廃線レポート 千頭森林鉄道 奥地攻略作戦 第13回

公開日 2018.04.19
探索日 2010.05.05
所在地 静岡県川根本町

大根沢事業所の物置小屋


2010/5/5 8:46

大根沢支線の終端部には、この支線の全長の半分弱はあろうかという【長い複線部】と、【大きな廃屋】が待ち受けていた。昭和30年代の路線図に掲載されていた「大根沢複線」および「大根沢事業所」であろう。

そして、支線の路盤が大根沢に突き当たって終わりを迎えたその20mほど奥に、先ほど見た廃屋とは別の小さな小屋を発見。
大根沢事業所跡の探索は、この小屋からスタート。



小屋へ向かって歩いていくと、地面にこんなものが落ちていた。
廃道では(なぜか)見慣れた存在である陶器製の茶碗の欠片だったのだが、「千頭営林署」と書かれているのが、貴重である。
それも、ペンで後から書かれたようなものではなく、柄と一緒に染められていた。

東京営林局最大の事業規模(すなわち全国屈指である)を誇っていたマンモス営林署らしく、こうした備品を特注で持っていたらしい。興味深い発見だった。


これが、小屋の全貌である。
小屋と呼ぶのに相応しい小さな建物で、物置小屋のようである。

二つの部屋があり、どちらも出入口の扉はなくなっていた。明け透けな内部はもぬけの殻のようであったが、よく見ると、部屋の奥に据え付けられた木棚に残っているものがあった。




まずは左の部屋の棚だ。
そこで発見されたのが、次のアイテムである。

  • 缶詰 × 4
  • コーヒー用クリーミングパウダー × 1
  • 飯ごう × 1
  • プラスチックのカップ × 1

食料発見!!(笑)

これがゲームだったら、ゲットして体力回復するのだろうが…。さすがにゲットする勇気は湧かない。
しかしこれは、この地でかつて働いた屈強な男たちの胃袋を満たしていた食料なのだろうか? だったら個人的にも嬉しいが。
なお、「コーヒー用クリーミングパウダー」については、商品名を書いた方が通りが良さそうだ。皆様ご存知、あの「クリープ」である。「クリィイプゥ〜〜〜♪」は、千頭の山でも大人気だったのか?



見つかったアイテムの中で特に印象的だったのが、これらの缶詰だ。

(←)「五目めし(釜飯風)」  「赤飯」(→)

そしてどちらも…、未開封。
つまり、中身入り!
恐る恐る手で持った感じも、確かな重量感あり。賞味期限は不明だが、こんなに錆びてる缶詰の中身はどうなってるんだろう? おそらくは腐りを通り越して、カラカラになってるんだろうけど、それにしてはずっしり重いような…。缶切りを持ち合わせていなかったので開封はしなかったが、仮に持ってたとしても、この開封には勇気が要るなぁ(笑)。



「五目めし」の裏底には、商品説明文がびっしり!
一応これも廃道で出会った文字情報であるし、こんな古い食品パッケージの文字なんて普段なかなか目にする機会がないと思うので、以下に転記しておく。

Hagoromo 五目めし
  1. 本品は、弊社独特の技術で調理した五目めし缶詰です。
  2. 鍋にたっぷりとお湯を沸し、缶を開けずそのまま15〜16分温め、すこしむらしてから蓋を開けて下さい。缶を直接火にかけたり、から炊きになりますと、破裂することもありますので御注意下さい。
  3. 電子レンジを使用する場合は、必ずガラスなどの容器に移しかえて下さい。約4分で出来上ります。
  4. ハイキング、キャンプ、ドライブ、釣に温めてお持ち下さい。30時間迄は、そのまま食べられます。それ以上経った場合は、温め直して下さい。何回温めても味に変りはありません。

原材料名 米、にんじん、ごぼう、たけのこ、しいたけ、油揚、調味料
内容量 350g
製造年月日 略号にて記載
販売者 はごろも缶詰株式会社 静岡県清水市島崎町151

