廃線レポート 千頭森林鉄道 奥地攻略作戦 帰還編 第4回

公開日 2020.11.06
探索日 2010.05.06
所在地 静岡県川根本町

左岸林道30.0km付近 最後の朝を迎えた


2010/5/6 4:57 《現在地》

入山して3日目の朝を迎えた。
小さくとも頼もしかった仮宿に別れを告げる。

山中泊で3日目を迎えたことは、初めての経験だった。
そして、一番元気でなければならないこの朝イチの時点で、もう困憊である。
特に、濡れた靴のまま歩き続けたせいで皮膚が破れかけている足裏と、赤黒く変色してしまった両足親指の爪のジンジンとした痛み、ひたすらに重怠い太腿の3点は、ここに置き去りにして行きたいくらい不快な重荷だった。

スタート時点でこれなのに、今日は3日間で最も長い距離を踏破し、走破しなければならない。
今日は最終日なのだ。今晩までには車を駐めてある大間へ戻り、そして初日に別れたきりの仲間・はじめ氏と落ち合って(彼は今ごろどこにいるのだろう)、東京へ帰るのだ。
そこまでの道のりが、私の目の前に横たわっている。
ただ一つの救いは、未知の行程ばかりではないということだが、それにしても先は長い…圧倒的に……。



今日の行程の段一段階は、ひたすらの林道歩きだ。
今いるのは左岸林道の(起点から)約30km地点にある「栃沢小屋」だが、ここから12.5km付近の「日向林道分岐」を目指す。おおよそ17.5kmの林道歩きとなる。そして、この区間は全て未知である。ここまで歩ききると、右のグラフで分かるように、3日間で起点から釜ノ島付近までの左岸林道を全踏破したことになる。




続く第二段階は、日向林道を初日の自転車デポ地点まで約5km歩くことだ。初日は自転車で爽快に駆け下ったところを、今度は歩く。そうして2日ぶりに自転車を回収できたら、選択の場面となる。
日向林道をさらに約3km進んだ所にある「無想吊橋」への再訪を果たすべく往復するか、この行程を省略してすぐに下山するかの選択を。

この無想吊橋までの往復6kmは第三段階の行程だが、読者諸兄は選択の答えを既に知っているのだ。この日の16:30頃に無想吊橋に到達することを知っている。その直前に逆河内支線の補足的探索を行ったことも、既に知っているのだ。

最後の第四段階は、自転車デポ地点からの下山である。
上記の無想吊橋再訪編の直後の内容だが、2010年4月21日にも一度通ったルートであり、ここも未知ではない。自転車デポ地点から大間までの距離は約13kmである。そしてゴール。

上記をまとめると、歩行が第一第二段階の合計22.5km、自転車での走行が第三第四段階の合計19kmであり、想定される本日の総移動距離は41.5kmとなる。
これを、ただいま午前5時から始まる今日中に、終わらせる必要があった。
如何に満身創痍であろうとも、のんびり構えていられないということが、伝わるかと思う。
自分が作った計画に従って、歯を食いしばって頑張るよりない。救助隊はどこにも存在しない。


最終日、出発!



5:00 出発。

この栃沢小屋に到着したのが前日19:00だから、10時間ぶりの外の景色だが、着いたときはもう真っ暗だったので、見覚えがまるでない。見覚えがあるのは小屋の形だけだった。

向かうべき路上は綺麗だった。
今くらいは前途洋々と言っておきたい。
いつもみたいに相棒の自転車がいてくれたら、スイスイ進めそうなのになぁ。


5:14 出発から500mほどで、本日初のキロポストを目撃。
「29.5」とあった。
これの数字が「13」になるくらいまでは、ひたすら歩き続ける必要がある。
当初の計画だと、昨日は栃沢ではなくその3km先の大根沢まで進むはずだった。その通りに行っていれば、今日は少しだけ楽になったのだが。

(チェンジ後の画像)
5:20 出発して1kmほど行くと、今日初の崩壊地に遭遇した。

どこまで進んだ時点で廃道状態を脱して普通の林道になるのかということも、今日の展開を左右する重要な要素となる。
往路の日向林道分岐地点までは間違いなく整備が入っていたが…、早く整備された区間に出たいものだ。



5:27 《現在地》

最初の約30分では1.2kmほど進むことが出来、大根沢と寸又川本流の出合の上にある尾根を回り込む地点に到達した。
例によって、尾根の上は道が極端に広く、まるで広場のようになっていて、おそらく数年前まではここまで路面整備が入っていたのだろう、名残の綺麗な路面が残っていた。

