和歌山県道213号 白浜久木線 机上調査編

公開日 2017.02.04
探索日 2016.01.09
所在地 和歌山県白浜町

机上調査編その1 : 久木の隧道(仮称)の素性調査 


今回の探索を通じて印象に残ったもののワン・ツーを挙げるとすれば、序盤に登場しその後の異様な展開の走りとなった【通告の看板】と、終盤に登場して見事に有終の美を与えてくれた“隧道”(右写真)であろう。

そんなわけだから、帰宅後に行った机上調査においても、現地探索では竣工年はおろか名称さえ明らかにならなかった“隧道”について重点的に調べた。
この項でその成果を紹介する。



古いトンネルについて調べたいとき、大抵私が最初にあたってみるのは、『道路トンネル大鑑』(昭和43(1968)年/土木界通信社)巻末の「隧道リスト」である。もはやお馴染みだろう。

『大鑑』は、現在では廃止されてしまった多くのトンネルが現役で頑張っていた昭和40年頃の資料という点で、比肩するもののない優れた資料なのであるが、大きな弱点がある。
それは、都道府県道以上のトンネルしか記録していないということだ。

“久木の隧道”(仮称)は、現在でこそ県道に指定されているが、果たして昭和40年当時にも県道であったのだろうかという疑問(不安)があった。

さて実際に『大鑑』の「隧道リスト」を開いてみる。
右図は和歌山県の部の一部である。このような型式でトンネルの各種データが並んでいる。

図中の一番左が路線名欄であるが、案の定、「白浜久木線」の名は見られなかった。
考えられるのは、昭和40年当時はこの県道が存在しなかったか、隧道が存在しなかったかということだが、前者の方が遙かに可能性は高いだろう。

早くもこの資料では手詰まりになったかと思われた。
実際、ここで一旦“隧道”についての調査をストップし、成果を本編後段で紹介するが、庄川越という道全体の歴史調査を進めることになった。
だが、その過程のなかで幸運にも私は、ふたたび『大鑑』に戻ってくる事が出来たのだった。

庄川越の歴史調査の結果、昭和40年当時この道が、一般県道「三尾川紀伊富田停車場線」に認定されていたことが判明したのである。

ピコーン! この路線名ならば、『大鑑』に載っていたぞ!
右図の赤線のところだ!! →

路線名: 三尾川紀伊富田停車場線  トンネル名:        個所名: 日置川町久木  延長: 3.9m  車道幅員:  2.1m  限界高: 2.7m  竣工年度: (空 欄)  素掘,覆工の別: 素  鋪装: 未

『道路トンネル大鑑』巻末リスト

延長3.9!!!

この数字である。

「短ぇーーー!!」

って、いつものようにデカ文字で叫んでも良さそうなものだが、

……いや、俺は驚かないぞ。

だって 実際の方が短い気がする(笑)。(私は現地では2.5m程度と試算していた)

← まあ、断面がこんな歪な形をしているうえに、前後が片洞門になっているので、どこからどこまでが隧道の全長であるのかを断定するのは、プロでも難しいのかもしれない。

なお、この隧道を「日本屈指」のものであるとプッシュする私的には、“県道で一番短いトンネル”という称号を欲していた。
『大鑑』のリストには、全長10m未満の隧道が結構ある。そのうち最短は、熊本県坂本村の県道中津道八代線にあった行徳隧道で、全長2.5mと記録されている(現状未確認)。
次いで、北海道神恵内村の道道に全長3.0mの神恵内隧道が記録されており(現状未確認)、全長3.9mの本隧道は、その次となる。

つまり本隧道は、昭和40年当時の都道府県道以上のトンネルでは、全国第3位の短さだったと考えられる。「2位じゃダメなんでしょうか?」とは言わないが、3位は駄目だ。(冗談冗談、十分凄いと思う。)


ところで、せっかく『大鑑』に記録を見つけたのだが、気になっていた竣工年は記載がなかった。 これは残念だ。
さらに、トンネル名が 「〃」 とだけ書かれており、これは一行上と同じだということだが(つまり「岡阪隧道」?)、本当にそうなのかという疑いを持っている。なんとなくだが、これは単純な資料のミスでは無いかという気がするのである。根拠はないが…。
ともかく、個人的にはまだちょっと疑わしいと思うので、別ソースによる補佐が得られるまでは、引き続き“久木の隧道”(仮称)の名前で呼ぶことにしたい。




隧道に関する情報探しは続きまして、私にとってこれまた定番の資料となっている『平成16年度道路施設現況調査(国土交通省)』にあたってみた。
こちらも全国のトンネルデータがまとめられた資料であるが、『大鑑』とは違い、市町村道のトンネルも記載の対象となっている。つまり、道路法の道路は全て網羅している。

これは手元の資料を見るだけの簡単な仕事だが、その手軽さに反し、私は脳天をサドルでぶん殴られたぐらいの衝撃を食らうこととなった。
いま思うと、この資料を探索前にたまたま見ていなかったのは、楽しみと驚きを現地にとっておくという意味で、非常に意義深かったと分かる。
同資料から切り出した次の画像を、見て頂きたい。


“シラハマヒサギセン”(白浜久木線)に、

“ムメイズイドウ”(無名隧道)という名の、

全長
のトンネルが記録されてりゅー!!!


w w ww

2メートルってww


この記録、トンネルの長さは整数で切り捨てているようで、小数点以下はない。
しかし、昭和40年頃に計測されたとみられる『大鑑』のデータ「3.9m」からは随分と短くなったw
もともともの凄く短かったのに、更に短くなっているとか……w笑い事でなくwww
ここ数十年の間で坑口周辺の岩が崩れるなどして、全長が天然減したのかもしれないな。笑

なお、トンネル断面のサイズも、幅(1.2m)、高さ(1.6m)ともに、別の隧道なんじゃないかと思うほどに、小さくなった。
時代が進んで断面が小さくなるのは、いかにも不自然と思うかも知れないが、『現況調査』の幅や高さは、
それぞれ「道路部の幅員」と「有効高さ」と表現されているので、単純にメジャーで測った断面の縦横ではないだろう。


……しかし、『現況調査』の驚きは、これだけでは済まなかった。

今まで謎であった“隧道の竣工年”が、遂に明かされたのだ!

↓↓↓

隧道の竣工年は、明治(1875)年!


はい、 負けましたね。

“久木の隧道”(仮称)を、全国屈指と評するポイント その4(LAST)は、

全国屈指の古隧道である!!