さて、上記注意書きに「電子レンジ」(一般家庭向けの電子レンジは昭和40年発売)の表記があることから疑いを持った人もいるかも知れないが、どうやら林鉄現役当時のアイテムではない。
そう断言できる根拠として、販売者として記載されている「はごろも缶詰株式会社」の存在がある。
帰宅後に調べたところ、これは缶詰製造の大手「はごろもフーズ株式会社」の古い社名だった。同社公式サイトにある「沿革」によると、同社が「はごろも缶詰」を社名に用いていた期間は、昭和44(1969)年7月から昭和62(1987)年12月までの約18年間だそうだ。

一方、千頭森林鉄道の廃止は昭和43(1968)年である。
この大根沢事業所という施設の廃止年度は特定されていないが、少なくとも林鉄が現役だった時期のものでないことは間違いない。
(『賛歌 千頭森林鉄道』には、千頭営林署での山泊による勤務の模様がいろいろと綴られている。それによると、当時の山泊勤務は長期間にわたるものであったため、現地の宿舎にはそれぞれ調理場があり、炊事が行われていた。したがって、もし缶詰の利用があったとしても、限定的であったとみられる)

では、誰が持ち込んだのかということなるが、おそらくこの棚にある食品類(飯ごうも含めて)は、釣り人が持ち込んだのではなかろうか。



続いて、右の部屋の棚にあったアイテムを紹介する。先に動画をどうぞ。


  • 赤い液体(未鑑定アイテム) × 1
  • 小さな薬瓶 × 1

薬品発見!

これがゲームだったら、ゲットして(以下略)。

まず、右にある大きめの瓶だが、中には液体が入っていた。動画で揺らしてみている。液体はおぞましいほどに赤く、現地では勝手に「赤チン」を想像していたが、帰宅後、瓶に書かれている文字「FOR FOUNTAIN PEN AND GENERAL USE」で検索したところ、正体が判明した。これは万年筆用の赤インクだった模様。赤チンじゃなかった。パッケージには内容量と価格も表示されており、700cc ¥270。製造年は不明である。

左にある小さな瓶は、薬瓶だった。
瓶に貼られているシールには、表面に「火傷 湿疹 化膿症 疾患塗布剤」、裏面に「有効成分 ツルボエキス 分析成分 (乾燥減量、灰分 グルコース アグルコン)」などと書かれていた。ゲーム的にいえば、「きずぐすり」ってやつだろうか。最初の街の道具屋に売ってそう。なお、中身が入っていたかどうかは、恐ろしいので確認しなかった。
なお、写真右端に文庫本のようなものが写っているが、これは本ではなく何かの板で、正体不明だった。

これら二つの瓶は、釣り人がわざわざ持ち込むようなものではないので、今度こそ“林鉄時代の忘れ物”っぽい。

……さて、小屋はこんなもんだろう。 次はいよいよ、本丸だ。




大根沢事業所の大きな廃屋


小屋から、複線部を歩いている最中に見あげた“大きな廃屋”へ向って、斜面を最短距離で移動中。
辺りは緩やかな斜面なのだが、石垣が段々に築かれており、人の手の加わっていない場所はなさそうだった。
集落跡かと思わせるほどに、大々的な土工が行われている。

そしてこの段々の斜面を登っていく途中、1本の鉄索がちょうど目線くらいの高さに架かっていて、自然と目に留まった。
先ほど路盤で集材機を見つけたときにも、同じような架線を見ているが、位置的にそれとは別のものである。




鉄索の行方を、目で追いかけてみると…

それは、探索済み物置小屋の上を通り、そのまま大根沢も一跨ぎにして、対岸の山の中へ消えていた。
この行く先を確かめに行く余力はとてもないのでここまでとするが、『全国森林鉄道』には、「大根沢に側線の敷設と索道の建設及び上部作業軌道によって大根沢上流域の木材搬出を行った」という記述があり、これがその大根沢上流にあった上部作業軌道へ通じていた索道(大根沢索道)の残骸である可能性は小さくない。本稿もその前提で話を進める。

再び川に背を向けて、低空飛行の鉄索を右に見ながら、もう一段ばかり石垣を登ると…




8:49 《路線図》

大根沢事業所と見られる、大きな廃屋に到着!

