廃線レポート 早川(野呂川)森林軌道 奥地攻略作戦 探索後机上調査編

公開日 2026.02.05
探索日 2017.04.14
所在地 山梨県早川町〜南アルプス市

 探索の総括と探索後机上調査編


まずはここまでの長編をお読みいただき、大変おつかれさまでした。
今回は、2011年及び2017年の探索の成果総括と、探索後机上調査の回です。
2017年4月の探索以降現在(2026年2月)までに行った文献調査の内容が主な内容です。

次の表は、ここまでの本編中でまとめた、ミニ机上調査回の一覧です。
途中の回の中で色々なテーマのミニ机上調査を行っていますので、これらと重複する内容は今回出来るだけ省きましたが、早川林鉄についての文献自体が少ないので、やむを得ず再度引用したものもあります。


机上調査回(リンク)主な内容
・探索前机上調査早川林鉄の全体史、探索前に把握していた文献の紹介
・ミニ机上調査編(1)謎の索道跡の正体について、ドノコヤ鉱山
・ミニ机上調査編(2)謎の軌間610mm軌道について、ドノコヤ鉱山
・ミニ机上調査編(3)謎のレール刻印について
・ミニ机上調査編(4)鮎差古道および野呂川流域での初期の林業開発について
・ミニ机上調査編(5)先行者“秦野ご夫妻”の探索について
・探索後机上調査【←いまここ】探索の総括、探索後の文献調査




ここまでの探索の総括とは、本編レポートの導入回から最終回までの総括であり、探索の実施日としては平成23(2011)年1月3日、平成29(2017)年4月13日、翌14日の3日分である。
これらの探索で早川林鉄の軌道跡を約20km踏破し、そのうち林道化しておらず正確な地図もなかった軌道跡を14km近く解明した。

以下に総括として3枚の地図を掲示する。いずれもクリックで大きく表示できる。

@探索全体図A隧道位置B100m以上の未探索区間




ここからは、探索後の机上調査編である。


早川林鉄は、現在の早川町と、南アルプス市の旧芦安村の区域に跨がって存在していた。
2017年の探索以前から『早川町史』は確認済みであったが、『芦安村誌』(平成6年発行)は未確認だった。
探索から戻った私はまず、この村誌にあたってみた。

1226ページの大冊である『芦安村誌』は、同村面積の半分以上を占める野呂川流域の開発や利用について、かなりの誌面を割いて解説してくれていた。既に本編中でも一部を引用して活用している。
中でも野呂川林道の建設については詳細な記述があったが、その前身ともいうべき早川林鉄についても、『早川町史』よりは多くの記述がなされていた。

当該部分の全文を早速紹介しよう。
(とにかく数が少ない早川林鉄の文献資料ですから、一行ずつ、目ん玉をかっぽじって読んでください!)

トロッコ林道の建設を急ぐ(昭和14年)

木造船などの原木を切り出すため、芦安村深沢から西山村(早川町)早川橋を結ぶ、早川森林軌道の建設が急がれた。前年7月23日には、土居章平知事をはじめ県の課長3人、県会議員らが入村、森本文雄村長らの案内で、沓沢河原からトロッコ軌道の建設予定コースを視察した。昭和14年に着工、同17年には全長54キロメートルのトロッコ軌道林道が完成、太平洋戦争中の林産物搬出だけでなく、西山温泉の湯治客にも利用されるようになった。野呂川林道の完成に伴い、その使命を終えた

『芦安村誌』より

二箇所の下線部が、これまで読んだ資料にはなかった新内容である。

着工の前年に県知事や県会議員が村長の案内で軌道の建設予定コースを視察したことや、“木造船”(=軍用船)建造用の原木搬出が目的であったことが新たに分かった。
これだけのメンツで視察が行われたことには、本事業への県の強い意気込みを感じることが出来る。結果が重大なので当然と言えば当然だが、やはり生半可な覚悟ではなかったらしい。

