道路レポート 塩那道路工事用道路 第12回

公開日 2016.01.08
探索日 2011.09.28
所在地 栃木県日光市〜那須塩原市

塩那の……… !!!




2011/9/28 --:-- 《現在地》



私は、酷く疲れていた。


このことに対して異論は持つ人はいないだろう。
それにそもそもこれは、私がこうしてレポートをしなければ誰にも知られることなくひっそりと終わるだけの、非常にプライベートな旅の出来事である。
私がこの“観察小屋”の中で、ちょっとだけ目を瞑るつもりで、その先にある“こと”には考えが及ばないほど疲労した(むろん目覚まし時計をセットするなどしていない)状態で午睡に及んだことを、いったい誰に責められようか。



私は、多分何のきっかけも無しに、「 ハッ 」と目覚めた。
その時の感覚は、私がかつて普通に仕事場で働いていた当時の出勤前(朝とは限らなかった)、稀に、とても嫌な予感と共に自動で目蓋が開き、言い知れぬ焦燥感に急かされながら、目線を枕元に彷徨わせる(そして時計を求める)、あの「やらかした」感覚そのものだった。
私は、酷く慌てた。

が、数瞬を経て寝惚けが醒めれば、私は「やらかさず済んだ」と理解し、同時に非常に安堵した。
なぜならば、外の明かりが、鉄格子の窓にまだ見えたから。
ただ、先ほどまであった「影」は、もう鮮明では無くなっていた。
思い出したように、ケータイを取り出して時計を見る。

「16:53」

重ねてホッとする。まだ日没前だ。あと30分少しある。

それにしても、どれだけ寝たのだろう。
デジカメのタイムスタンプをチェックすると、16:07に小屋の中で(前回最後の)写真を撮影していた。
何てことはない、私の昼寝は、1時間にも満たなかったのである。
小屋の中は寒くも暑くもなく、過ごしやすかったのだが、我ながらよく目覚めたものだと思った。


…というわけで、ハラハラさせてゴメンね皆さん!


「塩那の夕日ショー」の始まりだぜ!!


(ただ、このあとに「信じがたい出来事」が起きることを、私はまだ知る由もなかった)





ウェストポーチを付けて(重いメインのリュックは「記念碑」前に置いてきていた)、小屋の外へ出てみると、またちょっと焦ってしまった。

先ほどまで小屋の前からも見えていた太陽が、もう見えなくなっていた。

が、まだ日没時間前であることを冷静に思い出す。
単にこの場所が物陰になっているだけなのだ。
日が傾いたから、物陰が長く伸びただけ。
まだまだ塩那の日没を眺められる場所は、この周囲に数え切れないほどたくさんある。

そうだ、早速今の太陽を眺めよう。
どのくらい傾いているのか知りたい。
ここからの帰路は北へ向かう事であったが、ほんの少し南へ戻れば、今日は飽きるほど眺望を収穫させてくれた「最高所」である。
「最高所」の眺めの“今回の見納め”をしてから、帰ることに決めた。





16:55 《現在地》

おぉー…。

ほんの50分で、見違えたなー。

勇壮な“天空街道”が、空と一緒に物寂しい色合いに変わっていて、
ありきたりだけど、胸を締め付けられる感傷を覚えた。
なんというか、今はまだ見えているあの遠くの道に、もう2度とは行けないような気分がした。


太陽は沈没への傾斜をますます強めている。
眩しさも最後の頑張りを見せているが、実際は空ばかりが明るく、地は闇を濃くする一方だ。

「やっぱり今日も日は落ちるらしい。」

ふと、そんな当たり前に過ぎることを、意外に感じている自分に気付く。
今は1年の中で見たら、さほど日が長い時期では無いのだけれど、
それでも、早暁から夕方まで野外で比較的単調な活動をしっぱなしだと、1日は長い。
太陽がまるで空に張り付いた恒常の存在であるかのように思えてくるくらいには。
だからこそ、そんな苦しい(←ここ重要)探索の日の夕暮れには稀に、
太陽が沈むことを意外だと感じる、こんな不思議な錯覚が起きる。(私だけか?)