細長い平屋造りの木造建築が、山を背に広場を前にして、苔生した石垣の上にずんと陣取っていた。
建物が放棄されてから芽吹いたと思われる若い疎林に抱かれたその姿は、うらぶれた廃墟でありながら、清楚だった。
山峡に木霊する川の音もここでは優しげで、もしこれが廃墟ではなく生きた山小屋なら、お金を出しても泊りたいくらいだ。

しかしここは、寸又川流域で今も人が住んでいる最奥かつ最寄りの大間集落から、同川を約27km遡った盛大な僻地である。
この大根沢にもかっては人が暮らしていたという口承もあるが、それが事実だとしても、近世以前の大昔のことである。
もし森林鉄道という文明装置が開設されなければ、ここにこんな大きな建物が作られる可能性は、まずなかっただろう。

だからこれは、私が愛する森林鉄道が残した、大きな大きな遺物であった。



これより内部の探索を開始する。
ここでも何かしら森林鉄道に関係する発見があれば一番だが、それが期待できないとしても、この建物は入って確かめたかった。
なぜなら、私の当初の計画において、昨日の夜はここに二人で泊るつもりだったからだ。

結果は、はじめ氏が序盤で離脱して私は単身となり、さらに日没までに大根沢へは到達できず、手前の小根沢で夜を明かした。そのため計画よりも約半日遅れでようやくここへ辿り着いたわけだが、もし全てが計画通りに行っていたら、どんなところで昨夜を過ごすことになったのか。探索者として、それを確かめたい気持ちがあった。
そもそも、このような建物が存在するかどうかも分からない中、存在する可能性が高いと考えて計画を立てたのだった。そして、その目論見自体は正解だったようだ。確かに建物はここにあったのだ。

だが、こうして近づいてみれば見るほどに、この建物の痛みは酷く進んでいるようだ。
昨日私が泊った【小根沢造林宿舎】に較べて、規模はこちらの方が段違いに大きいが、痛み方もこちらがだいぶ進んでいるように見える。
さらに言えば、昨日序盤で通過した【大樽保線宿舎】は、小根沢の建物よりさらに状態は良かった。
ようするに、奥地にある建物ほど荒れている気がする。

「防げ災害安全第一」と書かれた小さなホーロー看板が取り付けられた玄関から、薄暗い内部へ。




………

……独りだったら、ここにはあまり泊りたくないな……。

昨日の“宿”には、玄関の扉はないまでも、窓ガラスはあったのだ。
そのことがだいぶ廃墟感を薄れさせていて、ちゃんと夜の闇から守られているという感じがあったのだが、ここは部屋数は多いものの、どの部屋にも窓ガラスは残っていなかった。
さらに、廊下や部屋の床も一部が陥没しているし、屋根も一部が破れていた。

これでも完全な野宿よりはいくらか良いだろうが、この建物だったらたぶん奥ではなくて、入口の土間のようなところで寝ただろうと思う。
もし昨日、強引に大根沢を目指す決断を下して、暗くなってからなんとかここへ辿り着いてたりしたら、怖かったろうなぁ…。

そもそもの話が、廃墟に独りで寝るとか、普段の私なら絶対しない行動だからね!(苦笑)



(←)炊事場であろうか、煉瓦造りの竈があった。相当頑丈そうなのに、なぜか打ち壊されたようになっていた。何者かが煉瓦を欲して破壊したのか?
それにしても、ここで作られた手料理が屈強な山男たちの胃袋を支えていたのだと思うと、頼もしく見える。

(→)風呂場は、一昔前の民家そのものだった。大浴場ではなく、一人風呂である。蛇口などは見当たらないので、湧かしたお湯をバケツとかで注いで使ったのかな。
水回りだけに建材の腐朽が一層進んだようで、すっかり露天になってしまっていた。



(←)流し場とトイレ。
生活に必要な設備は一通り揃っている。この建物は作業場よりも宿舎の性格が強いようだ。
林鉄が活躍していた時代の奥地林業は、週単位の山泊生活が常識であったから、こうした宿舎は必需のものであった。

(→)いくつもある個室の一つ。個室は廊下の川側に並んでおり、どの部屋も窓からの眺めは良いが、寝るには少し開放的すぎる。



ん?