しかし村誌の記述には正確性を欠いている部分もある。
例えば、全長54kmという数字や早川橋という起点の地名などは、正しくは、この昭和14年からの工事のものではない。実際には昭和8年の時点で早川林鉄の起点は早川橋から新倉へ移っていた。
また、早川林鉄の名誉を守る意図があった訳ではないと思うが、この昭和14年から延伸された奈良田以奥の区間が不成績に終わったことについても言及が無い。

ともかくこの『村誌』の記述により、奈良田以奥の軌道延伸工事は、県の肝いりの事業であったことが分かった。
そして、この工事の完成を祝して書かれたのが、探索前机上調査回から引用している昭和18年の雑誌『風景』の記事である。
再掲になるが、現地を知った今だからこそ読み取れることもあるかもしれないから、改めて見ておこう。

早川林道

山梨県南アルプス山麓野呂川奥地一帯の恩賜県有林は昔から斧を入れた事がない大深林で、天然の古木は倒れたままに朽ちているといわれ、それは全くすばらしいものであった。其の面積1万2883ヘクタール、総蓄積174万5千立方米、之が開発を眼ざして林道設置の工事に着手したのが昭和14年3月難工事全く言語に絶するものあり、幾度か中止のやむなきに至った。しかし全県民のひるまざる熱誠と近村住民の涙ぐましき努力とにより遂に本年6月目出度竣工を見るに至った。総工費80万円、車道は早川右岸より三里村新倉まで2万米、軌道新倉より芦安村芦倉まで5万4千米、中でも奥地である表観音・裏観音・猿なかせ等は最難所として幾多の犠牲者をも出している。風光は実に壮快凄絶にして身の毛のよだつ処の沙汰ではない。
本村に対する国家の要求が今日程切なのは我国開闢以来ない事であり、此無尽蔵の宝庫から此林道を通じて供出さるる木材こそ実に意義深いものというべく、今日に備えて必死挺身して来た甲州人士の意気は激賞してあまりあると言い得よう。

『風景』(昭和18年11月号)より [再掲]

この記録も距離の誤りがあるが(新倉より芦倉(芦安村の旧名)まで54kmは正しくない)、大変な難工事であったことや、工事中に「幾多の犠牲者」を出していることが出ている。
ただし、この難工事の具体的な有様については、現時点までの文献調査によっても、新情報は得られていない。

そしてさらに、この軌道延伸工事の結末についても、やはり以前より引用済みだが、東京営林局刊『東京林友 第19巻第2号』(昭和41年7月号)の特集記事「南アルプスと野呂川けい谷」の内容を再掲しておこう。

森林軌道を敷設して、早川方面から、この地域の森林資源の開発に着手しましたが、沿線の立木約3万石を伐採搬出したのみで、ぜい弱な地盤と、相次ぐ災害のため、軌道のいたるところに大被害を受けて、この復旧に困難をきわめ、ついに廃道として放置しなければならなくなってしまいました。この廃道は今でもその形跡が観音経トンネル付近から深沢にかけて切れ切れに散見されますが、当時の困難を極めた開発事業の苦労が偲ばれます。したがって、この地域の森林資源は、下流の一部を炭材として利用したのみで、嶮岨な地形と搬出困難のため、全く天然林のまま近年まで死蔵されてきたのであります。

『東京林友 第19巻第2号』(昭和41年7月号)より [再掲]

また、『早川町史』にある本区間の軌道についての記述を抜粋すると次の通りだ。

トロ運送特に荷物の下りは危険度も決して低いものではなく、新倉以北でトロ運送に依存した18年間に数人の犠牲者を出しており、道路の維持管理は、道路敷地盤の関係や桟道の多いことも影響し、新倉―奈良田間を辛うじて維持したものの、奈良田以北深沢までの間は、昭和25年頃には既に全線通行は不可能になっていた。

