廃線レポート 千頭森林鉄道 奥地攻略作戦 帰還編 第3回

公開日 2019.07.12
探索日 2010.05.05
所在地 静岡県川根本町

左岸林道31.0km付近 栃沢を越すが……


2010/5/5 18:22 《現在地》《標高図》

釜ノ島小屋から2.7km、林道沿いにスギの植林地が現われた。
昨日自転車で走った麓に近い区間では見たが、奥地では初めて目にした。

この辺りでは谷底を走る軌道沿いでも多くの植林地を目にしており、天然林の伐採に重点が置かれていたといわれる千頭山国有林の経営においては、おそらく例外的に、人工造林による継続的な林業経営が行われていたようだ。
周辺が千頭山では珍しい比較的穏やかな地形であることと、林道からのアクセスが容易いということで、造林が行われたのだろうと思う。

だが、その頼みの林道が荒れ果ててしまった以上、将来立派に成木したとしても、利用される見込みは低いだろう。
というかそもそも、関東森林管理局では既にこの地で林業を継続する意思を持っていないようである。そのような判断が先にあって、林道の維持が中止されているのであるから、将来の展望はますます暗いと言わざるを得ない。



ところで、(探索当時の)地形図には、この辺りから谷底の栃沢停車場跡へ下る1本の徒歩道が描かれていた。
右の写真は、その入口と思われる部分を、林道の路肩から見下ろしている。

これを行けば、約800mで第15回の11:01の地点へ辿り着けるはずであるが、比高が200m以上もあるので非常に急な坂道だろうし、実際に歩行したという報告も聞いたことがない。それでも、軌道跡と林道の連絡通路として、かつてはよく歩かれていたのではないだろうか。




歩道分岐地点を過ぎた林道は、釜ノ島を出てから初めて明確な下り坂へ転じた。
この下り坂は、500mほど先に待ち受けているだろう、栃沢を渡る橋まで続くようだ。

この区間は寸又川の本流ではなく、小さな支流である栃沢に沿っているせいか、雰囲気が違う。
これまでのような視界の広がりはなく、山に圧せられた窮屈さがある。
景観はこのように変化しても、路上の荒廃の度合いは相変わらずで、致命的な崩壊こそないものの、歩幅を稼げない道が続いていた。



18:27
独り平和を謳歌しているカーブミラーがあった。
現代の道路風景における平凡なアイテムが、このような僻遠の廃道に存在することは、なんとなく奇異な印象を受けるが、この道が車の往来を拒絶するほど荒廃したのが、それほど昔ではないということを物語っている。
綺麗な鏡面に、屈強の登山者を映すことはこれからも稀にあるだろうが、あらゆる種類の“車”を映す日は、もう二度と来るまい。

そしてこのカーブミラーの前には、久々のキロポストを発見した。
書かれた数字は「31.0」であり、17:51に見た32.5kmポストから、1.5kmの進むのに36分経過していた。この区間時速は2.5km/hとなり、平坦な部分が多かったせいか、少しだけペースアップが出来ていた。……少しだけね。

なお、写真の背後に水平のラインが見えると思うが、栃沢を渡ったこの道の続きである。



18:30
見えたッ! 栃沢を渡る橋!!

この左岸林道を使った帰り道では、左岸から寸又川の注ぐ支流で、地形図に名前がある大きなものを、合計4本渡る必要がある。
奥地から順に、栃沢(釜ノ島から橋まで約3.5km)、大根沢(同 約7km)、小根沢(同 約12km)、大樽沢(同 約17km)で、いずれも千頭林鉄の停車場名にもなっている沢だ。
いまようやく、その1本目の橋が目前に迫ろうとしている。

だが、探索終了のタイムリミットが、いよいよ先延ばしの難しい状況になってきた。
いまから2時間ほど前を最後に日が山陰に隠れ、林道周辺では実質的な日暮れを迎えていたが、暦の上での(つまり地平での)日没時刻は、18:35と予報されていた。
そこから、明日の(暦の上での)夜明けの時刻である4:51まで10時間16分が、夜間である。

夜になってしまうのだ!

