2023/2/13 17:06
現在地は、長安口ダムの天端から約200m下流の旧道上だ。
わざわざ“天端から”と表現したのは、左の地形図を見ても分かるが、ダムには当然厚みがあり、
大雑把な表現だが台形の断面をしている。なので天端から200mでも、低い部分にはもっと近いのである。
まあここでダムの厚みの細かな数字を挙げてもさして意味はないが、私がここで言いたいことは、
ダムまで残り200m程度というのは、高さ85.5mもある巨大なダムの前にあっては、
既にほとんど直近、または直下と表現しても間違ってない至近であるということ。
探索のタイムリミットである日没が、刻一刻と迫るなか、
旧道の確定的な終点として存在するダムへと近づいていた。
それが現在の状況である。
一緒に、この窮屈で複雑だった探索の決着を、見届けて欲しい。
前回の最後の場面、大きな石造擁壁を路肩に隠しているカーブに立って先を見ると、高い素掘りの崖に片側を圧せられた旧道が延びている。
路上にも樹木が生えていて、道路としての廃止の古さを感じさせた。
長安口ダムの完成は昭和30(1955)年であり、そんな昔に行き止まりが確定している。しかも現在では、ここに至るまでの下流側の旧道が現国道の擁壁に呑み込まれていて、二度とここへ車輌が入り込んでくる余地はない。
もはや単なる廃道ではなく、道路として世界から孤立した廃道といえた。
だが?
そんな孤独なシチュエーションの割りには、なんというか、生活感がある。
廃止後に、誰かが何かの用途に旧道の用地を転用していたようだ。
人が立ち歩くには十分広い道(だってこれでも昭和初期の開通当初から廃止までバスが通った)の真ん中に、ブロック塀を地面に埋め込んだ小屋掛けの基礎があったほか、周囲にもドラム缶とかの廃材が点在していた。炭焼きでも営んでいたのだろうか。
路肩は険しい岩崖が峡谷まで50mも落ち込んでおり、前方は巨大なダム、上部は国道、背後も行き止まりという立地だが、せっかくの平地とあれば活用したくなるほどに、この周囲は平地に貧しい地形である。
路上にさまざまな廃材と化したモノが散らばっているために、この道に備わっていた本来の遺物が埋没した畏れがあったが、注意深く観察して、これを見つけた。
コンクリート製の手頃なサイズの標柱だ。
こういうものが路肩の周辺に存在するのは、道路としては珍しくないことで、だいたいが用地杭なわけだが、間近に寄ってみても、何かの文字が書かれていることは分かるのだが、用地杭らしからぬ崩した字体の文字であり、すぐに解読出来なかった。
チェンジ後の画像は、斜めに光を当てて解読を試みたシーン。
この立地を考えても、おそらく、「 徳島縣 」と書いてあるんだと思うが、用地杭でこんな崩し字なのは初めて見た。
徳島県の古めの用地杭はぜんぶこれなのだろうか? 徳島県に詳しい方で、見覚えある人います?
仮に「徳島縣」だとして、設置された時期がいつなのかも気になるところ。
ここが道路として現役だった当時のものなのか、その後のもの(ダム工事関係?)か。
前者ならさらに珍しい逸品かと思う。
用地杭?を見つけたところは小さな尾根の突端で、そこを回り込むと、ますます地形が険しくなった。
谷側にあったスギの人工林も、林床となる地面が消滅したことで終わり、代わりにほとんど垂直に近い崖が那賀川の谷底……を占拠して盛大に築かれているダム下流工……まで落ち込んでいる。
その落差は30mより大きく、本来の谷底との落差はさらに大きい。
もうこれ以上険しくしようがないくらいの山の傾斜であり、地肌は全体に岩場が優勢。とてもとても道の外へは一歩も踏み出しようがないくらいの険阻だが、それでも視界を占める緑の割合は大きかった。
季節は2月だというのに、これである。さすがは南海道に属する四国の風景。そのため、夕暮れであることを差し引いても、陰鬱とした印象が強い。
なお、ここまで来ると、旧道が道路以外の何かに転用された区域を外れたようで、本来ありそうな……廃止から半世紀以上を経過した……廃道らしい路上の風景を見ることが出来た。
ここまで来て “普通の廃道らしい” 展開は初めてな気が…。なんだかんだとここまではイレギュラーな展開に満ちていたからな。
(→)
そしていま、谷側の緑の背後は、大部分がダムの巨体に占められた。
この旧道から見れば遙かに高い位置まで視界を遮っており、この行く手に約束された“閉塞”を、強烈に印象付けてくる風景だった。
頭上の現国道は、この天端の高さを越えるべく付け替えられた。
ちなみに、いまは現国道の気配が少しだけ薄い。
これは短いトンネルに入っているせいだ。ちょうどこの尾根の上あたりに、長さわずか30mの長安第二トンネルがある。
17:10 《現在地》
そして今また再び、現国道が頭上に出現。
ここでダムまでの残りの距離は100mとなり、決定的な地形の改変が、
旧道を破壊するという状況が、もういつ出現しても不思議ではなかった。
覚悟して、旧道の行く先へ、すなわち左へ、目を向けると――
隧道が、口を開けていた。
私が探索前に調べていた【旧地形図】に、
こんな隧道は描かれていなかったぞ…?!