この地点から尾根を登っていく徒歩道が、地形図には描かれている。
これは信濃俣(2332m)を経由して光岳(2591m)に登る登山道で、当時どれくらいの利用者があったかは分からないが、半ば朽ちかけたような指導標が残っていた。

また、この地点から反対に尾根を下れば、約130m下にある昨日通行した軌道跡にも着けそうだった。こちらは地形図にも描かれていないが。



5:54
大きな尾根を回り込んで間もなく(5:34)、29.0kmのキロポストを発見した。
それからまたしばらく歩いて撮影したのが、この写真だ。

眼前に広がる大きな谷は、大きいけれども本流ではない。
林道は大根沢という支流を越えるのに、地形に沿ってかなり大きく迂回しており、先ほどの尾根から大根沢を渡る橋まで約1.6km、それからまた本流に戻るまでは同じくらいの距離を歩かねばならない。対岸にずっと見える道の続きへ飛んで行けたらどんなにか楽だろうと思っても、詮無いこと……。

今はただ、難しい崩壊地が現われないことを願うばかりである。
この辺りはm必ずしも林道を踏破せず、先ほどの尾根で一旦大根沢の出合に降りてから対岸を林道へ上り直すショートカットコースも考えられるだけに、前夜の栃沢小屋の黒板に、わずか4日前に登山者が訪れた形跡があったといっても、通り抜けられると安心できない怖さがあった。




6:10
またしばらく歩き、出発から1時間を過ぎたころ、ようやく大根沢の等高線包囲網が狭まってきて、渡るときが近いと思えるようになっていた。だが…!

これは……!

道の進路上……、おそらく対岸へ渡った直後と思える辺りに、かなりの規模の崩壊地が見え始めた。
昨日林道へ上がってからの中では最も険しい崩壊地と思える。

ここからみても、上への迂回は絶望的だ。
可能性は下か、あるいは正面突破しかない。
かなり大根沢が近づいているので、河床まで迂回できれば一番安全そうだが……。



6:15
さらに5分ばかり前進すると、ついに大根沢を渡る橋の姿が現われた。

同時に、問題の大崩壊地が対岸の間近に迫った。
対岸に行った林道は、すぐさまこの大崩壊に呑まれてしまっている!
崩壊の中腹に、玉石練積の路肩工が露出している部分が見えていた。

私は考えた。この崩壊地を横断せずに済む方法を。
今いる場所から、すぐさま大根沢を横断し、対岸にをよじ登ることは出来ないだろうか。

……いや、無理だろうな。
大根沢は連瀑のような急峻な沢であり、水量はそこまでではないが、両岸の傾斜がキツすぎる。
全くの無荷ならばまだしも、デカリュックを背負ってでは、正面突破より大変だろうという結論に至った。

正面突破か……
最悪は、5:27の地点まで戻って谷底へ迂回するかだ…。
後者になったら、イヤだなぁ…。



6:17 《現在地》《標高図》

やや大きな、しかし特筆すべき要素を持たない橋だった。
欄干に取り付けられた控えめな銘板は1枚だけで、「大根沢橋」と書かれていた。他の3枚は失われていて、竣工年などは分からない。昭和40年代に、林鉄の置き換えを狙って建設された左岸林道の橋だから、その時代のものなのは間違いないが。

架橋地点は標高1020m付近で、昨日訪れた標高900mの(第12回)大根沢停車場跡からは、大根沢を1km少々遡った地点となる。

かつてはこの谷沿いに、停車場と大根沢奥地の事業地を結ぶ歩道と索道が共に存在し、この辺りで林道とも交差していたはずだ。




だが、林道周辺にそれらしい痕跡は見当たらない。
地形図にも、橋の左岸の袂から上流へ向かう徒歩道が描かれているのだが、それがあったはずの斜面は、ご覧の有様である。
とても踏み込める余地はない。(その気もないが)

軌道跡の荒廃は今さら言うまでもなく、林道でさえこの状況なのだから、それらよりさらに人目から遠い大根沢奥地の事業地など、二度と人類が近寄れない世界かも知れない。そこにも作業線という軌道があった記録があるが、思いを馳せることさえ困難な隔絶ぶりだった。

………いや、今の私は本当に、脇道のことなど想っている場合ではないのだけれど。




6:18

大崩落!