明治生まれの隧道は、地方によっては沢山あれど、それでも明治初年代生まれは、とても珍しい。
多くの隧道は、その地方に車両交通(馬車、荷車、人力車など)が芽生えることによって、誕生の契機を迎えたのである。
そして、隧道が必要となるような山間部に車両交通が広がりを見せたのは、ほとんどの地方で明治初年代よりも、もっと後だ。
ゆえに、明治初年代生まれの隧道は、明治生まれの隧道の中でも特にレアであり、ものによっては、(激レアの)江戸時代生まれと同様に、
車両交通とは無関係に、地域の独創から生まれたものである可能性さえ疑わせる……、そんな逸品なのである。



全国短小トンネルグランプリ ドンドン!! パフパフ!!

市町村道以上の全てのトンネルが網羅されている『現況調査』でも、全国の超短小トンネル(全長10m未満)を調べてみた。

全長10m未満のトンネルは、全部で51本記載されていた。
県別の内訳は、千葉県の9本が最も多く、和歌山県は8本と2位につけていた。次が4本で広島県と静岡県が並んでいるという順位であった。
道路種別では、市町村道が44本で大半を占め、都道府県道が4本、国道にも3本あった。(国道212号、257号、388号にあるそうだ)

昭和40年頃の『大鑑』では、都道府県道以上のデータしか記載がないにも拘わらず50本程度あったものが、平成16年までの間に超短小トンネルの大半が市町村道以下に陥落…ではなく、おそらく廃止や開削されて消滅してしまったものと考えられる。『大鑑』では日本一だった熊本県の行徳隧道や、第2位だった北海道の神恵内隧道の名前も、なくなっていた。


そんななか、完全独走態勢で首位に立ったのが……↓↓


白浜久木線の“ムメイズイドウ”こと、“久木の隧道”(仮称)だった! 祝、日本一。

上の図は全長5m以下のトンネルリストである。
「この隧道を全国屈指と評するポイント その1」に、「短い!」を挙げていたが、どうやらその短さは、マジで日本一だったのだ(笑)。

今回のグランプリの勝因は、隧道自らが3.9mから2mへと大幅なスコアアップを果たしたこと(謎の減少現象)と、旧上位陣の相次ぐ引退のなかで県道の立場を死守し続けた世間からの忘れ去られっぷりタフさであろう。

平成16年当時は現存していたはずの法華崎隧道(仮)(実測全長1m程度)がリストに上がっていないなど、『現況調査』は完璧ではない。調査の対象ではない林道や農道や園路や私道といった道路法以外の道、或いは登山道のような場所に、全長2m以下のトンネルが現存している可能性は、十分に残っている。
だが少なくとも、全国に120万キロもある道路法の道路上においては、“久木の隧道”(仮称)こそが最短王者である。
…それにしても、和歌山県は超短小隧道のメッカなのかもしれない……。表彰台を独占する勢いである。




“久木の隧道”(仮称)の存在は、歴とした県道のトンネルとして行政にも把握されていた。
無名隧道という、少し悲しい名前で。
曲がりなりにも日本一であるのに、名無しとほとんど変わらない無名隧道というのでは、いまいち宣伝しづらい。景色も良いし、ちょっとした観光資源になり得るのではないかと思ったりもするが、今の状態が最良だというのは個人的な感想である。今より荒れても良くないし(行けなくなる)。

ところで、先ほど紹介した『現況調査』には、その元となった更に詳細な資料が存在し、それも道路管理者が管理している。
その資料をある匿名の読者から特別にお譲り頂いた。
原本を公開することは出来ないので、それを元に私が作成した資料をお見せしよう。
普段、我々という道路利用者が意識しないところで、道路管理者がどれだけ緻密な仕事を心がけているのかがよく分かる資料である。道路管理者に頭を下げながら見てみよう。


この資料の作成年は、平成17(2005)年となっていた。
内容は基本的に『現況調査』と変わらない(この資料を全国の全トンネルについてまとめたのが、『現況調査』なので当然)が、項目はより詳細で徹底している。
その中でいくつか気になる内容がある。

たとえば、一番左上の項目「施設名称」(=トンネル名)であるが、「ムメイズイドウ」とではなく、ちゃんと漢字で書かれている。
その名も、“無名道”である。

古い道路の資料を良く見る方はご存知だろうが、「隧道」と「墜道」は同義でありしばしば混用される。しかし時代が新しくなるほど「隧」が多くなり、「墜」は珍しい存在になった。
“久木の隧道”(仮称)が「無名隧道」ではなく、敢えて「無名道」と表記されている理由は不明である。意味深なのか、意味など無いのか…。

交通量調査がちゃんと行われたらしいことも、思わず笑ってしまった。0台って(苦笑)。どうやら調査日には猟師もオブローダーも通行しなかったようである。

この資料には、2ページ目に一般図(右図)が掲載されている。
ふざけた断面の形だが、ちゃんと正確に測量されていて、また可笑しくなった(笑)。
これを見ると、洞床に深さ40cmの水路が埋設されていた模様である。
それも含めた洞内の全幅が2.5mで、車道部が1.7mと計測されている。(『現況調査』の車道部の幅1.2mは誤記?)
高さは高いところが2.5m、低い所が1.6mで、有効高さは後者とされている。(『大鑑』は限界高2.7mとしていたが、無理のある数字だったっぽい(笑)
そして、肝心の全長であるが、ここでは2.4mとある。(『現況調査』は小数点以下切り捨て。) 




まとめると、“久木の隧道”(仮称)は、“無名墜道”として道路管理者が把握している、全長2.4m、竣工明治8年というレアスペックを持った、現役の県道トンネルである。

本隧道に関する資料調査は、おおむね以上である。   ね、日本屈指だったでしょ?