壁に、何か書かれている……。


   S45      
                3泊4日   
    3.25
                東教大附属校

この文字は、壁を何かで傷つけることで刻まれていた。
読み取れたのはせいぜいこの程度だが、薄れて読み取れない文字がこの何倍も書かれていた。
これ、書かれている内容によっては滅茶苦茶「ホラー」だったろうが、単にここへ来た記念の落書きのようだ。
東京教育大学附属高校の学生だろうか。昭和45年3月25日から3泊4日でここに泊ったのか。

しかし、昭和45年といえば、千頭林鉄の本線が廃止されたわずか2年後であるはず。
そんな時期に、ここは早くも無人の廃墟になっていたのだろうか。



落書きを一つ見つけたことで、壁に意識が向いた。すると他にも落書きを発見した。これは廊下の一角に書かれていた。


 静
 岡         昭和46年8月28〜29日
 の     静岡  海野八郎 56尾  大物 39.5センチ     
 山         大石正己 46〃     39センチ   
 女         秋本   40〃     35センチ
 釣           合計 142
 の
 先         道糸 〜1.5号
 生         ハリス〜0.6〃
 達         エサ 〜○キジ〜◎ハチノコ〜◎クモ

    ヤマメ 48cm   去年全国最長
    イワナ 39cm

壁一面が、濃ゆ〜いヤマメ釣りの世界になってるし…。2日で142匹も釣れたのか。
しかし注目すべきは昭和46年という年だ。先ほどは昭和45年、今度は46年。ううむ…。
やはり、この頃にはもう廃墟化していたようだ。



  山女ちゃん

 昭和四十六年八月二十八日
       四十六尾
  静岡市
   昭和四六年八月二十九日
       大石正己


 ここに誓う
 再度チャンス有

これも近くの別の壁だが、大石正己氏のヤマメちゃんへの愛が、ヤバい。先ほどの壁にも名前があったぞこの人。しかも同じ日の釣行じゃないか。さしずめさっきのはチームの記録で、こっちは大石氏の個人記録か…。



  釣りを考える三人の会
    望月 森
   57.5.21
   ヤマメ 1万匹

この廃墟、マジで釣り人の巣窟だ!

今度は、昭和57年5月21日に訪れた人のものと思われる落書き。
ヤマメ1万匹は彼の生涯目標だろうか。しかしこれは少しだけ最近の記録だ。
林鉄廃止から十数年が経過した頃の路盤は、どんな感じだったのだろう。
もしかしたら、私がここへ来る途中で目にした存置ロープの中には、彼らが設置したものがあるのかも知れない。

探せばまだ落書きはあるかもしれないが、時間に限りがあるので、このくらいにしておこう。いずれ、私が見つけた中では、この昭和57年5月21日というのが一番新しい日付だった。

廃墟への落書き自体は褒められたことではないが、こんな人目に遠い壁面を通じて遠く離れた釣り人達が夜な夜なヤマメへの愛を語り合ったのだと思うと、なんだか可笑しい。
もう先生は怒らないから、これらの張本人は当時の路盤の様子をこっそり私に報告すること! あと写真見せてください!



9:01
細長い建物の端から端まで一通り見終えたので、外へ出た。
なお、この建物には出入口が2箇所あって、入ったのとは違う所から出た。

そしてこの出入口の右側の外壁にも、3枚のホーロー看板があった。(↓)




このうち、一番右の「安全十則」のみ見覚えがある。昨日、左岸林道の8.3km付近で見ている
残り2枚は初見だ。

ちょっとした油断にくいこむ怪我の虫  千頭営林署
安全を目指して登れ千頭山  千頭営林署

千頭山の標語、格好いいな〜。

ここにしかない、千頭営林署オリジナルの標語だ!
それも、「千頭山」だからこその説得力がある!
ひとことで言って、熱い!
なお、寸又川源流部に千頭山という名の山が実在するが、ここでの千頭山は寸又川流域の大半を占める「千頭山国有林」を指すだろう。