橋の左岸橋頭部分を呑み込み、欄干の一部までを道連れにしていた。
また、この崩壊斜面には道が2段分巻き込まれていて、下段が左岸林道、
上段はこの少し先で分岐して大根沢上流へ入っていた支線の林道である。
いずれも完全に寸断されていた。

ここが突破出来ないと、大変な手戻りになってしまう。
少しくらいは無理をしてでも、正面突破を成功させたい状況だ。

だが、出発からここまで休みなく歩いたせいで、疲労を強く感じたので、
一度長めの休息を取って息を整えてから、挑戦することにした。




6:30

10分ほど休んで、突入!

厳しい斜面に違いないが、昨日まで軌道跡で幾度となく越えてきたものと較べれば、これも越せるはず。
爪先で慎重にステップを切りながら、正面突破を行うことにした。

注意すべきは、荷物が重いために、万が一滑落が始まるとほぼ停止できる望みはないということだ。
それと、現在も崩壊が続いている斜面のため、露出している岩石の安定性にも不安がある。
もちろん、大きな岩は簡単には動かないだろうが、出来るだけ、見えている岩に支えて貰おうと考えず、
滑らかな斜面に爪先を挿して、自分で道を作りながら進む方が、まだ安全だろう。



6:33

崩壊斜面が最も急峻に切り立っている難関部を無事に突破し、振り返る。
私が刻んだステップが、斜面を掘り起こした痕として、少しだけ見えている。
ここまで来られれば、もう大丈夫。あとは、長いだけの普通の斜面だ。

ヒヤッとしたが……、勝った。

これでまた一歩、生還に近づいたぞ。




6:35

大根沢左岸の大崩壊地を無事突破!

直後に支線林道の分岐を左後方へ見送ると、路傍に一棟の小屋が現われた。

当初の計画では、昨日のうちにここまで進みたかった。ようやくその分を終えた。



左岸林道(日向林道分岐)まで 残り14.0km



左岸林道27.0km付近 大根沢小屋を通過して


2010/5/6 6:35 《現在地》

大根沢橋左岸の崩壊地を過ぎて間もなく、小屋という言葉に「小さい」の形容詞をわざわざ重ねたくなるような、そんな路傍の小屋が現われた。
事前情報でもその存在が示唆されていた左岸林道の路傍に多数ある小屋の一つで、大根沢小屋と呼ぶべきものだろう。

私が泊まった栃沢小屋もそうだが、なぜこのような小屋が路傍に点々と存在しているのか、その事情は分からない。
ただ、実態としては登山者向けの避難小屋として機能しており、おそらくその目的で建築されたものなのだろう。

大根沢小屋の鉄の扉には「27k200」という文字がチョークで書かれていた。しばらくキロポストをみていないが、起点からの距離を示しているに違いない。そしてこれは、この道を歩く誰もが一番欲する情報だろう。

中を覗いてみると、狭いながらも土間と上がりがあり、板敷きの上がりは清潔に保たれていた。窓にはガラスが嵌まっており、雨風を完全にしのげる環境だ。
栃沢小屋に勝るとも劣らない良い寝床だったが、暗くなってから大根沢の大崩壊地を突破するのは自殺行為に近く、結果的に昨晩の栃沢停止は正解だったと思う。



6:46
何かしら拠点めいた地点を通過する度、麓へ近づく度、そこから道の状況が良くなることを期待したが、まだそのような兆候は見られない。
昨日、この林道と初めて出会った34km地点からは既に7km以上“引き返して”いるが、まだまだ廃道区間の中である。

この長大な行き止まりの林道を、現代の我々は持て余している。もしこの林道が自家用車で自在に行き来できるならば、光岳でさえ日帰り登山の対象になったろうに……、せっかく立派な道を作ったのに維持することは出来なかった。




6:50
ここもかなり土砂量の多い崩壊地点。
しかも良くないことに、もともとあった道はすっかり削られてしまっていて、急傾斜のガリーが道を寸断した形になっている。

ここでは結構な高巻きを要求され、疲労した身体に鞭打つ必要があった。
それでも横断できただけマシで、このような種類の崩壊を放置しておくと、完全に横断不能なガリーに成長する恐れが高い。危険な匂いがする。

現地でそのことに気付いていたかは記憶にないが、写真を見直すと、私が通る前から斜面を横断する踏み跡のようなものが写っている。4日前に栃沢小屋の黒板にイニシャルを残した人物のものだろうか。