続いての机上調査編後半では、「庄川越」という道全体の歴史を紐解いていこうと思う。


机上調査編その2 : 庄川越の整備略史 


庄川越という道の整備史をお読みいただく前に、もう一度、白浜側に立ちはだかっていた“通告看板”の存在を、思い出しておいて欲しい。

予め言ってしまうと、この看板の内容自体は、これから述べる机上調査の成果を理解する上でそう重要ではない。
だが、このような特異と言っても差し支えのない看板が設置されていること、それ自体が重要だった。少なくとも、私にとっては。
私はそこに何かしらの特異な理由があるのではないかと考え、その何かを突き止めたいということが、机上調査の最大の目的となったのである。疑問がなければ、調べることもしないのだから。

少しだけ長くなるが、これから順を追って、庄川越の紆余曲折に満ちた整備史を紹介していきたい。




@ 近代の庄川越  〜〜最初の挫折〜〜

庄川越(しゃがわごえ)は富田(とんだ)川と日置川という二つの河川を結ぶ峠道である。
そして庄川越の約3km南側には、ほぼ並行するように富田坂(安居辻松峠とも)がある。
富田坂も庄川越と同じく自動車で通り抜けることが出来ないし、庄川越とは違い県道には認定されていない。

しかし、富田坂は庄川越よりも遙かに著名であり、歴史上の通算通行人数も桁外れに多いだろう。街道好きの方にとっては今さらだろうが、富田坂は1000年以上の歴史を持つとされる大辺路(おおへち)の一部だ。今日では“熊野古道”の名の方が通り良いだろうか。

庄川越の歴史を知りたい私は、まず『白浜町誌』(計6巻/1980-1986年/白浜町)にあたることにした。
日本最古の温泉地を擁する全国区の観光地である同町だけに、歴史についての記録は多いようで、町誌も多くの巻からなっている。
だが、例えば近世の交通について述べた章には、大辺路についての膨大な記述があるのに対し、庄川越は名前さえも出て来なかった。

著名すぎる歴史の道の影に隠れてしまっているのかもしれないが、庄川越の扱いが悪いのは、どうも町誌だけではない。この地方の峠歩きについて網羅的に述べている『紀州・熊野の峠道』(2010年/小板橋淳 著)でもスルーされてしまっている。また、国会図書館の近代デジタルライブラリで閲覧出来る地方の古い資料でも、庄川越について触れているものは見つけられなかった。

そんなわけで、庄川越がはじめて開道されたであろう近世以前の事情については、早くも手詰まりとなった。
この峠の名が町誌にやっと登場するのは近代以降であり、それは次のような一連の記述である。


大正12(1923)年4月1日、多年の懸案であった郡制がいよいよ廃止されることとなり、このため各村とも迷い気味であった。なかでも、もっともその処置に窮したのは郡道の処分でこれを村道として村が抱えるか、県道に昇格するかが各村の大きな問題となった。しかし県もすべての郡道を県道として認めることには難色を示し、各村では県議や国会議員まで動員して昇格運動に、しのぎをけずる結果となった。
当時の西牟婁群道は

 一、田辺―二川線 (所属町村 栗栖川村)
 一、兵生―田辺線 (   〃   長野・三栖村)
  [略]
 一、北富田―周参見線 (〃   三舞村)
  [略]
 一、東富田―鉛山線 (  〃  東・西・南富田村)

以上12線がいわゆる西牟婁群道であったが、従来からこの路線の改修又は拡幅工事等については、これに擁する潰地はその村が提供し、工事費は県補助を除いた残額の10分の9を村が負担するという、村の単独事業とほとんどかわらない状態であった。したがってこの13線(ママ)にのぼる道路の去就は各村に大きな課題を投げかけられる問題でもあり、その行方が注目されていた。

富田地域には次のように郡道2線があった。

 一、東富田・瀬戸鉛山線 [略]
 一、北富田・日置川線 起点・庄川口より牛屋谷、小谷峠まで一里二十八丁十六間(約7km) 終点・三舞村久木に至る

この2線が郡制廃止とともに宙に浮くことになるので、――(つづく)

『白浜町誌 本編 下巻二』から引用。


ここに出てくる「北富田日置川線」(もしくは「北富田周参見線」。どちらかが誤記だと思うが不明)という名の郡道が、庄川越の道である。
この道は、当時は北富田村に属していた庄川口を起点に、牛屋谷を経由して約7km先の“小谷峠”を越え、当時は三舞村に属していた久木に達していたという。
起点や終点や経由地の地名、そして峠までの距離からして、「小谷峠」というのは庄川越の別名だろう。

このように庄川越の道に関する記述は明治時代を素通りし、大正末になって突如、「郡道」として登場している。
そもそも郡道は、大正8(1919)年に公布された旧道路法において道路を国道・府県道・郡道・市道・町村道の5種に分けた際、上から三番目の格式を持つ持つ道として正式に誕生したが、大正12(1923)年の郡制廃止にともなって、たった4年で存在を抹消された悲運の道路群である。
しかしともかく、庄川越が大正時代において既に、府県道に次ぐ重要な路線と見做されていたことが分かる。
明治期の庄川越についての記述は皆無だが、早くから存在して一定の重要度が認められていたであろう。そうでなければ、道路法公布と同時に郡道に認定されることもなかっただろうから。

なお、右図に黄色く着色したラインは、大正12(1923)年当時の郡道北富田日置川線の推定ルートで、現在の県道白浜久木線と同じルートだったと考えられる。

さて、この郡道の末路を巡る『町誌』の記述には、続きがある。それもなかなか衝撃的な内容だ。


北富田・日置川線は持参金2078円つきで北富田村道に帰属することとなったので、村では特別会計から400円、庄川区より1800円を支出、さらに夫役2024人を賦課し大改修工事を行った。その後も改修事業を何回も行ったが、投資のわりに成果があがらず、遂に村道としてはもてあまし、もとの県道への復帰運動を行った結果、目的達成、昭和3(1928)年9月1日以降県道となっている。

『白浜町誌 本編 下巻二』から引用。


大正12年に郡道から北富田村道に降格した北富田日置川線について、村は直ちに大規模な改修を行ったが、その際には(村の約4分の1の規模の)庄川区が大半の負担を行ったという。
これは直接の利害関係者として受益者負担が発生したとみられるが(北富田村は、明治22年から昭和31年まで存在していた西牟婁郡の自治体で、今の県道213号の峠以西は、すべて北富田村大字庄川に属していた)、おそらく地区の住民が自ら希望して事業を進めたのだろう。
はっきりした記述があるわけではないけれど、私はここに、「通告」の看板に登場する“関係者”たちの精神的ルーツがあるような気がする。

しかし、このときを含めた村による数度の改修事業は結局大きな実を挙げることが出来ず、代わりに県に対する県道復帰(文脈的には「昇格」が正しいと思うが)の陳情活動を行い、昭和3(1928)年にめでたく県道に認定されたという。


――『白浜町誌』にある庄川越の記述は、以上となる。

昭和3年というかなり早い時期に見事県道の地位を射止めた道が、その後どうなったのかが、まるで書かれていない。
誰がどの程度利用したのかも分からないし、路線名すら不明だ。
今日に至るまで、もう何も分からない。『町誌』の執筆者はもう、庄川越への興味を失ってしまったかのようだった。