いろいろな記録を読むと分かるが、昭和30年代の千頭営林署は全国屈指の事業規模を誇っただけでなく、労働災害の多さでも悪名が高かった。
もちろんそれは、安全を軽視していたからとか、働く人たちの技量が劣っていたからということではなく、事業地の地形条件が全国と較べても悪すぎて、どうやっても労働災害を完全には撲滅できなかったのだそうだ。



それでも、山の仕事は厳然として、家族を支えるだけの力を固持していた。

だからこそ、大勢の大人達が危険を承知で千頭山へ登った。


我が国の父母の姿は、こんなにも尊かった。




超越した到達困難の世界! 大根沢索道の幻想



『賛歌千頭森林鉄道』より転載

9:02
それではそろそろ、大根沢事業所跡の探索の締めに入っていこう。

まずは、いま内部を探索し終えたこの建物についてだが、こいつの現役当時の写真が、2016年に出版された『賛歌 千頭森林鉄道』に掲載されているのを見つけた。右の画像がその写真とキャプションだ。

左右の写真は、ほぼ同じアングルで撮影しているが、右の写真が撮影された後に建物が増築されたようで、形が違っている。しかし、石垣や出入口の形状は一致しており、同一の建物と判断できる。

現役当時の建物は、出窓があったり、そこにカーテンが用いられていたり、さらにはスイセン形の屋内照明があったりと、どことなくオシャレで綺麗な山小屋のようだ。現在は屋根よりも高く生長している手前の木々も全く見られず、ここが文明を武器に切り開いた人間の征服地であったことが感じられる。
この建物を大きな拠点として、広大な千頭山国有林のほぼ隅々まで人の手が届いていた時代が、確かにあったのだ。




上の写真は、建物の出入口付近に立って沢の方向を撮影した。

建物から水平約50m、高低約20m離れた位置に、大根沢支線の複線路盤(大根沢複線)があり、その隣を大根沢が流れている。
路盤と建物の間には、石垣が見事な築堤と、その築堤に囲まれているために、窪地のように見える場所があった。
これらのの大まかな位置関係は、左図を見ていただきたい。
また、路盤からこちらの建物を仰いだ眺めは、既に見た。

この築堤や窪地がなんのためにあるのかは気になるところだが、先に図中の「広場」の方を見てみよう。
この広場は上下2段あって、上段の上に建物が、下段の下に窪地があるという位置関係だ。ようするに、これも左図の通りである。




これは建物のある一番高い石垣の上から、上段の広場を撮影した。

今は疎林の森となりつつある広場だが、かつてはここに大根沢索道の鉄索を支える木造の塔が立っていたようだ。
塔の残骸とみられる苔生した丸太と、低空に架かる鉄索(木の幹に食い込むことで落下を免れていた)に加え、塔と鉄索を結ぶ金属製の部品が鉄索にぶら下がる形で残っていた。

この鉄索の奥方向は、既に見た【物置小屋】の上を通って大根沢上流へ続いていることを確認済みだ。手前方向は辿っていないが、おそらく前に路盤から見上げた【アンカー】へ達している。




金属部品を間近から撮影した。

鉄索にぶら下がっている姿は、鉄索と共に走行して材木を運んだ搬器にも見えるが、鉄索を滑車で握っており、反対側には柱を握るような環状のパーツがあるので、これは支柱への連結部品と判断した。



『賛歌千頭森林鉄道』より転載


『全国森林鉄道』でも存在だけは判明していた大根沢の索道だが、「大根沢索道」という正式名やその実態は、これも『賛歌』によって初めて判明した。
右写真が『賛歌』に掲載されていた大根沢索道の現役写真の一部とキャプションである。

この2枚の写真に写っているような、太い丸太を組み合わせた巨大な木造支柱が、ここにも立っていたのだろう。
1本の支柱には4本の鉄索が取り付けられており、これがいわゆる交走式索道であったことが分かる。索道の構造に関する基本説明は以前こちらで行った。
現状は鉄索が1本しか見当たらないが、3本は撤去されたのか、地面に埋もれているのか。