6:51
これらは2枚とも、上記の崩壊地を横断しながら振り返って撮影した写真だ。

大根沢の対岸にもの凄い崩壊地が見えており、その中腹にひっかき傷のような道形が見えている。
恐るべき風景であるが、あそこは5:54頃に通過した過去の道である。

路上にいるときにはそれと気付かずに、凄まじい規模の崩壊地を横断していたことを、今さら知ることになった。
そしてまた、実際に路上を近づいてみなければ、通れるかどうかの判断など出来ないことも分かる眺めだ。
この画像の崩壊地、外見的にはいかにも通行困難である。登山者が往路にこれを見れば、絶望を感じることだろう。




6:54
「29.0」以来久々となるキロポストを発見。「26.5」と書いてあった。
ほぼ同時に、浅い切通しを通過した。
道は大根沢を越えてからずっと登り坂だが、それほど急なものではない。
もう沢からは高く離れて山腹を行く景色になっている。




6:59〜7:02
清冽な水が大量に道を横断している場面があったので、本日初めて水の補給を行った。
少しでも荷物を減らすために、今日は500mlを上限に水を持ち歩くつもりだ。
ときどき路上にこういう水場があってくれれば、それで十分なはずである。
水汲みが路上で完了したのは、昨夕の栃沢での苦労を想えば、本当に嬉しかった。



7:08 《現在地》

急に道の周りの地形が緩やかになった。
岩場の代わりに、樹木が茂る森が視界を埋めた。
このような景色は、3日間を通じてもほとんど見ていない。行動の大半を寸又川の渓谷内に過ごしたせいもあるだろうが、地形図を見てもやはり、この場所の等高線の緩やかさは千頭山における貴重な癒しのようである。

貴重な憩いの地形を、林道は活用していた。
15台は収まりそうな駐車スペースがあった。
この写真はそこを振り返って撮影したもの。
さらにこの場所には、生還へ向けた着実な前進を感じられる嬉しいアイテムがいくつもあった。それを今から紹介する。




癒しアイテムその1 〜指導標〜

「寸又峡温泉まで28.4km 光岳登山口まで 11.5km」

その辺の自然公園にもありそうなありきたりな立て札が、今は癒しだ。
林業関係者ではなく、私のような一般人に向けられた内容なのが、ホッとする。
林道が荒れ果てるまでは、寸又峡温泉(大間)から歩いて光岳を目指す登山者はそれなりに多くいたらしい。当時も軌道跡は荒れ果てていただろうが、林道にいる限りは安全だったという時代が感じられる。




癒しアイテムその2 〜誰かのスニーカー〜

綺麗に揃えられたスニーカーが、広い駐車スペースの一角に置かれていた。
山で靴を脱ぐなんて、絶壁からの投身者という不吉を連想する人もいるだろうが、私は全く逆で、ここに癒しを認めた。駐車スペースに綺麗に揃えて置かれた靴は、土足厳禁車が訪れた証しである。
車に乗るときに靴を脱ぎ、そのままうっかり扉を閉めて走り出してしまった。靴を置いてきたことに気付いたが、取りには戻らなかった。そうやってこの光景が生み出された。皆さんの中にも、観光地やサービスエリアの駐車場で、こんな場面を見たことがある人はいるだろう。

何年前の忘れ物かは知らないが、この靴が朽ち果てるほどではない最近に、ここまで車が出入りしていた名残である。
廃道区間が“明け”が近いのではないかという予感が、私を安心させた。



癒しアイテムその3 〜名水 寝水の水〜

路傍に湧き出す清水に、「名水 寝水の水(ねみずのみず)」と書かれた木札が備え付けられていた。さらには竹製の樋も。

清水など珍しくはないが、そういうものに人文的な香りが付与されているのは、里が近づいている証拠に他ならない。
その辺の気楽な観光地にありそうな風景、この平凡さが、私を癒した。
当然、がぶ飲みである。

「寝耳に水」ならぬ、「寝水の水」の由来は不明。
だが、大根沢辺りにも近世までは杣人の集落があったという話を聞いたことがある。今も山中の所々に当時の墓石が残されているとも。
この周りの平坦な地形と陽当たりの良さは、集落の旧地に相応しいと思わせるものがあった。




うお!

「寝水の水」の湧き出ずる源に、見覚えのある感じの木造建築物が建ち並んでいた!