旧版地形図歴覧  明治〜昭和前半の庄川越

明治44(1911)年昭和28(1953)年の地形図を比較してみた。
庄川越的には、前者は郡道認定以前、後者は県道認定以降だ。

そんな両者の間には、やはり描かれ方に少なからず変化が見られる。
前者では、庄川口から久木までの全線が細い二重線の「里道」として表現されているのに対し、後者では庄川口から出合のかなり奥(【山中橋】)まで、太い二重線の「府県道」として表現されている。その先の区間は久木付近まで旧来の「里道」表現のままだが、【立派な橋台】の個所にルート変更が見られる。明治から昭和にかけて橋を架ける改築を行ったのだろう。
なお、ここでは紹介しないが、昭和8年の地形図も昭和28年版と同じ表現である。

今回の探索で印象に残ったことの一つが、峠の周辺の道だけが極端に急だったということだ。
果たして、あそこに今の狭く急な車道が開通する以前から、“近代車道”と呼べるものがあったのか、大いに疑問であった。
これについて、『町誌』の記述や歴代地形図の表記から導いた私の結論として、近代車道は未開通だったと考えている。
つまり、【立派な橋台】などは、近代車道の“未成道”を構成する一員として、今日に至っているものと考える。

庄川越の周辺の他の道にも目を向けてみると、庄川口を通る大辺路のルートが東富田村内でルートを大きく変えているのが目を引く。
近世から引き続いて南紀第一の重要路線だった大辺路は、明治初期には県道に認定されていたが、東富田村以南は富田坂をはじめとする多数の峠越えが控える難路で、明治40年頃に至っても和歌山市からの乗合馬車は東富田までしか通じていなかった。その先は徒歩によるしかなかったのである。
そこで、明治44年に東富田村が中心となって発案した大辺路を海岸沿いに移設する「海岸道路」の計画を、県が実施することになり、大正5年頃に日置川(当時の日置村)まで開通した。
海岸道路を含む新しい県道大辺路線は、昭和21年に国道41号へ昇格し、その後何度か路線名を変えながら現在の国道42号となっている。もっとも、海岸道路はほとんどがトンネル化されており、当時の面影はないけれども。

もし、海岸道路の整備が進まなければ、代わりに庄川越が国道となる「IF」もあったのだろうか…。




A 議論された庄川越  〜〜色々なことがありました〜〜

町誌にも記載のない、昭和初期から現代に至る間の庄川越について、なんとか知る術が無いだろうか。

次に私が目を向けたのは、和歌山県議会の議事録である。
県道整備は県の専管事項なので、整備に向けた議論がある場合、県議会の議事録に記録が残る。
そして現地調査の結果でも、現在の県道白浜久木線には整備に向けた具体的な動きがありそうだったから、収穫に期待が持てると思った。 ただし、今回は調査時間の都合上、WEBで検索・閲覧出来る平成元年以降の議事録のみを調査対象とした。

結論から言うと、平成元年〜平成28年の和歌山県議会議事録には、県道白浜久木線についての議論が、都合7回登場していた。
これは期待以上の回数であったが、何より、その内容が大幅に期待以上であった。
これから古い方から順に引用を交えながら紹介していく。議事録の性格上やや冗長な部分もあるが、時間のない方は、赤字部分だけでも読んで欲しい。

最も古い登場は、平成3(1991)年12月の定例会である。


○浜本 収君
三つ目。小さな問題に移ります。平成四年度に向けての西牟婁県事務所の取りまとめに係る管内市町村の土木部に関する重点要望は四十四の項目にわたっておりますが、どの箇所も、どの項目も見逃せない重要なものばかりであります。ただ、この要望書の中で、庄川─久木間の県道、日置川町と白浜町を結ぶ白浜久木線が今年度から削除されていることに若干の疑問を感じながら、以下、簡潔に質問をいたします。
本県道は県道に認定されて既に半世紀余──一世紀とまではいかないけれども、この場合、「半世紀余」と認定をしておきます。本県道については、六十二年の九月県議会で取り上げ、本県道の改修が果たすであろう役割とその必要性について力説した関係上、本日はその説明を省略するが、六十二年から今日まで県土木部長は三人目を迎えたただいま、切り捨ては後退を意味し、継続は力であることに思いをいたし、ぜひ本県道の改良、改修に意を用いてほしいと思うものであります。県道が犬の通る「犬道」として放置されようとしている現状に対する今後の取り組みと見通しを明らかにされたいのであります。

○土木部長(山田 功君)
県道白浜久木線についてお答えを申し上げます。
本道路は、道路のネットワークとしての必要性、また地元から交通不能区間の解消等について、その整備に強いご要望のあることは認識をしております。 白浜町内においては、昭和六十三年度に延長七・三キロの暫定改良工事を完了いたし、また日置川町内の交通不能区間四キロについて平成元年度から調査を行い、二年度より久木方面からその改良工事に着手をしておるところでございます。 今後とも、日置川町内の交通不能区間の解消、さらには白浜町庄川からの二車線の改良等に努力してまいりたいと思います。
以上でございます。


平成3(1991)年といえば、平成は平成でも、私が探索を行う四半世紀も前である。
だが、当時既に県道白浜久木線では、不通区間を解消するための議論が始まってから長い時間が経過していたとのことだ。
質問者の浜田議員は「県道に認定されて既に半世紀余」と述べているが、『町誌』には昭和3(1928)年に県道認定されたとあったから、実際は当時既に63年が経過している。
この間、峠は「県道」ではなく犬が通る「犬道」だったと揶揄しているが、実際に通ったのはワルニャ…。

気を取り直し…、浜田議員は翌年度分の県土木部に対する要望書からこの県道の整備に関わる項目が削除されてしまったことを憂いているが、県土木部の山田土木部長の答弁によれば、昭和63(1988)年度に白浜町内の7.3kmの暫定改良工事が完了しており、日置川町内の交通不能区間4kmについては、平成元年度から調査を行い、翌年から改良工事を始めているとしている。

実際の探索で見た景色や、歴代の航空写真第5回で紹介した通り、歴代の航空写真を比較すると、平成4年には峠で終わっていた道が、平成9年にはそこから1.2kmほど久木側まで伸びている)からも、この内容は事実と分かる。
平成3年当時、白浜側から峠までは辛うじてクルマの通れる道が通じていたが、旧日置川町内の改良は手付かずであったのだろう。
そして、久木側で平成2年に着工されたという改良工事により、最終回に登場した、久木橋から200m弱の車道が作られたものと考えられる。



さて、次に県道白浜久木線が県議会で登場するのは、8年後の平成11(1999)年6月の定例会であった。
この間には、峠の頂上までだった暫定改良道路が日置川町内へ越境し、第4回に登場した【現在の車道終点】まで1.2kmほど延伸したはずであるが、これについての説明はなかった。