大根沢索道
多支間連送式、支間距離(←おそらく全長の誤り)2451メートル
上盤台195、下盤台201林班

上記のキャプションによって、千頭山の空を渡っていた“道”、その長さと起点終点の大まかな位置が判明した。
下盤台所在地とされる“201林班”は、先ほど掲載した大根沢事業所の写真キャプションにあった通り、この大根沢事業所一帯を指しているのであり、今いるこの広場も下盤台の一部であったかもしれない。(索道は、上盤台で原木を乗せ、下盤台で下ろす)



『千頭営林署管内図』の一部(著者加工)

一方、上盤台があったとされる195林班がどこであるかについては、『賛歌』にも記述がなかったが、別ルートで入手した昭和30年代のものと思われる『千頭営林署管内図』によって判明した。
右図はその管内図の一部である。もとは大きなA2版(A3の2倍のサイズ)で、色鉛筆で塗り分けが行われるなど、現役時代の貴重な使用感が色濃く残る逸品だ。

管内図には、山を目で見ただけでは決して分からない林班の位置が描かれている。
ここで問題となる195林班の位置を黄色、現在地を含む201林班の位置を青で着色した。
いずれの林班も千頭山国有林の中で最北部(最奥部でもある)を占める北千頭経営区に属し、両林班間の距離は平均で約2.3km離れていた。この数字は記録されている大根沢索道の全長2451mに近い。

管内図にも林鉄が“毛付き実線”で描かれている。その終点は2箇所あり、一つがここ大根沢、もう一つが「栃沢造林宿舎」と書かれている場所だ。この内容は路線図と同じであり、近い時期の調製と思われる。
管内図には林班のほかに、宿舎や作業場といった各施設の位置も記載されている。栃沢より奥の寸又川本流沿いには釜ノ島宿舎や柴沢造林宿舎、大根沢の上流にも大根沢造林宿舎、西俣造林宿舎、西俣製品作業場などが存在したことが分かる。林鉄や林道のない奥地にまで、人が盛んに入っていたことがよく分かる。

チェンジ後の画像は、管内図に重ねて地形図を表示した。
手書きの管内図とは完全には重ならないが、これにより両林班の位置関係を、より実体的に捉えることが出来ると思う。

すなわち、大根沢索道の上盤台があった195林班は、大根沢の源流谷であるサクラ沢とブナ沢に挟まれた山域で、背面は静岡市(大井川上流)の分水嶺に達している。その標高差は、海抜約1150mの谷底から約1900mの分水嶺まで実に750mにも及んでおり、極めて急峻な山域であることがよく分かる。なお、現在地は海抜約970mだ。


← 古い     (歴代航空写真)     → 新しい
@
昭和32(1957)年

A
昭和45(1970)年

B
昭和51(1976)年

さらに、@昭和32(1957)年に撮影された航空写真を調べると、現在地の大根沢から北東方向へ伸びる直線(図中のAからBまで)を、はっきり見ることができた。
前述の201林班と195林班を結ぶこの直線は、大根沢索道の架設のため路線上の木々が伐採されたことで現われたのだろう。
大根沢事業所は昭和31年に稼働を始めており、大根沢索道も同時期に完成した可能性が極めて高い。

右図は、地形図上に再現した大根沢索道の位置だ。
海抜1200〜1300m付近の尾根上の上盤台から、海抜970mの下盤台まで、大根沢沿いにまっすぐ伸びる約2.5kmの索道を想定した。

さて、空中写真に戻って、今度はA昭和45(1970)年版を見ていただきたい。
大根沢における事業の終了から3年後、千頭林鉄の全廃から2年後の風景である。
ここでは大根沢索道の痕跡が、よほど目をこらさなければ見えなくなっている。木々が生長したせいもあるだろうが、索道自体既に廃止されていると思われる。

その一方で存在感を示しているのが、@では影も形もなかった「寸又川左岸林道」である。
廃止された林鉄の置き換えとして急ピッチに建設が進められた左岸林道は、この段階で既に大根沢付近まで完成している。