見覚えがあるというのは、昨日の大根沢、あるいは一昨日の小根沢で目にした、営林署の宿舎っぽいという意味でだ。
これまで路傍で見てきた登山者向けの“小屋”とは違う、林鉄から林道へ輸送手段が変わっても受け継がれてきた林業のための休泊施設の気配である。

寄り道している暇があまりないのは確かだが、歩きっぱなしでは早々にバテてしまう体力残量でもあることだし、休憩がてらの寄り道をしようと思う。
さすがに、林鉄絡みの新発見は期待できないだろうが。



7:15
宿舎らしき建物へ通じる道の分岐は、「寝水の水」の50mほど先にあった。
写真右の道がそれだ。

かつて千頭山国有林での林業が盛んに営まれていた時代には、毎日のように大型林業トラックが行き交い、月曜日と土曜日の職員の入下山時には専用の通勤バスも走っていたという左岸林道だけに、あらゆる部分が骨太である。道巾には余裕があり、それは宿舎へ通じる小さな支線であっても変わりはなかった。

中部電力の国有林借地標が建っていた。
千頭ダムの関連施設だと思うが、ロボット雨量計が近くにあるらしく、そのための通信線の借地とのことだった。
平成12年が期限末になっていたが、今も更新はされているのだろうか。
(ロボットというのは、無人計測器のこと)




7:17 《現在地》

辿り着いた。

状況的に無人なのは明らかだが、谷底にあって無残な廃屋ぶりを晒していた大根沢宿舎とは異なり、現用に堪える姿をしている。
これもまた千頭山華やかなりし時代の遺物となる運命だが、林鉄の廃止と林道の開設を契機に、この林道沿いに新設されてから経過した時間は、40年くらいなものであろう。
国有林の管理者たるものの威光のようなオーラが、まだ保たれている印象だ。

果たして、扉は開くだろうか?




玄関脇にあったホーロー看板。山火事防止の啓蒙を目的に林野庁が生み出した偉大なキャラクター「まといリス」の看板だ。相変わらず可愛くない。

引き戸の玄関には施錠がなく、簡単に開いた。写真中央の細長いものは、竹だ。なぜあるのかは分からない。周りの壁には沢山のポスターが貼ってあったようだ。

ほとんどのボスターが剥がされていたが、残っているものもあった。いずれも山火事防止関係の内容。残念ながら作成年は不明。

建物は細長い平屋建築で、中央に全ての部屋へアクセスする長くて細い廊下が通じていた。廃墟っぽくはない。

しかし、多くの部屋はガラス戸が割れたり外れたりしていて、大量の落葉が侵入するなど、外見以上に荒廃してしまっていた。

唯一、囲炉裏があった部屋。この部屋は後述する様々なアイテムもあって、生活感が格別にあった。窓際に置かれているのは薪。左の壁に掛かっているのは誰かのズボン。

まず感動したのが、この囲炉裏周りの状況だった。民俗資料館とかに再現された古民家でしか見たことがなかった囲炉裏の伝統的景色。自在鉤と呼ばれる吊り紐に、鍵棒を介して薬罐が吊り下げられている、これぞ囲炉裏端。

この囲炉裏の部屋は、寝泊まりする職員達の団らんの場所だったのだろう。銀色の折り紙で作られた千羽鶴も目を引く存在だった。怪我か病に倒れた同僚の無事を祈ったものであろうか。

安全標語たちを彩るユリの造花。本物の自然を飽きるほど見ているはずなのに、造花で飾りたくなるのはなぜか。厳しい自然を相手にしていると、優しい自然を忘れそうになるからかもしれない。

別の部屋には備品棚があり、見慣れない「消化弾」という未開封のアイテムが備蓄されていた。未開封なのは無事の証拠である。

裏口から外へ出ると、離れの倉庫(右)と便所(奥)があった。

倉庫には、少しだけ現代的色彩を帯びたアイテムたち。プロパンガスのボンベと…、右の白っぽいものはなに? 風呂釜じゃないよね?←ひっくり返った風呂釜らしいですこれ。



7:27

大根沢の林道沿い宿舎(資料によれば正式名は寝水宿舎跡)の探検を終了。

これより林道へ戻って、帰還の途を再開するぞ。

この調子なら、案外に整備区間は近づいているのかも知れない。



左岸林道(日向林道分岐)まで 残り13.0km