ともかく、平成11年の議論を見てみよう。


○高田由一君
次に、白浜町庄川の県道整備工事の問題点についてです。
一九九六年末から九七年にかけて、白浜町の庄川地区にある県道白浜久木線の整備工事が行われました。どういう工事かと言うと、その付近は未舗装で幅が狭く、すれ違いができないので待避所を三カ所つくろうという工事でした。県は、九十万円の予算を組んで業者に工事をさせました。しかし、県のお話によると、九七年四月になって現地を見に行くと、指定した工事箇所以外のところまで県道のり面の掘削が進んでいて、すぐに業者にストップをかけたということです。それ以来、一部の吹きつけ工事は県が行ったものの、大部分はのり面が掘削されたままの状態で二年数カ月経過し、現在も県道のその工事箇所は、落石など危険なため通行どめになったままです。
そこで、土木部長にお尋ねします。
県は、九十万円の予算を組んで業者に工事をさせたと言いますが、なぜ業者が待避所を三カ所つくるという工事以上の工事をしたのか、県は正確な発注の仕方をしたのでしょうか。
私は、こうしたことが起こる背景に、庄川地区の公共工事の進め方に問題があると考えています。同地区では、住民が任意でつくる促進委員会なる団体が、公共の工事に関して行政に対し一般的な要望や陳情を行うだけではなくて、公共事業予定地をみずからの資金で先行取得し、公共事業の予算がついた段階で行政に買収してもらうというやり方をしていたようです。確かに、同地区の県道や河川の改修は区民の要望でありますが、だからといって用地を先行取得までして促進するやり方は、私は誤りだと考えています。一歩間違えば、公共事業絡みの不正疑惑を招きかねません。そして、少々工事が先行しても、後には公共事業の予算がつくはずだという思いになるのではないでしょうか。県はこの促進の仕方を容認してきたと、私は考えます。この点で、県の責任は重いものがあります。
このような問題点を指摘した上で、今後このような事例が起きないよう、工事監督の面でも、公共事業の推進の面でも注意し、早急に県道の危険箇所の整備に取り組むよう求めるものですが、土木部長のご答弁をお願いします。

○土木部長(大山耕二君)
県道白浜久木線の整備につきましては、昭和五十五年ごろから地元関係者の要望を受け、日置川町界へ向けて路面整備や路肩整備を進めてまいりました。平成八年十月に、白浜、日置川の両町で構成される県道白浜久木線改修促進委員会より現道の線形不良箇所の改良及び待避所設置について要望があり、平成九年一月に機械の借り上げ契約を行い、突角部の除去工事に着手しました。
発注後の監督において、県の意図するところと相違が生じ、直ちに工事の中止を命じるとともに、現地の調査を行った結果、この区間の一部の切り取りのり面、及び上部の林地からの落石等が予想されると判断し、平成九年四月に通行どめを行っております。
この問題の処理については、地元の方々の間で意見の不一致があり、問題の解決に時間を要している状況であります。今後は、監督業務の徹底を図るとともに、県といたしましても、さらなる主体性を持って地元の皆様との話し合いの場を設けることにより意見の一致を得て、一日も早く交通の確保に努めてまいります。

はい皆さま、長文お疲れ様でした。

ここに書かれている内容については、書かれている以上の事を私は知らないし、専門外なので説明出来る事も特にない。
一つはっきり言えるのは、県道の整備を推進したい地元団体「県道白浜久木線改修促進委員会」が、県道整備の標準的な手順を超越した手段によって整備を行ったと疑われ、それに対する県の対応が議会で問題化したということだ。
“通告”の看板にもはっきり書かれていた、“関係者”自らが地権者から土地を入手して道路を整備していたという行為が、問題視されたのである。

この工事にまつわるトラブルが実際に発生した「待避所を3ヶ所作る工事」の個所がどこであるかは不明だ。
しかし、トラブルの発生により、この工事だけでなく、県道の整備全体が中断されたのかもしれない。県の対応としては、むしろその可能性が高いだろう。
【車道終点】の周辺が不自然に高規格で、手前の区間がパイロット道路然としているのも、急に工事が中断されたことによるのではなかろうか。



きな臭い出来事があったが、道は死ななかった。
県道白浜久木線の名前は、5年後の平成16年2月の定例会に再び登場する。


○前川勝久君
私自身もかねてから、緊急時に隣町へ抜ける道として、また国道四十二号の補完道として、内陸部に横の線がぜひ必要だと痛感しておりましたが、今回、地元で地震対策についていろいろ議論をする中で、具体的にすさみ町旧佐本村小河内というところから県道上富田すさみ線、日置川大塔線、白浜久木線を経由して白浜町庄川で国道四十二号に通ずるルートが非常に重要であり、地域住民の長年にわたる悲願であることがクローズアップされてまいりました。差し当たり、白浜町庄川─日置川町久木間において普通自動車が通行可能になれば、とにもかくにもこのルートが確保されることになります。白浜町・日置川町・すさみ町の合併の行方も、現時点では定かでありませんが、この地域の緊急時対応として、また中山間地域振興対策として提案いたします。県土整備部長のご所見をお聞かせをいただきたいと思います。

○県土整備部長(酒井利夫君)
県道白浜久木線についてでございますが、紀伊半島沿岸部においては、東南海・南海地震等の災害時における国道四十二号の代替路として近畿自動車道紀勢線が最も重要であると考え、その整備促進に取り組んでおります。県道白浜久木線については、この近畿自動車道紀勢線の整備計画を踏まえ、議員ご指摘のように防災、地域連携、観光振興等の観点から当地域の道路ネットワークを考える中で、その必要性や整備のあり方について検討を進めてまいりたいと考えております。


なにごともなかったかのように出て来た(笑)。

が、具体的な整備に向けた議論は低空飛行な印象で、県土整備部長の答弁からして、当時に何らかの工事が行われていたわけではないことが明らかだ。
この頃は、整備を推進したい人々にとって、長い忍従の時であったかもしれない。火を消さないことが精一杯という感じ。



さて、いよいよ最近の出来事になってきました。
次に登場するのはまた5年後、平成21(2009)年6月の定例会である。
なお、この5年の間に、庄川越を挟んで隣り合う白浜町と日置川町は合併し、新たな白浜町になった。したがって県道も一町内に完結する路線となった。
潮目は……、変わっただろうか。