日が見えなくなってから2時間ものあいだ、あまり変化せず、探索に不安を感じない明るさを維持してくれた空だが、今や風前の灯火なのだ。
事実、数枚前の写真と比較すれば、明らかに薄暗くなっているのが分かる。
私自身、支流の谷に入ったせいで暗くなったのだと思いたかったが、実際それだけが原因のはずもなく。



18:33〜18:39 《現在地》《標高図》

栃沢橋、到達!

栃沢も、もっと別の出会い方をしていたら、親しみを感じる要素があったのかも知れないが、こんな状況で轟々と唸る薄暗い谷を見て楽しめる人はいない。

橋は結構大きいが、特段の印象を与えない姿だった。
無味乾燥なガードレールの高欄の2箇所に銘板が取り付けられていて、それぞれ何の捻りもない橋名と、廃道になるには少し新しすぎる年が刻まれていた。




こんな薄気味の悪い場所はすぐにでも発ちたかったが、そうはいかない事情があって、時間がなによりも貴重なときに、6分の滞在を余儀なくされた。
しかも、せっかく橋が架かってくれているというのに、わざわざ暗い暗い谷底へ降りる羽目にもなった。今の私の足には、この10mの登降が本当にキツかった……。

行為の理由は、この画像だ。水の補給をしていたのである。
17:59に通過した、林道上に落ちている滝で補給しておけば楽ができたのに、今回は判断運がなかった。
しかし、次に補給できる可能性が高い地点である大根沢までは、どう考えても今日の行程では辿り着けないだろう。ここで補給しないと、今夜を水なしで越える羽目になりかねないから、選択の余地がなかった。



18:44

ま じ や べ え 。 急に暗くなってきた。
栃沢を越えてからの暗くなり方が、思いのほか急激だった。
山の陰ではなく、地平から太陽が消えてしまったことで、本当にぐんぐん暗くなっていくのが分かった。もう夜が始まろうとしている。

やべえ。 焦る。

無人の小屋が林道沿いにちょくちょくあると聞いてたのに、釜ノ島からここまで3.5kmのなかには1箇所もなかった。
また、小屋の在処として栃沢や大根沢の名前を聞いていたが、その正確な位置までは把握していなかった。
現在、栃沢を渡り終えて200mほど来ているが、まだ現われない。

こうなると不安になってくる。本当にあるのだろうかと。
もし、無かったとしたらどうする。
真っ暗な中、ヘッドライトの明りを頼りにどこまで歩ける。

いい加減、休みたいのだ。
足が痛い。爪先も、足裏も、指の間も痛い。
もちろん太腿も痛いし、膝も痛い。
今さら過ぎるが、両足がずっと痛いままで頑張っていたのだ。書いても伝わらないから書かなかっただけで。

暗くなったら、どこまで進んでいるかに拘らず、さすがにもう休みたかった。
明日を生き抜くためにも、休みたかった。



18:49 遂に夜になってしまった!

一線を越えてしまった感がある。
予定の小屋が現われてくれないという事態に、帰路の油断を背中から刺された感じだ。もとより、薄氷の上にあるような危うい計画だったことは否めないが……。

今はまだ、本当に微かな明るさがあるので、ライトを点灯させず歩いていられるが、間もなく不可能になるだろう。
しかし、昔も何かのレポートで書いた気がするが、ヘッドライトの強烈な灯りは強毒なのだ。
一度その灯りを頼りにしてしまったら、次の朝まで二度と照らした先しか見えなくなるのだから。

踏むべき場所を道幅の中から随時選ばなければならない廃道歩きにとって、ライトの狭い光は惑いの罠となる。また、ガレた場所で陰影が強調されることも問題で、とにかく大いに危険なのである。

ここのところ大きな崩壊地がないので、これでも危なげなく進めているが、これまで歩いた林道上には、ヘッドライトで歩くとしたら危険だろうなという場面が、いくつかあった。
そんな場面が今後現われない保証はないし、多分現われるだろう。