マジか! ここに来て、想定していなかった廃隧道が出現!
なお、坑門の真上20mの位置に現国道があるのだが、あとで確認したところ、
ちょうど樹木が遮る形になっていて隧道は見えなかった。(現国道から見た坑口付近の画像)
しかしこれ、間違いなく旧道の続きだよな……。
道は真っ直ぐ脇目も振らず突入している。
そして、1本目の隧道ほど短くないらしく、中に出口の光は見えない。
…………というか、あと100mも行けば湖底だ、この位置からだと……。
地図に無い、出口の見えない隧道……。風も感じられない。
しかし、シンプルな坑門がコンクリートで作られている。1本目の隧道は素掘りだったから、少しだけ上等か?
でも、坑門といっても本当に必要最小限のサイズで、扁額のような素性を教えてくれるものもない。
1本目もそうだったが、やはり正式な名前は分からない隧道になってしまいそうだ。
ん? よく見ると、洞床の辺り、ちょっとおかしくないか?
見覚えがある、用地杭らしきコンクリート標柱が置かれているのだが、
まず、トンネル内の路面にこういうものがあるのがそもそも珍しいし、
標柱のすぐ隣に見える側壁の路面付近の様子が、おかしい。
標柱は、やはり、「徳島縣」と書いてあるんじゃないかな。
それはともかく、トンネル内で普通は見ないよな用地杭って。
なんだか、様子が変だよ、この隧道……。
絶対変だよ、この隧道ッ!!
何この洞床……? ここを車が通ったの?
まるで、洞窟じゃん…。
2023/2/13 17:14 《現在地》
旧地形図にない、事前情報もない(そもそも調べていない場所だったが)廃隧道を、現国道直下の窮屈な岩場に発見した。
オブローダーとして至福の瞬間だったが、そこに一つの見落としを生む魔があった。夕暮れに焦らされていたのも良くなかった。まあ、見落としについてはあとで正直に告白することにして、当然目の前に現われた廃隧道への突入が最優先である。いつものように勿体ぶらず、脇目を振らず突入した。
坑口だけはコンクリートの巻立てを有していたが、3mも入ればもう素掘り、完全無普請のトンネルだった。
出口が見えない洞内へち立ち入る前から、洞床部分の異様な形状に驚かされた。それは、本来の路面から1mくらいも掘り下げられていそうな、異様な縦長断面だった。
普通、トンネルというのは、路面を砂利やコンクリートで舗装して完成する。その前の工事中の段階では、舗装の厚みを見越して少し多めに洞床部分の岩盤を掘り下げてある。
しかしそれでも普通は30cmとかそういうレベルで、稀に路下に水路を埋設するとかの理由で“床下空間”が大きな隧道もあるが、いずれにしても廃隧道の洞床に路面がなく、こんなゴツゴツとした岩盤が露出しているというのは異様である。
それもなんか歪だよな、洞床の掘り下げが。
左側はあまり掘り下げられていないのに、右側は深い。
偶然ではなく、作為的にそうされたものだと思うが、パッと理由は思いつかない。ただ、ダム直前にある隧道という、ある種の特殊な立地との関連性が、いろいろと想像を掻き立てはした。
この洞床の奇妙で異様な“掘り下げ”が、廃道となった後の自然な風化の結果ではなく、人によって作為的になされたものだと推測する根拠がある。
それがこの坑口からちょっとだけ入ったところの掘り下げられた洞床に設置されてある用地杭らしきものだ。
この標柱の近影は前回見てもらったとおりで、「徳島縣」の文字が入っているのだが、見るからに新しい時代のものではない標柱が、本来の路面ではない掘り下げられた位置に設置されているのである。明らかに、この標柱を設置した時点では掘り下げが終わっていたということになろう。
そもそも隧道内にこんな標柱があったら通行の邪魔だが、掘り下げによって道路としての機能を喪失したこの状況が、標柱設置時点では想定通りのものだったということか。
つまり、道路隧道として利用終了後に、何かの理由で洞床を掘り下げた?