最後は、B昭和51(1976)年版だ。
Aからたった6年後の撮影だが、左岸林道の伸長は凄まじい勢い進んでおり、廃止された時点で林鉄の終点が置かれていた栃沢を遙かに越えて、図の外にまで達している。
一方、索道によって稼働を支えられていた大根沢奥地は、再び千古の静寂を取り戻しているようだ。目をこらすと残された宿舎の屋根が見えるが、現在も廃墟として残っている可能性は高い。見に行くのは相当に困難だろうが…。



『賛歌千頭森林鉄道』より転載

さらに到達困難だと思われるのが、大根沢索道の上盤台に接続されていた西俣作業軌道と呼ばれる存在である。

『賛歌』に、この作業軌道の写真が数枚掲載されている。
キャプションによれば、全長わずか350mとのことだが、恐ろしく急峻な山肌に取り付けられた路線風景からは、谷底を這う本線とは全く違った印象を受ける。
ひとことで言えば、凄まじい。

なお、作業軌道全般はできる限り省力的に建設され、事業の終了と共に撤去される。その際は桟橋に用いた丸太も回収して余所で再利用することが多かったそうだ。
したがって、現在この位置まで辿り着けたとしても、路盤らしいものはないかもしれない。

作業軌道というのは探索者にとっても儚い夢のようなもので、記録すら残っていない線路が膨大にあったという事実が、想像の余地を大いに広げてくれるのだ。




話しは少し脱線するが、昭和45年の航空写真には、左岸林道と小根沢を結ぶ凄まじい九十九折りの道がはっきりと写っていた。

この道形は、昨日通過した【小根沢の分岐】を右へ行った続きに違いない。
小根沢宿舎と林道の間には約370mの高低差があるが、15回以上の切り返しを含む推定3kmを越える長い連絡路で接続されていたのである。
林鉄の廃止と同時に放棄されたとみられる大根沢事業所に対し、小根沢の宿舎は「千頭車道」(林鉄跡)と「左岸林道」の接続地として、いくらか長く命脈を繋いだらしい。

なお、エスケープルートにつかえそうなこの道の存在を知っていたら、探索中のプレッシャーもいくらか軽減されただろう。
おそらくないとは思うが、いつかふたたび小根沢へ行くことがあれば、この連絡路を使ってみたい。



さて、レポートは探索中へ戻る。

この写真は、上段の広場から下段の広場を見下ろした。
奥にはU字カーブの築堤に囲まれた窪地がある。
あの窪地は何なのか。
これから近づいて確かめたい。




この窪地に索道の下盤台があったのだろうか。
窪地の内部には、自然の倒木とは思えない量の苔生した丸太が散乱しており、これが盤台の残骸かもしれない。
また、盤台で下ろされた丸太を一時的に貯留しておく場所だったことも考えられる。丸太が散乱しないように築堤で囲まれていた可能性だ。

また、築堤は通路として使われていたようだ。
レールを敷けばそのまま簡易な軌道になりそうな勾配だが、枕木は残っていない。幅も狭いし、このまま進んでいっても下にある複線路盤と綺麗に繋がってはいなかった。(歩ける程度の斜面で接続)

結論。この窪地や築堤の正体は、はっきりしない。




『大井川鐵道井川線 (RM LIBRARY 96)』より転載

右の写真は、『大井川鐵道井川線 (RM LIBRARY 96)』に掲載されていた。
同書には、橋本正夫氏が、昭和37(1962)年6月に千頭森林鉄道の千頭〜大根沢間に乗車した際の極めて貴重なレポートが掲載されている。
写真はその際に大根沢で撮影されたものである。

ここに、私が現地で見たU字カーブの築堤が写り込んでいた。
チェンジ後の画像は、私が撮影した写真を重ねたものだ。
おそらく私は、橋本氏とほぼ同じ位置に立って撮影している(同ポジ写真)。
橋本氏がもっと右にカメラを向けてくださるか、私がもっと左にカメラを向けるかすればぴったり重なったのだが、惜しい。