今度こそ最後の方向転換をして、“宿”が待つ北へと向き直る。

目の前の「観察小屋」がある小さな切り通しは、来た時とは比べものにならないほど暗くなっていた。

また会う日までと、背中の景色に再開を誓い、歩き出す。




昼寝前に眺めた那須野ヶ原の遠望だが、前よりも遠くは霞がかったようになっており、もう見ることが出来なかった。
そして、今自分がいる巨大な稜線が、何キロも離れた山の斜面に投射されている光景をマジマジと見た。
余りに巨大な影が覆い隠した大蛇尾川の深い谷底では、とうに夜は始まっていることを思った。
対して私がいる場所こそは、今日という日を一番最後まで生き長らえて、最高の夕日が眺められるはず。



薄暗い曇天と、溌剌とした晴天と、そのふた通りしか見たことの無かった“天空街道”の印象に、暮れ色の風景が穏やかに積み重なっていく。

秋の日はつるべ落としとはよく言ったもので、私がこうして歩いている僅かな時間の間でも風景の赤みはどんどん増していき、季節が進んだような印象を受けた。
凛とした肌寒さが、路肩の向こうの谷の上の空から上がってきている気がした。
風は静かに、しかし止まることなく吹いていた。

この戻り道、中間地点辺りまでは西側に視界が開けており、そこで夕日を送る心づもりで歩いていた。
だが、そこまでの行程でも、常に路肩から地平まで見晴らされるわけではない。
右の写真のように、灌木に遮られる場面もままあった。
そしてその度に一足早い夕闇の底に体が潜り込むのであり、肌寒さだけでなく、気持ちまで薄ら寒くなった。
やはりこの地での孤独の夜を前に、テンションが上がるわけもなかった。




現在時刻は17:04。

気象庁発表の(宇都宮の)日没時刻まであと30分を切った。

それにしても、今日は最後まで塩那の稜線に雲一つ掛からなかったな。
天候の変わりやすい高山なのに、こんな恵まれた日もたまにはあるのだ。
本当に天候には恵まれた。そうでなければ、今日の楽しみは半減だったろう。



まだ西の彼方に太陽はまるまる浮かんではいるが、北西に目を向ければ、
そこにはおそろしく淡い色合いの溶けたような世界が、見わたす限りに広がっていた。

太陽そのものの姿は、里で見るものとも、海で見るものとも大きな違いは無いと思ったが、
それを受け入れる地平の有り様は、やはり山の、そしてきっと“ここだけ”のものだった。

晴れてさえあれば毎日見る事が出来る、そんなありきたりな天体ショーである“日没”だが、
塩那という私にとって特別な場所で眺めることは、私の人生に、2度はないかも知れないと思う。
いよいよ時は近い。1度きりのチャンスを逃さぬよう、慎重に眺めを選びながら歩いた。


まだ下りは続いているが、小まめにチェックしていた太陽が、
そろそろ本格的にヤバくなってきていた。

ベストな眺めの場所がどこなのかなんて知らないし、
それを知っていてスタンバイするのも、なんか興が醒める。
行き当たりばったりだが、この次の日なたになっている辺りまで進んで、夕日観賞をしよう。




17:15 《現在地》

地平線に太陽が完全に沈む予告時刻の15分前だが、
私が眺める塩那の日没は、ここで始まった。
地平線ではなく、間近にある鹿又岳の先ほど超えたばかりの小尾根に太陽が没し始めたのである。
特に場所を狙わなかったのでこういうことになったが、別に惜しいとは思わなかった。

息を呑む美しさがあったから。



だが、この現在進行形で進む日没を目の当たりもしながら、私は長く一所(ひとところ)に留まってはいなかった。
歩き続けなければ、生還というゴールへと近付き続けなければ、気持ちの悪い不安が私を襲ったのだ。
そして太陽が全部沈んでしまう少しだけ前に、“あの場所”と言っても伝わらないかも知れないが、
写真を見てもらえば、まあ通じるだろう、“天空街道”の中でも有数の私好みの場所まで辿り着いた。

17:19 《現在地》

ここで塩那道路は最も主稜線に近いところ、或いは主稜線そのものを縦走する。
今の太陽がどの高さにあるのかは、それを直接見なくても、向こうの大佐飛山の山腹に映った
“こちら”の稜線の高さを見れば一目瞭然だろう。 まあ、直接も見るけどね。最後の夕日!