異様な隧道だが、洞奥へ向けて前進を開始。
洞床が完全に露岩であり、それも巨大なダムが設置されるような超絶に堅牢な岩質であるせいで、自然の水捌けは皆無に近いようだ。
特に大量の地下水が天井や壁面から洞内に供給されているわけではなく、少し水が滴っている程度なのだが、洞床には沢山の小さな水溜まりが出来ていて、まるで地中の磯を歩いているみたいだった。路面のように均されていないために、意外と水深が大きな所があり、油断できない。
また、時間的にも立地的にも坑口から入り込む光はわずかであり、入洞直後だが既に周囲は猛烈に暗いので、照明が必須だった。
入口から真っ直ぐ60mくらい進んだところだった。
唐突な拡幅部分が出現した。
右側の壁が2mくらい奥に退き、そのぶん道幅が広くなっている部分が15mくらい続く。
これは現代でも狭い隧道でたまに見ることがある、行き違いのための待避所だろうか。
相変わらず路面はなく、下はゴツゴツした露岩だが、道だった時代の名残を感じさせる構造だった。
それに、今ほど自動車が普及する以前に作られた隧道でありながら、わざわざ待避所があるというのは、
後に国道195号として活躍する道路の前身に相応しい、少なくない交通量を想定していたことも窺わせる。
だが、この場所にも道路としては不自然すぎる“異物”が……。
こいつはいったい……?
廃隧道内で見る“灰色の小山”といえば、コウモリ糞の山(グアノ)か崩土の山のどちらかというのがパターンだが、これは明らかにそのどちらでもない。
これは……、おそらく生コンクリートだ。
そして何か山の中に木の棒が突っ立っている。
この状況から連想されるのは、生コンを連続する樋やベルトコンベアのようなもので送流する設備の跡だ。
荒普請で樋やコンベアに隙間があったりすると、そこから零れた生コンがこんな山を作ることになる。
ちょうど木の棒が立っているのも、貧弱な樋を支える支柱だったという説が成り立つ。
零れた生コンは、普通ならば固まる前に除去すべきだが、もしここを道路隧道として再利用する意図がなかったとすれば……。
洞床の掘り下げも、この零れた生コンの山も、この隧道が道路としての利用を終えた後に、何か別の用途でも使われたことを匂わせていた。
そしてその使用を最後に放棄されたことも。
17:16
拡幅部分が終わると、隧道の終わりが見えて来た。
残念ながら、それは光ある出口ではなかった。
ダム直前という入口の立地から想定はしていたが、案の定、洞奥は故意の閉塞が行われていた。
確実な証拠はないものの、この閉塞壁の裏側は、ダムの上流側だ。
湛水面より低いこの位置に隧道が貫通していたら、ダムは満水まで湛水できないので、湛水前に故意に閉塞されたのである。
強い水圧に耐える強力な閉塞が行われているはずで、この隧道の事例は不明ながら、他のダムでは、ダムの堤体を上回る100mもの閉塞工を用いたケースを知っている。
この隧道の壁も、見た目は単純なコンクリートの一枚壁だが、実際には残りの隧道の延長の全て(おそらく50m以上)が、閉塞壁で占められているのではないだろうか。
湖底に残りの隧道が開口していることも、おそらくないだろう。(かつて探索した仙人隧道のケースは真に特殊だった)
閉塞地点の10m手前にある低い止水壁が、私の最終到達地点だった。
その先、閉塞壁本体までは隧道の空間が存続しているが、そこには止水壁に堰き止められた地下水がなみなみと溜まっており、わざわざ濡れて進んでも壁に突き当たるだけなので、止水壁からの目視で満足した。
この画像は止水壁地点から振り返った、入口側の洞内だ。