昭和18年 奈良田以北深沢までトロ完成 山梨県林道
昭和20年 同奈良田深沢軌条撤収 廃道

『早川町史』より

奈良田以北の軌道廃止年を昭和20年と明確に記しているのはこの記述だけであり、他の資料が未だに見つかっていないが、そもそも軌道延伸の目的が戦争遂行のための木材増産であったのだから、間違いが無いことだと思う。


次に紹介するのは、国会図書館デジタルコレクションの全文検索が出来るようになったことで最近新たに見つけた文献だ。
森林資源総合対策協議会が昭和39(1964)年3月に発行した機関誌『グリーン・エージ 第14巻第3号』掲載の「野呂川林道を見る」という記事である。
主題は、当時開通したばかりであった野呂川林道だが、プロの林業家の目線で書かれたものであり、早川林鉄に関する新たな、かつ私の現地での疑問の答えとなりそうな重要な知見が含まれていた。数ヶ所抜粋して引用する。

……利用区域面積約13000ha、蓄積約220万㎥と称する奥地未利用林(おそらく一団地としては我が国民有林中随一の宝庫であろう)は全部が山梨県有で野呂川事業区に属し、一括して水源涵養林に指定されている。だいたいこの地域は奥へ行くほど林相もよく、蓄積も多いので、林道が効用を発揮するのはこれから奥である。

……昭和14〜17年には早川橋から深沢の尾根に通ずる(これは夜叉神を越さず)54キロの森林軌道がつくられたが、沿線の8000㎥を出材しただけで放棄された。地盤が弱いのと、豪雨のために維持できなかったのだ。かくて今日まで天然林が死蔵された。

……深沢では戦時中緊急伐採が行われ旧軌道による搬出が計画されたが軌道の災害のため果たされずに終わった地区である。当時の工場位置にはなお丸太が腐りながら残っている。この工場付近は……林道の開通後は県直営の伐採が行われ、林道橋梁の上流に集材が行われている。

『グリーン・エージ 第14巻第3号』より

私が現地で感じた大きな疑問点 〜〜なぜ深沢が早川軌道の終点になったか〜〜 の解答が、ここにあると思う。

野呂川流域の森林の特性として、上流部ほど林相が良く、蓄積量が多いというのだ。

早川林鉄を歩いてみてよく分かったが、奈良田から深沢までの経路は全然にわたって急峻な谷沿いであり、林業に適する地形ではないし、実際に林業が営まれていた形跡もほとんどなかった。
こんなところに軌道を敷設して、いったい何が目的だったのかと真剣に思ったほどだが、おそらく設計者の考えとしては、途中の経路は経路に過ぎず、目的は上流の奥地林であったのだ。

その奥地林の優れた林相とやらを、私は最後に深沢尾根を一瞥して引き返しているから実感が乏しいが、プロが「全国の民有林中随一」とお墨付きを与えるほどなのだからホンモノだろう。
このことは、当然ながら土地の林業家たちには古くから知られていたであろうから、きっかけさえあれば、搬出路を整備する動機として必要十分なものであったのだろう。

そしてそのきっかけは、開戦であった。
軌道終点の深沢尾根で太平洋戦争中に緊急伐採が行われ、大量の丸太を工場位置に集めたが、出材ができず腐りながら残っている……というのである。
この出材出来なかった悲しい丸太の残骸が今も残っているかは分からないが、深沢終点の近くにそのような明確な事業未遂の痕があったというのは、早川林鉄の失敗を裏付ける衝撃的な新情報である!