橋本氏の写真には、複線路盤に停車中の運材列車が写っている。その奥には掘っ立て小屋が見えるが、これは現在残っていない。
カーブ築堤に目を向けると、そこには踏み跡があり、歩いている人の姿も見える。
一方、足元には丸太を束ねたような地面が見え、左端に金属製のチェーンのようなものがぶら下がっている。おそらくここが、大根沢索道の下盤台だ。
盤台に下ろされた丸太は、目の前にある斜面を転がって線路際まで行き、そこから集材機を用いて貨車へ積み込んでいたように想像する。




『賛歌千頭森林鉄道』より転載

ふたたび『賛歌』の写真を拝借。
これは大根沢で撮影された林鉄貨車への積み込み風景だそうだ。

正確な撮影年は分からないが、橋本氏が昭和37年に撮影した写真と同様、複線路盤に接する斜面上に、積み込みを待つ丸太が山積みになっている。
集材線に吊り下げられた丸太が、作業員の誘導によって貨車の荷台に収まる瞬間を、カメラは捉えている。

注目すべきは、U字カーブ築堤の内側に集材機が設置されていることだ。
ここに集材機が何台設置されていたのかは分からないが、現在は複線路盤のすぐ下に置いてある(?)【集材機】と同一品の可能性もある。(橋本氏の写真では、この位置に集材機があるかは不明)

チェンジ後の画像は、私が撮影した写真を同ポジを意識して重ねたものだ。
半世紀という時の流れが存分に感じられる緑化ぶりである。
この地においては、人が自然を破壊する力よりも復元力の方が遙かに強いようだ。



『賛歌千頭森林鉄道』より転載

これも同じ場所で(おそらく同じ日に)下流側を撮影した写真である。

路盤の川側に大量の原木(それも太い!)が山積みされており、千頭山の生産力の高さが伺える。しかもこれらは全て運び出され我々の暮らしに貢献したのだから、林鉄の面目躍如である。

それはさておき、この写真には現地で私を悩ませた“小さな謎の答え”が写っていた。
矢印のところに写っているモノに、見覚えはないだろうか?

チェンジ後の画像は、探索時に偶然撮影されていた同ポジの写真である。
この奥の方に写っている、“謎の物体”を思い出して欲しいのだ。
地元千頭の「西沢鉄工所」製造のプレートが取り付けられた、U字型の金属パーツ。そしてそのパーツにワイヤでくくりつけられた4つの車軸。
『賛歌』を手にする2016年まで、探索後6年間正体不明だった“謎の物体”の正体は――




『賛歌千頭森林鉄道』より転載

『賛歌千頭森林鉄道』より転載

吊り下げ搬器の一部だった 模様。

左は、大根沢事業所での積み込み風景であるが、空中にある丸太の影になっている部分に、“例の物体”が見える。

右の写真は、撮影場所は不明だが(大根沢索道の可能性あり)、索道を運ばれている丸太を写したものだ。
この写真により、“例の物体”がどのように使われていたのかが大体分かる。

しかし、地元鉄工所が作った金属部品に、林鉄用の汎用品とみられる車軸4本をワイヤで結びつけたこの“物体”は、大量生産品のようには思われない。
また、これまで探索した各地の林鉄跡や、そこで写された古写真の中でも、見たことがない。
おそらくだが、これは千頭営林署が独自に発明した“物体”だったのではないだろうか。

…「だからなんだ」と言われれば、もはや返す言葉はないが、現地で謎だった“物体”の正体が何年も経ってから明らかになったことが嬉しくて、文章量を割いた次第である。




大根沢事業所における、数万文字分の寄り道も、これでようやく終わり。

探索の実時間としては1時間にも満たない滞在だったが、千頭山における林業の一象徴として、印象に残る探索地だった。

9:14 大根沢事業所跡を後にした。





9:20 束の間の平穏に背を向け、門番の如き【天狗】に見送られ、

轟雷止まぬ寸又川本流、頼もしいデカリュックの元へ、55分ぶりに舞い戻った!

前進再開!





栃沢(軌道終点)まで あと.1km

柴沢(牛馬道終点)まで あと10.4km