間近に待避所らしき拡幅部があり、それとは無関係に、零れた生コンの山が一直線上に並んでいた。
この生コンを零した工事とは、隧道の閉塞工事であった可能性が高い。つまり、ダム工事の最終段階となり、この隧道が付替道路にバトンタッチし、役目を終えた後のことである。だからこそ、道路としての機能維持を考える必要がなく、作業スペース確保の為かは分からないが、洞床を掘り下げることも行われたのだろう。
最後は一般の利用者の目が届かない工事柵の向こうで乱雑に放棄されたらしき隧道の様相だった。
天井に取り付けられた小さな碍子だけが、道として平和に過ごした時期の名残だったかも知れない。
閉塞地点は隧道入口から100mくらいの位置にあり、推定80m付近にあった待避所が隧道全体の中間地点だったと仮定すると、隧道の推定全長は160mとなり、右図のようにダムの左岸を貫く直線の隧道が想定できる。
ダムの付替道路として誕生した現国道には3本の隧道があるが、いずれも70m以下の短いものだ。その先代に当たる旧道に、現道を倍も上回る長さの隧道があったというのは意外だ。
まあ、断面のサイズについては、狭いながら一応2車線の規模がある現国道に分があるが。
最後に、ここまでの探索成果をまとめたのが、右図だ。
全体を通し、あらゆる部分に窮屈さを感じる旧道だったことが、この地図からも感じられないだろうか。
地形にも、ダムにも、現国道にも、夕暮れにも、あらゆる周囲のモノに圧されて、のびのびできる場所が全くなかった。
閉塞地点を確認した私は、すぐさま引き返して地上へ戻り、
さらに旧道を入口まで戻って自転車を回収後、現国道からダムの堤上に立って景色を見つつ、
駆け足になってしまった探索の非礼を詫び、それでも無事に終えられた幸運に感謝して、
この日の探索を終えた。
帰宅後に行った机上調査が、最後に探索した閉塞隧道の意外な正体を教えてくれた。
長安口ダムは昭和25年に着工し、30年に完成している。
昭和28年に日本建設機械化協会が発行した『ダム建設の機械化』という資料に、最盛期を迎えた同ダムの工事設備の配置図が、ダム工事現場の実例として紹介されており、そこに今回の隧道が掲載されているのを見つけたのである。
全体はとても大きな図だが、隧道に関する部分だけを拡大したものを右に掲載した。
図中で赤く塗った部分が隧道で、「県道付替隧道」という注記が付されている。
内部の中央部分に1箇所、拡幅部があることも図面から読み取れる。
これが今回探索した隧道で間違いない。
この資料から、あの隧道が、ダム工事に伴う「県道付替」のための存在だったことが判明した。
昭和28年4月に、この那賀川沿いの道路は、県道から二級国道195号へと昇格するのだが、この図面が調製された時点ではまだ国道ではなく県道として認識されていた。
最大で2年間程度、今回探索した一連の旧道が国道だった時期があると思うが、そのことを明言する資料は未発見だ。
ダムによる県道付替隧道ということは、昭和25年にダムの工事に着手するまでは存在しなかったということになる。
だからこそ、昭和8年の地形図には描かれていなかったのだ。現にこの図面にも、隧道の旧道にあたる道路(現道から見れば旧々道)が途切れながらも描かれている。
私はこの旧々道の存在を疑うことを現地で忘れており、【旧々道の分岐地点】である坑口前でも、その存在に気付けなかったため、旧々道の探索は出来なかった。
ダム下流側に現存する旧々道は100mほどでしかないようだが、地元在住のひろ氏(@Rotary_13B_REW)によると、確かにダム堤体に突き当たって終わる短い廃道が存在するとのことである。これはしたり!