……いやはや、伐採までしたのに、運び出せないまま朽ちたなんて、さすがに悲しすぎだ……。
現地で見た様々な軌道跡景色の印象が、一層悲痛なものになったカンジが……。



軌道のリアリティに新たな肉付けが出来たところで、ミニ机上調査編(4)の“書き残し”を、忘れずに紹介しておこう。

軌道が廃止されて間もない時期の登山ガイドに、観音経から深沢までの区間の軌道跡が登山ルートとして紹介されていた。
朋文堂が発行した雑誌『山』の昭和25年8月号に掲載された、「北岳への最短ヴァリエーションルート」という記事だ。
以前も書いたように、これは現時点で私が把握しているものとしては唯一、今回探索の軌道跡を登山道としてガイドした内容を含む資料であるが、以前は次のところまでで慌てて引用をストップした。(未探索領域のネタバレになると思ったから)

早川林道 ― 野呂川遡行 ― 広河原小舎

夜叉神峠に立つといきなり横っ面をびーんと張り手でたたかれる感じで白峰三山が眼の中に飛びこんでくる。(中略)
ここで右に辻山への踏跡があるが真直ぐに野呂川への下降路を下ると約20分で軌道に出る、そのままこれを横切って尚も真直ぐに下れば鮎差へ下って荒川谷の蝮平小屋へ着くのであるが、この軌道がいわゆる早川林道であるから、これを右に忠実に辿るのである、この軌道は芦安鉱山の北1744のピークから始まり、高谷山―夜叉神峠―辻山の西斜面を殆んど等高線に等しい高度で辻山から野呂川に落ち込んでいる支稜の末端まで続いているのだが、終戦と同時に使用中止となりそのために到る所で山崩れの土砂の押出しで荒廃しきっている。

軌道沿いのルートは始めは幅広く歩き易いが、細い小沢を一本横切ると隧

雑誌『山(昭和25年8月号)』より [再掲]

……と、ここでストップしたのであるが、続きはこのようになっている。(↓)
一緒に掲載されている図(→)と一緒に、ご覧ください。

(つづき)
……細い小沢を一本横切ると隧道が現われる殆んど埋まっているえらく気分の悪いこの隧道を這う様にしてぬけるのだが釣人と狩人の労作が僅かながら土砂が撒出されている、これをぬけると二本目の支沢が急角度で落ち込み土砂の押出しのためとこのガレ場のトラバースは相当に悪いがこれを通過して向う斜面の軌道切れ口に取り付けばしめたものだ、だいぶ歩き難くなった道は二、三の嫌な支沢を乗り越してゆくと右側に営林署の小舎が見られるが屋根が朽ちていて使用には堪えない。
釣尾根の広大な尾根が真正面となり、野呂川は脚下に蛇行して大崖頭山からの支稜をすぎると又右手に小舎があるがこれも使用不可能である。深沢を渡る頃から軌道は次第に低くなって野呂川が接近してくる。辻山から落ちこんでくる支稜をゴトゴト沢の対岸にみる頃この軌道は終わってこれからはともすると見失い勝ちな踏み跡を進む様になる。

雑誌『山(昭和25年8月号)』より

いかがだろうか。
下線部がちょうど、カレイ尾根からアザミ沢(観音経)までの私の未踏破区間に該当する。

昭和25(1950)年の時点で既に、極めて難路であったことが、よく伝わってくる。
「嫌」や「悪」のオンパレードじゃないか……。
それでも、一応は全て通り抜けられていることに驚くが…。全て、私が対岸の林道から目撃した、踏破不能領域の話である。

くわばら、くわばら……。



次に紹介するのは、より足で稼いだ資料である。
国会図書館デジタルコレクションで見ることができず、相互貸借で自宅近隣の図書館へ取り寄せることも出来ない、私が直接に霞ケ関の農林水産省本館1階にある林野図書資料館へ出向いて、だいぶ肩身の狭い思いをしながら閲覧・複写をした稀覯資料だ。

とはいえ、『早川林鉄の全て!決定版』 なんて資料があるはずは無く、あくまでも地道な未知の外堀を埋める作業の一環であった。


『夜叉神隧道工事』より

(林野図書資料室所蔵資料 その1)