18:52
不安的中という感じで、さっそく大きく落石している現場にぶつかった。
ここはまだギリギリ越せるが、精神的にも、肉体的にも、こんなことを長く続けていてはダメだと心が訴えている。

……どうしようか。

この辺りの路上で、エマージェンシーシュラフ(銀紙みたいなもの)に包まって、ただ夜が明けるのを待つしか無いか。
凍死はしないだろうが、野生動物が怖いし、ろくな回復が期待できないから、明日の行程は滅茶苦茶になってしまいそうだ。その結果、無想吊橋にも行けなくなるんだったら、せめて柴沢を極めた方が良かったじゃんかよ……。そんな後悔が、ずっとついて回ることになるのだろうか。

だとしてもやはり、取り返しが付かないことになる前に、ビバークという決断をすべきかも知れない。
でも、だとしても、すぐ先に小屋が待ち受けているような気もするから、本当に困る。

この探索の終わりの形を決めかねない難しい決断を迫られながら、半ば惰性で進む足の上にある頭は、屋根と壁を求めていた。





!!!


あ〜〜〜〜〜(嬉)

もう半ば諦めて、最後の足掻きという気分で、

ヘッドライトを点灯させて歩いていたのだが、

その絶望的な灯りが照らし出したのは、ここにある唯一の希望だった。



いっとき歓喜に噎(むせ)いだが、扉が開くのかわからないと気付く。

でも、雰囲気からして多分これは大丈夫だ。もう喜んでいいはず。凄く安心させてくれる外見をしている。
(普段なら、この小屋を見て、そこに安心の宿を思うのはおかしいが、実際そう感じた)

はっとして時計を見ると、日没から20分ほど経過した、18:56だった。

18:56 栃沢小屋に到着!


なお、ここは当初の到達予定地点である、大根沢の小屋ではない。
しかし、大根沢小屋の予定地点は、まだ3kmも先であり、辿り着ける気が全くしない。
もういろいろと限界を感じるので、今日はここで宿ることに決めた。



扉は、抵抗なく開いた。



18:57 《現在地》

祝! 宿、確保!

乾いた匂いのする小屋に、ボロきれのような私が、ずり込んだ。

よろよろと靴紐を解き、裸足になって、畳の縁にボクサーみたいに座り込んだ。



沈黙――。





左岸林道30.0km付近 栃沢小屋の奇妙な夜


19:00

この小屋は、明らかに廃墟でしかなかった昨日の宿とは根本的に違う、登山者の避難を想定した現役の小屋である。だから、一晩を明かす居心地には、ほとんど問題がなかった。
(一つだけ、減点されうる不可解な現象があったのだが、それは後述)

しかし、生憎、私の記憶はほとんどない。

撮影した写真を見ると、小屋に入った直後にこれ(→)を撮影しているが、後は次にお見せする19:03撮影の1枚を最後に、1400枚近くも撮影しまくった5月5日の撮影は終了している。
驚くのが、夕食を採ることなく眠りに落ちていたことだ。




これが、5月5日の最後の1枚だ。

靴を脱いで、畳の縁に座って、じっと足裏を見た。

じんじんと痛む足裏を、明日も頼むぞと、少しだけ他人事のように願掛けながら見た記憶がある。

濡れ靴のまま歩き続けたために、足裏の皮膚がふやけて弱くなって、至る所が痛みを発していた。まだ見た目に裂けているようなところはなかったが、明日の5月6日夜に生還したときの私の足は、更に見るも無惨な状態だった。爪は3枚死んでいた。最も過酷だったこの日の行程こそが、最大のダメージソースだったはずだ。
このことは、濡れ靴のまま何日も歩いてはいけないという教訓になった。







4時間後、私はシュラフの中で目を覚ました。


時刻は測ったように、ぴったり午前0時だった。5月6日になった。


3日間の探索の最終日で、夜には人里へ辿り着かねばならないという日。



とても疲れ切っていた私が、こんな時刻に目を覚ました理由は、ひとえに空腹だったからだろう。

実際、このあとお湯を沸かして袋麺を食べるのだが、その写真は全くない。

それよりも、私がここでの体験として皆様に伝えたいことは、

このとき私が体験していた、極めてささやかな、“超常現象”についてだ。


次の動画を、ボリュームを大きめにして、ご覧下さい。



↑ いかがだろうか?