やらかしたことは後日に挽回するとして、ここでは改めて知った隧道の極端な短命ぶりに言及したい。
右の画像は、『徳島県勢要覧 昭和28年度』に掲載されていた、着工直前のダム予定地を下流側から撮影したショットだ。
向かって右の斜面に、谷底から相当に高い位置を通る道が見えるが、これがダム工事以前から存在していた県道である。そしてまだ隧道は存在しない。
この県道の路線名は延野甲浦線であった可能性が高いが、この辺りの路線の変遷はやや複雑で確証はない。いずれにせよ、旧道路法の時代を通じて県道だった道路である。
このダムに掛る部分の開通は大正2(1913)年といわれ、大正5年頃には早くもバスの運行が行われるなど、那賀奥地方の玄関口として欠かせない存在となっていたが、画像では点線で描かれているダムを建設する工事が昭和25年に始まると、この重要な県道の通行を遮断せずに進めることは当然不可能だった。
ダムの完成と同時に誕生する巨大な貯水池への道路水没への対策として、ダムや湖畔より高い位置を通る恒久的な付替道路が必要となるのは当然で、これが一般的には付替道路として認識される道路であろう。専門用語としては本付替道路というものだ。
長安口ダムの本付替道路は、昭和29年に着手し、昭和30年に完成したとされる現在の国道である。事実、現国道にある多くのトンネルの竣工年も昭和30年になっている。
だが、この本付替道路とは別に、ダム本体の工事と直接関わる部分だけを小規模に迂回する、仮設的な付替道路の建設も行われた。
それが今回最後の探索した隧道の正体だった。
専門用語では、仮付替道路という。
長安口ダムでは、昭和25年の着工からあまり経たない時期に開通し、昭和30年の本付替道路開通を以て廃止されたと考えられる。
くだんの隧道の活躍期間は、長く見積もってもわずかに5年である。
そして、廃止の直後に隧道の完全閉塞工事が行われ、それからダムの湛水が行われたのであろう。
これまでに探索した各地のダムでも、仮付替道路がダム堤体を迂回するために掘ったという隧道を見たことがある。
これは鉄道のケースだが、国鉄足尾線(現:わたらせ渓谷鐵道)が草木ダム(昭和51年完成)の建設中に利用した仮付替線は、全長1kmの長さと、その大半を占める長大な隧道からなる大規模なものだった。
また葛野川ダム(平成11年完成)でも、国道139号が3本のトンネルを有する長大な仮付替道路を利用していた。
長安口ダムと同年代の森吉ダム(昭和27年完成)でも、森吉林鉄の仮付替隧道が堤体に突っ込んでいる。
仮付替道路や線路はダム建設中のみ利用されることに特徴があり、完成後は本付替道路や線路にバトンタッチして廃止されることを常とする。
世の中にはさまざまな事情から短命に終わる土木構造物が沢山あるが、中でも約束された短命という意味において、こうした仮付替道路や線路は特筆すべき悲哀に満ちた存在だと感じる。
かつて徳島県を工業県へ脱皮させる起爆剤として、県民の多くの期待を背負いつつ、莫大なコストを投じて建造された長安口ダムにも、華やかな完成の裏側に仮付替道路という忘れられた存在があった。
この探索のスタート地点となった小浜の地は、古くから那賀奥の玄関口とされた交通の要衝だった。大正時代に那賀川に沿って上流の木頭方面へと延びる県道が整備されてからも、木頭地方の主要な産物である木材については、最も輸送コストに有利な那賀川による管流しが主力を占めていた。しかし、長安口ダムの建設は流材を完全に不可能にするので、関係者は補償について協議して、湖畔にトラック輸送を万全にする高規格な付替道路を整備したことが、『木頭村誌』などから読み取れる。現在も通用している国道は、そうして誕生したものだ。
だが、この補償の一部として、ダム工事が行われる数年間の輸送をどうするかという問題があったと考えるべきだろう。
これについて言及する資料は未発見だが、ダム工事中も流材は不可能であるはずで、この期間は、やがて水没する県道を使ったトラック運材が行われたのだと思う。
そしてその際に、ダムを迂回する仮付替隧道が活躍した。その利用は短期間とはいえ、通行量が多いことを想定して、隧道中央部に拡幅部分を設置していた。
そんな背景を推測している。
よもや、町外れに口を開けるこんな可愛らしい隧道の奥に、かように濃密な交通史のアンダーグラウンドが潜み、分からぬことに懊悩する羽目になろうとは。
狭い土地に、はち切れんばかりに私の知らない道の歴史がひしめいていた。
まだ私には解決できない謎も多いが、ひとまず本稿はここまでとする。
いつか、道路の“徒花植物園”を開設して、その園長の座に納まるのが私の夢である。
そのくらい私は、短命に終わった道路というものに異様な愛着を感じる。(まあ今回の隧道は、短命ではあっても結実はしたので、徒花よりは恵まれた存在だと思うが)
真っ当な利用者に注がれた愛情の量が足りないからこそ、私が独占的に愛を注いで、道にも私を愛してほしいと希う。
親に誇れぬ、なんだか薄暗い恋路である……。