タイトル: 夜叉神隧道工事

著者・発行年:
山梨県林務部森林土木課 編集・昭和33(1958)年 

まずは、夜叉神隧道ファンが泣いて喜びそうな、この一冊。

夜叉神隧道工事の全てが詰まっていると言っても差し支えのない詳細な工事記録書であるが、軌道に関する記述はたった一つしか見つからなかった。
その箇所を紹介する前に、私の軌道跡探索を成功へ導いた功労者である本隧道への敬意を表する意味も込め、序文を紹介しておこう。

野呂川流域はその利用区域面積13000町歩にわたり、この地域に包蔵される森林資源は780万石に達しているが、標高2800米に及ぶ鳳凰山系によって甲府盆地と完全に隔絶されているため、古来より数多くの計画にもかかわらず開発は不可能視されて来た。偶々昭和26年奥地林開発が国策として大きく取上げられ、本県においても林野庁と協議の結果、この流域の広大な未利用資源開発が最も意義あるものと認められ、奥地開発林道として計画立案された。しかし、鳳凰山系は地質上有名な大地溝フォッサマグナと大断層糸魚川、静岡線のほか、数条の複断層が状在して悪質な断層破砕帯を形成しているため、ここに隧道開削の成否が野呂川開発の鍵を握るものと推定された。よって林道の基礎調査と共に、路線及び地質等精査の結果、夜叉神峠に隧道を開削することが最適の方途であると確認され、標高1394米のところに林道としては本県のみならず、我が国最大のスケールを持つ延長1148米の夜叉神隧道が実施計画に移され、昭和28年3月工事請負契約と共に実行の運びとなった。(以下略)

『夜叉神隧道工事』(序文)から

『夜叉神隧道工事』より

この文献にあった早川林鉄に関する唯一の記述というのは、本文中ではなく、附属する「野呂川林道実測平面図」という大縮尺の図面であった(→)。

夜叉神隧道が主役であるこの図面の端の見切れるあたりに、カレイ沢からアザミ沢の観音経辺りが写っていて、よく見ないと気付かないほど薄っらとだが、「旧早川軌道」の注記を持つ線が描かれていたのである。

これは、いまだかつて5万分の1以上の正縮尺地図に描かれたところを見たことがなかった軌道の極めて詳細な地図であり、既に歩けない状態だったからか、観音経内部では意図的に消されたような気配があるのは残念だが、途中に2本の隧道(黄色○印の部分)が描かれ、そのうち右の1本は私が現地で発見するも立ち入れなかった【隧道】であり、左の1本はカレイ尾根の先端で、現地では辛くも辿り着けなかったが【“切り通し”を想定していた場所】であったため、この資料によって本編探索で合計24本とした認知済隧道総数を“+1”することになった!!!

これは重大な成果であり、今後の探索で再調査をするうえでの大きな目標となった。




『荒川索道』より

(林野図書資料室所蔵資料 その2)

タイトル: 荒川索道

著者・発行年:
山梨県林務部森林土木課 編集・昭和33(1958)年 


『荒川索道』より

荒川索道は初めて登場したワードであるが、野呂川林道と共に建設された、同林道に接続する大規模な林業用索道だった。
昭和30年代に建設された構造物であるから、いよいよ軌道とは関わりが無いが、本資料に収録されていた荒川索道の工事写真に、開通当初の野呂川林道の写真(それも軌道を林道へ転用した区間)がふんだんに使われていたので、参考としてご覧いただこう。

が、まずは簡単に荒川索道とはなんぞやという話をしておこう。
これもいまは存在しない索道なので、興味がある人もいると思う。

山梨県の綜合開発の一環として芦安村の奥地である野呂川流域面積12800町歩蓄積780万石の開発を目指して昭和27年に着工した野呂川林道は、林野庁の指導の下に着々と進行して昭和32年度末にて、延長12000米の林道工事が終了した。その間自力索道、集材機等により年間約15000石の木材を搬出したが、野呂川流域の中の宝庫とも云われる荒川流域面積300町歩、蓄積200万石の眠っている原始林に挑まなければ指定年伐量に達しないのでこの開発が焦眉の急であった。