○町田 亘君
2つ目は、県道白浜久木線についてであります。
県道白浜久木線は、昭和58年にそれまでの県道三尾川紀伊富田停車場線から県道白浜久木線と改称され、現在は白浜町庄川口から旧日置川町久木を結ぶ区間延長10.7キロの県道であります。短い県道であります。しかし、30年近くたった現在、改良された区間はわずか3キロ、未改良区間が7.7キロ、その中でも通行不能区間は半分近い4.7キロもあります。
今日まで地元では改良促進協議会をつくり、県への陳情を重ねてきたところであり、いろいろな問題のあったことは私もよく承知しております。昨年9月に促進協議会の皆さんが仁坂知事に陳情し、積極的に進めようとの御回答をいただきましたが、その後どのような取り組みがなされたのか、また旧日置川町の久木から着工ができないのか、お尋ねしたいと思います。

○県土整備部長(茅野牧夫君)
(略)
県としては、地籍調査が完了し準備が整えば通行不能区間の解消に取り組みたいというふうに考えております。このため、現在、県と白浜町と地元で調整を進めているところでございます。なお、今後の事業の進め方につきましては、地元の調整状況、地籍調査の進展を踏まえまして、白浜町とも相談の上、検討してまいりたいと思います。


あれ?!

なんか急に県の答弁が前向きになったぞ?!

地籍調査が終わり次第、通行不能区間を解消するとか言ってる。
これはもう、時間の問題で全線開通までの工事を行うという、“事実上の建設宣言”のようにもとれるが、果たして?!

ところで、私はこの町田議員の発言内容から、“久木の隧道”(仮称)こと“無名墜道”の謎解き進展に一役かった、県道白浜久木線の旧路線名「県道三尾川紀伊富田停車場線」を知ることになったのだった。
昭和58(1983)年まで、庄川越はこの長い路線名を持った県道の一部であったという。

しかし、この旧路線名からすぐに経路を想像出来るのは、相当地元に詳しい方だけだろう。
まず、終点の紀伊富田停車場というのは、私が今回の探索をスタートさせた紀伊富田駅のことである。偶然にも私は今回、旧県道時代の経路を逆さに辿りながら探索していたことになる。

だが、起点の三尾川(みとがわ)というのは、思いのほかに遠い場所にあった。
それは、東牟婁郡古座川町の古座川渓谷沿いにある三尾川地区である。
県道白浜久木線はわずか10km少々の短い路線だが、旧県道三尾川紀伊富田停車場線は総延長50kmを超える長大路線で、巨大な紀伊半島の半分以上を横断していた。
経路は、現在の県道37号、36号、38号などの一部区間を結んだものであったと考えられる。

もっとも、その長すぎる経路上には、問題の庄川越だけでなく、今も県道36号上富田すさみ線の不通区間になっている法師峠もあり、一路線で二個所以上の不通区間を有する“問題児”だったとみられる。
この長大路線を廃止して、白浜久木線という短い路線に再編したのは、庄川越の改築に専念するためであったかもしれない。(なお、旧県道三尾川紀伊富田停車場線の認定時期は、後に昭和34(1959)年であると判明する。)


町田議員の発言に戻るが、彼は平成21(2009)年当時の県道白浜久木線の状態を、「改良された区間はわずか3キロ、未改良区間が7.7キロ、その中でも通行不能区間は半分近い4.7キロもあります 」と述べている。
その状況を地図に示したのが右図である。

実際に探索を行って目にした実態と、道路管理者(県)が公表している道路状況は、単純には一致していない。
現地で自動車が通行した形跡がない(近代車道のままの)区間は、久木側に2.4kmほどあるだけだが、県が【自動車交通不能区間】「未改良道路」のうち、幅員・曲線半径・こう配・その他道路の状況により、最大積載量4トンの貨物自動車が通行できない区間のことをいう。 に指定している区間は、全部で4.7kmもある。
距離から考えると、山中橋から久木橋までの全区間が自動車交通不能区間になっている。


さて、次へ進もう。
前向きになったっぽい県の姿勢は、このまま工事再開へ結び付くのか。




次に登場するのは2年半後、平成23(2011)年)12月の定例会だった。


○立谷誠一君
まず、県道白浜久木線の道路なんですが、実はこの道路、たしか昭和42年ごろから当時の白浜町と日置川町の双方で、この道路の開設によって山間部の生活環境が格段にようなると、そういう思いと願いの中で協議会をつくり、このことの取り組みがスタートいたしました。その後の取り組みの状況につきまして、県当局の御見解をお願いしたいと思います。

○県土整備部長(森 勝彦君)
県道白浜久木線の白浜町庄川地区から久木地区に至る区間につきましては、昭和58年ごろから逐次整備を進めてきたところであり、平成20年9月に、地元自治会を中心に新しく設立された白浜久木線改修促進協議会から知事に要望をいただいたところです。
県としましては、地籍調査が完了し、準備が整えば、通行不能区間の解消に取り組みたいと考えています。このため、白浜町において平成21年度から久木側の地籍調査を進めていただいており、今後、未実施の庄川側についても、引き続き取り組んでいただくようお願いしているところです。 そのような中、平成22年3月に庄川地区の一部地元住民から過去の用地等の問題で県に対して訴えが提起され、現在裁判を行っているところで、来年2月には判決が予定されています。今後の事業の進め方については、この判決の内容を見て、また、現在進められている地籍調査の進展を踏まえて、白浜町とも相談しながら検討してまいります。


平成21(2009)年度より久木側から未整備区間の地籍調査が始められており、残る白浜側の地籍調査と、その他諸々の準備が出来たら、いよいよ工事を行うという県土整備部長の答弁である。
前回からはまた一歩進んだという印象だ。
ただし、庄川地区の一部住民から県が用地の問題で訴えられているので、その裁判が終わり次第、今後の事業の進め方を考えるという、少し不安な内容もある。

しかしどうやらこの裁判問題は、少し時間はかかったのかも知れないが、円満に解決がなされたようである。



次は4年後、今から1年半前、平成27(2015)年9月の定例会の発言である。

今回引用するのはたった2行だが、これで十分だ。


○秋月史成君
長年、先人の方々が夢見ていました県道白浜久木線も事業化が決まり、工事開始を待つばかりとなりました。紀勢自動車道の開通並びに県道建設に際し御尽力なされました仁坂知事を初めとする県当局の皆様、全ての皆様に、西牟婁郡に住む者として深く感謝申し上げます。

ついに、県道白浜久木線の事業化が決定したらしい。

なお、この約1年前の平成26(2014)年10月27日には、既に地方紙サイト「紀伊民報 AGARA(記事は削除済み)に事業化決定のニュースが掲載されていた。それによると…

(前略)
県道白浜久木線の通行不能区間を整備する。全体の事業費や完成時期は未定だが、同線の改良は地域住民の長年の悲願。11月2日に町や住民が同町久木で「事業化を祝う会」を開く。(後略)