おそらく、皆様の感想は、 「う〜〜〜ん?」 だと思う。


私が動画の中で盛んに聞こえると言っている「謎の音」は、カメラには記録されていなかった。

と、そんな書き方をすると、まるっきりオカルトな話題だが、私はそう考えてはいない。
私の所感を述べると、間違いなくこの深夜0時の小屋の中には、私以外の何者かががいた。
はっきりした音を繰返し聞いているし、気配があった。それも昆虫などではない、息づかいのある生き物の気配だった。

結局、最後まで正体は掴めなかったが、畳の床下空間に獣が潜んでいたんだろうという、それだけの話である。
扉が閉まっているのに獣が出入りするはずがないと思うかも知れないが、おそらく床下に通気口のようなものがあったのだ。(朝、建物の裏を見たときには見当たらなかったが)
猫……いや、今回の旅の先々で現われる、あのハクビシン(隧道猫)達だろう。

灯りを消すと我が物顔で動き出すが、点けると微塵も動かなくなる。
その機械のように精密な反応は、絶対的な臆病さを窺わせるものであり、まさに小型の野生動物らしい。その中でも、出会う度に身を縮こまらせ、寄せ合って、つぶらな瞳をまん丸と硬直させるばかりの、あのハクビシンたちのイメージにこそぴったりだった。

小屋はとても小さく、畳の上で首を巡らせれば、床下以外の全てを一覧することが出来た。
だから、この小屋には、得体の知れない恐怖はなかった。床下くらい、くれてやるのである。

こうして、音の正体を無害だと決めつけた私は、いよいよ気にしないことにした。再び眠りにつくときも、彼らのささやきは聞こえ続けたし、いよいよ耳元に近寄ったようにも思ったが、気にしなかった。


このとき、眠る前に見たものを、もう少しだけ紹介しよう。
どれも午前0時の小屋の中の風景である。

小屋の壁には、こんな1枚の黒板が掲げられていて、懐かしい気持ちになった。
そこには、休憩所(この小屋だ)の利用に関するいくつかの注意書きが書かれていたが、加えて利用者たちが書き加えたらしき日付とイニシャルも並んでいた。

驚いたことに、この探索の僅か4日前である平成22(2010)年5月1日に、どこかのH・Sさんが利用したらしく、さらにその数日前にはM・Hさんがいた。
3人前になると去年の6月まで飛ぶが、とにかくこの探索当時、栃沢小屋の利用者は、少なくとも年間4〜5人いたようである。
私のように記名しなかった人もいるだろうしな。

この黒板は、私が間違いなく生きた人の行動圏に辿り着いていることを知れる、元気の種となった。




ホッとできる黒板に対して、反対に、現状と過去の隔絶を思わせる存在もあった。

それが、この手回し式の電話機だ。
そもそも使い方も分からないし、もう電話線なんかも通じていないと思われたが、黒板のチョークで書かれた鮮明な文字の内容は、悪戯にしては妙な現実味があった。

「タクシーはこの電話で継ながります」

呼べばタクシーが来てくれるとか、現状の林道を見る限り、疲労困憊のために幻覚を見た登山者(遭難者)の妄想のようであるが、おそらくそんなに大昔ではない時期までは、電話が繋がりさえすれば、タクシーも入ってこられるような整備状況だったのだと思う。釜ノ島小屋、或いは柴沢まで、この林道が本領を発揮していた時代があったのだろう。

その下にある、「33キロすぎ危険」という走り書きも、なかなか怖かったが、林道のキロポストのことであるなら、既に過ぎてきているので、私には関係ないはず。




さあ、飯も食ったし、もう少し寝よう。








もう、あさか……




最終日、史上最長の林道歩きが始まる。



自転車(大樽沢)まで あと17.5km