昭和30年、31年の両年にわたり東大教授加藤誠平氏、助手丸山正和氏の御踏査によって県の意図する開発方法に光明を見出し、荒川索道建設への計画が立案されたのである。そして昭和32年度国庫補助林道事業として荒川索道の建設が認められこれを完工したのである。これにより集材機→支線索道→幹線索道→自動車道(野呂川林道)の運搬経路を辿って木材は搬出されることとなる。(以下略)

『荒川索道』(序文)から

同書によると、荒川索道は野呂川林道の小鷲沢附近と、野呂川の右支流荒川左岸の“吊尾根”中腹を結ぶ、全長約3500mの複線複軌連送循環式索道で、1日255石の搬出能力を有するものであったという。同形式では国内最大級の林業用索道とされ、野呂川を渡る中央径間の長さが1400mもあったことが特筆される特徴であった。

また同書の興味深い内容として、野呂川林道と荒川奥地の伐採地を結ぶ、索道以外の搬出方法の比較検討がなされており、そこには全長8kmの支線林道を開設する比較案や、全長10kmの軌道を開設する比較案などもあって、もちろんこれらは経済性や運用効率の問題から選択されなかったのだが、この期に及んでまだ、野呂川奥地に新設の林鉄を建設する案があったことは記しておきたい。




『荒川索道』より

現地探索では全く意識に上がらなかったが(知らなかったので)、上図の赤線の位置に、荒川索道がかつて存在した。
しかも、これは野呂川林道と同じ、県営林道の一施設としてであった。
林道としての道路名が「○○林道」で、その方式が「自動車道」であったり「軌道」であったり「牛馬道」であったり「索道」であったりしたに過ぎない。
そういう意味では、早川林鉄も野呂川林道も荒川索道も皆等しく山梨県営林道であり、違いは方式だけだった。

図の「卸土場」というのが索道の終点(荒川より降ろしてきた原木を野呂川林道のトラックに積み込む土場)であるが、索道工事の直前に撮影したとされる同地点の写真がこれだ。(→)

林道の路肩に小さな平場があり、林道進行方向には切り立った崖を洗う下に穿つ短い隧道が見える。
この場所の現在の風景がチェンジ後の画像である。
写っているのは林道の第6号隧道だ。
この隧道は軌道時代の隧道を転用したものと現地で判断したが、林道開通当時から軌道の痕跡は既になかったことが分かる。


『荒川索道』より

そしてこれが卸土場の完成後の全景写真だ。
前の写真とは逆向きの撮影で、林道の上空に渡された鉄索や、吊り下げられた原木が見える。
背後に見える沢が小鷲沢である。 ここに降ろしてトラックに積みかえていたわけだ。

チェンジ後の画像は同位置の今回探索時の写真だが、残念ながら向きは逆だ。
しかし、索道があった事に自然と気づくような遺構は、何も残っていなかったと思う。
建物なども無かった。



『荒川索道』より


さて、ここから強烈な写真が2枚ある。

まずは1枚目。

これも同じ卸土場の高い位置から索道の進行方向を撮影した写真である。
まず、林道上に2本のトンネル(6号、7号隧道)が見える。
これらはいずれも軌道隧道の転用と考えられている。

その少し奥に、絶壁をL字型に削ったような地形が白っぽく見えているところがあるが、実はそこに索道の二号支柱が設置されている。
この二号支柱が立てられている場所を、林道は【第8号隧道】で潜っている。
そして、その第8号隧道の脇には、【林鉄の廃隧道】が残っていた。

この写真では、遠いために、二号支柱自体もほとんど見えないのであるが、なぜこんなことを説明しているかというと……

次の写真を見て欲しい。




『荒川索道』より

この写真の被写体が、索道の二号支柱であり、よくぞこんなトンデモナイ絶壁に支柱を建てやがったなと驚かされる1枚なのだが、

この写真には、

ほとんど誰もが正体に気付かないだろうものが写り込んでいる……。

支柱の真下の絶壁に見切れた黒い影……。


軌道隧道ですw

私が辿り着けなかった、あの隧道。

あの隧道の真上に、荒川索道の支柱が建っていたのだ。

その工事に軌道跡を使ったかは、全く記録がないので不明だが……。
絶対に人間には行けないだろうと思ったような場所が、実は何度も人間によって踏み荒らされていたという……、全く以て人間の執念というのはヤバいね。
大好きこの執念。