紀伊民報 AGARA 2014年10月27日付け「通行不能区間整備へ 県道白浜久木線」』より引用。

右図は、同記事に掲載されていた地図をベースに作成したものである。
今回事業化された区間が完成すれば、一応は自動車で庄川から久木に行けるかもしれないが、かといって【こんな坂道】とか【こんな荒れ道】をそのままにしてはおけないだろう。これらがある峠前後の区間も「ルート検討中」とあり、将来的に別ルートの新道を整備することが検討されている。




次に県議会で白浜久木線が登場するのは、私が探索を行った翌月の平成28(2016)年2月定例会で、執筆時点ではこれが最後である。

ここでは、前年9月の定例会で事業化決定への喜びと感謝を述べた秋月議員が、紆余曲折の末に歴史的開通へと一歩を踏み出した県道白浜久木線の歴史を総括するように、長い長い「質問」を行っている。
マジで少し長いのだが(笑)、町誌にも載っていないこれまで知り得なかった情報を多く含む、力の入った「質問」であるので、私を大いに楽しませてくれたこの道と全関係者への敬意を込め、関係する全文を掲載させていただく。 これで長文は最後だから、頑張って!! (見やすくするために、少し改行を挿入した)


○秋月史成君
まずは、県道白浜久木線改良計画についてお尋ねいたします。

大正時代、西牟婁郡一帯は県下有数の養蚕地帯へと発展を遂げ、現在の白浜町三舞地域である三舞村において、久木側から庄川に至る街道、現白浜久木線は繭街道と呼ばれ、繭かごを担いだ人たちが盛んに往来した歴史のある道であります。私も、白浜町富田地域に生まれ、祖父と結婚のため旧日置川町に移り住んだ明治生まれの今は亡き祖母から、その時代の様子を子供のころよく聞かされたものでした。

昭和34年5月、和歌山県東牟婁郡古座川町三尾川を起点に、西牟婁郡白浜町富田に至る道路が県道として認定され、紀南の山村地域を結ぶ主要道路としてその使命を果たしつつ、逐次改良工事が行われ、現在に至っております。
この道路の通行不能区間について、昭和42年7月に県道改修促進会が発足し、昭和45年2月議会に当時の県道三尾川紀伊富田停車場線、現在の庄川─久木間の改修拡幅について請願を行い、採択されました。このような経緯を踏まえて、昭和51年春に当時の土木部長、県議会建設副委員長・現二階俊博衆議院議員、日置川町長、白浜町長、関係者100名余りが清流日置川側で昼食をとり、昼過ぎに久木を出発し、繭街道の歴史を語りながら歩き、庄川会館に到着したのは夕暮れ迫る時間だったと聞いております。

当時、この道を歩かれた青年もはや60歳代、働き盛りであった方々も80歳代、90歳代となられております。昭和50年に県議会初当選なされ、一緒に歩かれた二階俊博衆議院議員も、先月2月17日、77歳となられました。今か今かとこの道路の開通を待ち焦がれていた方も、故人になられた方が多数となってしまいました。
昨年12月12日にお会いした促進協議会の方々からは、「冥途の土産に一度きれいになったあの道を通ってみたい」と、切実な思いを語っておられました。しかし、長きにわたり紆余曲折はありましたが、促進協議会の方々の熱意は決して消えることはなく、懸命に献身的活動を続けてまいりました。

このような経緯を踏まえる中、一昨年、県当局の御英断により、平成26年8月13日に現地にて事業着工の報告会、11月2日に事業化を祝う会が行われ、平成27年12月には現場で準備工事が発注され、引き続き本体工事も発注され、今、まさに工事が大きく前に一歩進もうとしております。この壇上をおかりいたしまして、御英断を下されました仁坂知事を初め、県当局の皆様、地元関係者の皆様に、そして今は亡き先人の皆様に深く感謝いたしますとともに、その長年の御尽力に敬意を表します。

この道路が完成することにより、紀南地方有数の河川である富田川、日置川が道路で一直線に結ばれ、また久木側からすさみ町、古座川町へもつながり、利便性の向上、災害時の迂回路確保の面からも期待の持てる道路となり、紀勢自動車道南紀白浜インターチェンジ、日置川インターチェンジを利用した観光客の取り組みについても、非常に期待を持てることとなります。 また、旧白浜町、日置川町の合併10周年記念式典において、工事の着工を仁坂知事、二階俊博衆議院議員御臨席のもと、地元の皆様と餅まきもし、大変喜んだ次第であります。

さて、現在の白浜久木線の状況は、県道日置川大塔線から枝分かれする箇所から約4.7キロが交通不可能な区間となっており、その先、庄川までの約3キロも通行困難な状況となっております。平成26年度から、白浜町久木側で地籍調査が完了している区間のうち2.7キロについて事業化がされております。この事業区間の西側、白浜町庄川側については、約2キロの通行不能区間が残ることになっております。つまり、3キロと2キロを足した5キロについて、事業化がされていないことになります。通行不能か通行困難箇所となります。

現場の工事の状況を考えますと、白浜町久木側の日置川沿いからこの工事現場予定地を見る限り、私も土木技術、土木作業の素人ながら、かなりの難工事であると推測できます。道路は、つながってこそ初めてその効果が発揮されるものであります。道路をつなぐために、その残りの通行区間の事業化がぜひ必要ではないでしょうか。現在の工事区間を含め約7.7キロ、通常ならばかなりの歳月を要する工事になると思われますが、早期開通に向け、現在の白浜町久木側からの工事とあわせ、白浜町庄川側からも工事を進めていくことが必要ではないでしょうか。

現在、地籍調査が進められている庄川側の区間については、平成29年度に地籍調査が完了いたします。現在の2.7キロの改良工事の後に続けて2キロの改良をするのであれば、先ほど述べたとおり工事も大変だと思われますので、久木側からの片側工事では道路がつながるのがいつになるのかわかりません。ぜひ地籍が終える平成29年度から、白浜町庄川側からも事業化ができないものかと思います。 残された工事延長を考えたときに、両側からの工事着工をすることが必要だと考えますが、県当局の御英断をお願いしたいと、私も、地域住民、また先人の方々も願っていますが、県当局の御所見をお願いいたします。

