年9月、彼は北白川宮能久親王や内務ク参議山縣有朋らとともに、彼が番号を振ったある「国道」の開通式典に参列した。
それは、東京と新潟港を最短距離で結ぶ、当時唯一の内務省直営土木工事による、清水越新道である。
海抜1448mという当時の国道最高地点を貫通する雄大な山岳道路の計画に、彼は関与していない。
しかし、その発案者である大久保利通は、三島を最も篤く登用した元勲の一人で、明治7(1874)年に彼を酒田県令へ送り出し、その両腕に東北の開発を預けた人でもある。

1年を前後して開通した塩原新道と清水越新道。
これらの道には、太平洋側と日本海側を結ぶ脊梁山脈越えの馬車道路という明確な共通点がある。
そして、どちらもまともに機能できず、ごく短期間で荒廃に帰したという共通点も……。

そこには「偶然の一致」を越えた、技術的限界があったように思えてならない。
これらはいっとき建設は出来たとしても、とうてい「持続不可能な道路」だったのではないだろうか。
わが国の深く険しい脊梁山地に通年利用できる安定した交通路が切り開かれるのは、明治の後半以降、鉄道を舞台としたトンネル技術の進展を待たねばならなかった。

もし仮に、そのときトップにいた三島や大久保が、鉄道についての先見の明を持っていたら、これらの道は造られなかったのかも知れない。だが根本的には制度の不備であったと思う。
道が造られるそれぞれの地域の特性を深く理解した専門の土木技術者が、計画の段階から深く関与しない限り、持続不可能な道路を中止する判断は出来なかったと思う。明治初期の寡頭的トップダウン型行政システムの未熟さが、これらの異常に壮大な技術的失敗と見なせる道路を、各地に誕生させたのだと私は思う。


――失敗から学ぶことの方が、成功から学ぶことよりも多い――


現代の日本の世界に誇るべき交通網を、お供えして見せてあげたい相手が、私にはたくさんいる。







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