この映り込みに気づいた人、ゼロ人説ある。


まあ、それだけなんだけどね、面白いでしょw

で、一応この荒川索道の顛末も調べてみたんだが、あまりはっきりした記録を見つけられなかった。
先ほども引用した昭和39年の『グリーン・エージ 第14巻第3号』のレポートに、「鷲住山の手前に荒川索道の終点土場がある。この索道は長さ20キロ余、東洋一という。」とあって、当時健在の模様。
だがその後の廃止・撤去の記録は未発見である。

林野庁資料室での調査報告は以上だ。






色々調べたつもりだが、早川林鉄は本当に一次資料が少ないうえ、二次資料といえるものもかなり限られている。
そのうえ、最終的には野呂川林道の成功という、誰もが偉大だと考える結末にまとめられてしまう傾向がある。
早川林鉄を主役とした記録が本当に少ないのである。

そんなわけで、最後も軌道の話ではなく恐縮だが、古くからこの地域に伝わる、野呂川の開発の難しさを象徴するようなエピソードがあるので紹介しよう。
皆さまは、“野呂川話(のろがわばなし)という言葉を、聞いたことがあるだろうか。


野呂川開発の由来

この地域の開発は古く300年前、徳川時代から野呂川疎水事業として、原七郷といわれる白根町(旧飯野村外10ヶ村)の住民が野呂川の水を利用して、約2000haに達する高燥地帯の水田化を計画したが、夜叉神峠を4500mのトンネルで貫くことは、技術及び経済の上から見て当時は極めて困難な事業であるばかりでなく、下流の甲西町(旧南湖村藤田村)附近一毛湿田地帯の住民が地下水の上昇をきたすという理由で反対し、多年の要望にもかかわらず容易に実現出来なかったのである。

明治時代になってトンネル開削により落差を利用する発電と、水路を利用する木材搬出と、交通を兼ねた綜合開発が立案され再三当局に陳情したが、前記下流民の反対がますます猛烈となり、実現は全く不可能視されるに至って、俗に実現出来ない事を「野呂川話」とまでいわれるようになった。

『山梨県恩賜県有財産御下賜50周年記念誌』(山梨県/昭和36年発行)より

この引用した文章も。最終的に野呂川林道の成功という事績へと集約する前文なのだが、明治期に野呂川の水を夜叉神峠越しに富士川へ導水するという先進的な発電計画のみならず、この水路トンネルを木材搬出や交通にも利用しようという令和の今日でも実現していない壮大な綜合開発構想があった事に驚かされる。(現在、夜叉神峠がある鳳凰山地を貫くリニア新幹線の南アルプストンネルや、その関連工事として新夜叉神峠トンネルともいうべき県道の新トンネルが建設されつつある)

実現が出来ないことを「野呂川話」と呼ぶという、悲しき非実現の呪縛は、野呂川林道の成功でおしまいになって、今はこの言葉も死語となったが、その暗き伝統の最後のページに、非実現ではなく、実現の先で手痛い敗北を見た、早川林鉄の奥地延伸という熾烈な挑戦があったことを忘れない。
負け戦こそ面白いなんて、さすがに命を賭けて言う気はないけど、早川林鉄は私の中で、負けが伝説になった存在だ。

基本的に今回の探索には「やりきった」という感想があり、残る未解明区間の探索は、リスクの割に大きな成果を期待しづらいこともあって、優先度を高くは設定していないが、とはいえ行かないとは言っていない。
いつかまた、生きていれば、追記もしましょう。


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