○県土整備部長(野尻邦彦君)
県道白浜久木線につきましては、地元がその整備を長年待ち望んでおられ、また、旧白浜町と旧日置川町が合併して誕生した新しい白浜町が1つの町として一体的に発展するために欠かせない道路だと認識しています。
県としましては、庄川地区住民からの訴訟問題が解決したのを機に、平成26年度に通行不能区間4.7キロメートルのうち地籍調査が完了した久木側の約2.7キロメートルの区間について事業化し、今年度、用地取得ができた久木橋付近の工事に着手したところでございます。

今後、この事業中区間の用地取得や工事を精力的に進めるとともに、残る通行不能区間についても、地籍調査が完了し次第、事業に着手できるよう準備を進め、全体としての早期完成に向けて取り組んでまいります。


読破、お疲れ様でした。

“繭街道”とは、とても良い名前!
あの恐ろしげな絶壁の小隧道(結局、隧道が明治8年に整備されたというソースは得られず)を、大きな繭かごを背負った人々が行き来したというのは、想像するだけで情感がある。

おそらく、この地方における養蚕の集散地は、人口が多く交通の便がよい白浜側であっただろう。ゆえに、生産地である久木側の住民が多く峠を利用した。そんなことから、庄川へ向かう峠として“庄川越”の名がついたのだと思う。
対して『町誌』の中の郡道廃止に関する記述では、同じ峠を「小谷峠」と呼んでいたが、これは峠の久木側にある谷が【鍋津呂小谷】であることとの関係が疑われ、おそらく白浜側の住民がそう呼んだのであろう。

次いで印象的なのは、昭和45年2月に峠を歩いたという、いわゆる“大名行列”のエピソードだ。
近年ではあまり聞かないが、昔は政治家がその地盤とする地方の(改良が要望される)峠道を歩くことは、よくあることだった。
日本一短い県道トンネルを、二階俊博(和歌山県御坊市出身)現自民党幹事長も歩いていたということになる。余りロマンなど感じないかもしれないが、こういう話しが記録されることは案外少ないので、面白く感じる。

そして「質問」の後半からは、今後の整備方法についての現実的な要望になっていく。
まあ、今後のことについてはさておくとしよう。
それよりも、我ながらなんというタイミングであったのかと驚いている。

私が何気なく探索を行ったのは、この道が近代車道的な道路原風景を残していた最後のシーズンだったかもしれないからだ。
読者さまより寄せられた情報によると、私が探索した4ヶ月後の2016年GW中に久木側から探索しようとしたところ、既に多くの重機が入っていて、断念せざるを得なかったおぶこめ no.24796)という。

なお、県土整備部長の答弁からは、平成9年頃より長らく進展のなかったこの県道の整備計画がクローズアップされた背景に、平成18(2006)年の旧白浜町と旧日置川町の合併があったことが伺える。
これは、合併後にはじめてこの県道が議題に上がった平成21年6月の定例会で、急に県の答弁が前向きになっていた事実とも符合する。
市町村の合併交渉ではしばしば、合併後に削減集約される公共施設へのアクセス性の確保という観点から、合併自治体間を便利に交通出来る道路の整備が問題となる。特に交通不便な地方部における合併では重要な要素となり、今回のケースでも旧日置川町側にとって特に重要な交渉条件であったものと推察される。

思えば、庄川越が郡道から村道へ降格した原因となった大正時代の郡制廃止は、行政の合理化を狙ったものであった。
そして平成の世で同じ目的を持って行われた町村合併が、今度は庄川越を引き上げる役割を果たしたである。
こんなローカルな峠道でもこうなのだから、道と政治の絡まり合った根の深さを、改めて認識せざるを得ない。


B これからの庄川越  〜〜日本最短トンネルの今後について〜〜

これを執筆している平成29年現在も、県道白浜久木線のうち、久木側から2.7kmの事業化区間で新道の工事が進められているはずだ。
開通までの期間や詳細なルートは分からないが、レポート第5回以降に紹介した区間は、大掛かりな変化を余儀なくされることだろう。
しばらくは久木側から立ち入る事が難しいかもしれない。

とはいえ、やっと工事が始まったとは言っても、秋月議員も発言している通り、7.7kmもある未改良区間がすべて開通するまでには、なお相当の年月がかかるであろう。ここでうっかり未成にでもなったら、再び悪いニャンコを呼び寄せることになりかねない。
はたして、地元の猟師も楽しみにしていた新道が開通し、“関係者”の執念が籠もった剣呑な通告看板が、万歳三唱の中で撤去される日が来るのか、楽しみである。

さて、この項で紹介する記事は、今のところ一つだけだ。
率直に言って、現在の事業中区間にあるものの中では最も失われることが惜しい“無名墜道”。
その今後を占う記事である。

平成29(2017)年1月24日付けの日刊建設工業新聞に、白浜久木線の久木地区に建設される「(仮称)久木トンネル」工事の一般競争入札が12月7日に行われ、7億2900万円で落札されたとの記事が掲載された。
記事によれば、建設されるトンネルは全長329m、幅員6.5m、工期500日の計画であるという。

私はこの記事の内容から、建設される新トンネルの位置を右図のように予想している。
図中のトンネルの長さは、330mである。
遠からず正式なルートが新聞などに掲載されであろうが、私はこの新トンネルの位置には自信を持っている。
そしてもしこの通りに新道が建設されるならば、【猟師と会った切り通し】【上下二段の切り通し】、そして“無名墜道”は、破壊されずに残る。


つか、そうしてくれぇー!!

あと、出来れば遊歩道化も禁止で。せめてやるにしても、擬木コンクリートの手すりの持ち込みは禁止で! そこだけはお願いしたいッ!





大正末期、全く青天の霹靂的な政治的都合により、郡道から村道へ墜(お)ちたことが、この道にとって長い苦境の始まりであったように思う。
そのとき自らの村道を整備すべく、多大な出費と労役を買って出た庄川区の人々の心中には、“繭街道”として大勢が行き交った峠の繁栄を、子孫に残したいという想いがあったかも知れない。
しかし、このときの整備は遂に果たせず、やがて道路整備というもの自体が、行政の領分としてどこか縁遠いものなっていった。

そうして時代は変わったが、庄川区の子孫を多く含む“関係者”は、父母が行った整備手法を忘れなかったし捨てなかった。
そのことで行政と衝突することもあったようだ。日々智慧を絞り、時に批難を受けるくらいには身勝手でもあったかもしれない。
だが、比較的に小さなコミュティの中で三四半世紀以上にもわたって同じ道を求め続け、行動を続けたことは、単純に驚嘆すべき“人の力”だと思う。

まだ “彼ら”の望むゴールに辿り着けるのかは分からないけれど、私が長生きであるならば、ぜひとも見届けてみたい。
探索を修め、レポートを完結させた今、そのくらいには寄り添った気分になっている。