あ−、終わったなー。



太陽が、先ほどから執拗にそれを絡め取っていた手近な山の端に沈むのと、
もっと遙か遠くの地平線に堆積した雲の層に沈むのは、ほぼ同時であった。
本当に完全な、日没であった。


そうして音もなくヒカリが去ったとき、私の周りにあったのは……











「闇!」とか、デカデカとした黒文字(見えないな)が出ると思ったでしょ?
そこまで中2じゃないっすよ(笑)。
大人の私は知ってるですよ。
日が落ちても、空の下にはまだもうしばらく、それなりの明るさが残ること。
それを知っているから、こんな絶対孤独の山中で日没を迎えるような不用心なマネが出来たのである。
いくら知ってる道だからって、泊まる場所以外で夜を迎えるのは、不用心だからね(過去に何度もやらかしてるけどな…苦笑)。

そんなわけで、空の残光を頼りに、記念碑の宿まで、残り600mの塩那道路を黙々と歩く。
なお、なんだかんだ言いながら、塩那道路に辿り着いてからもさらに7kmくらい歩いているので、足の太腿の張りと爪先のジンジンした痛さが、だいぶキツかった。
まあ、今夜さえ乗り切れば明日は下山&自転車漕ぎ(別の探索予定もあるんだぜ(笑))なので、大丈夫だろうけど。




17:34 《現在地》

朝のスタートから12時間12分、夜闇迫る空の下、私は今夜の定めし宿へと到着した。

まず確かめたいのは、数時間前に自ら確かめた記憶がある“宿”こと、プレハブ小屋「スペースハウス」(←というシールが貼ってある)の扉が、確かに開いていることだ。
あれが幻だったとは思わないが、万が一何かの間違えで中に入れなかったら、夜具を持たない私は結構ピンチなもんで。
小屋裏の自衛隊記念碑前に数時間置き去りにしたリュックの安否を確かめるよりも先に、まずは扉へと近付いていく。

その時だった――



  あはははっ… はっはっは…  



!!! 

え!? 人の 笑い 声? 

え? 嘘でしょ? 小屋の裏の辺りから、今確かに声が聞こえたんだけど。
それも一人じゃないし、何人もいる。  …一人で声を出していたら別の意味で怖いが…

つうか、

今も現在進行形で聞こえてますけどぉおおお?!?!




耐える夜


普通に笑っている人がいた!!!

―というだけでも驚きなのに、

なんと彼らは、私の知っている人だった!

―というのだから、間もなく始まる孤独の夜を乗り切るために、口など開かぬという覚悟で精神に緊張をみなぎらせていた私は、思わず脱力し吹きだしてしまった。

彼らは、雪田爺氏、uzura氏、黒yasu氏からなる、屈強な“藪山トリオ”(これは私が勝手に命名)であった。
直接お会いするのは初めてだったので、私は彼らが誰か始めは分からなかったが、気さくに話しかけてくる雪田爺氏に「貴方はヨッキれんではないか?」とズバリ言い当てられて、心底驚かされた。まさか地元には、「塩那道路にはヨッキれんが出る」なんて云い伝えでもあるのか。そんなバカな話は無い。
だが、私もお名前を伺って思い出した。秋田県の雪田という、かつて上小阿仁林鉄が通っていた集落のご出身である雪田爺氏が、5年くらい前に、私の森吉林鉄のレポートに関し重要な情報をメールしてくれたことを。


彼らもオブローダーだったのか。
いや、私は考え違いをしていた。この塩那道路を志すのは、道を征せんとする者達だけでは無いのだ。
山を征せんとする人々もまた、この交通不便のため無垢に残された広大な山塊に惹かれ、その中の唯一無二の広路を、目的達成のための重要なキーとして活用していた。
そんなことは、ネットでもう少し真面目に塩那道路のキーワード検索をしていれば、とうに理解しているべき事柄だったのだが。


なお、ここで出会うということは、“そういうこと”でもあった。
つまり彼らの話を聞くと、彼らも今朝からあの地獄の如き“工事用道路”を上り詰め、ここへやって来たのだそうだ。お互い察知はしていないが、私の1時間くらい後を追いかけていたようである。
(彼らの歩いた行程や、彼らが入山した目的とその結末は、雪田爺氏のサイト「栃木の滝」のレポート「那須塩原市 大佐飛山」を参照されたい。ロー●ン直伝のニコニコ笑顔で私も出演してたぞ…。)
…と、ここまで書けば、皆さまの中にはこんな風に(↓)思う人がいても仕方ない。そして、私はそれを正直恐れている。
「前人未踏の廃道を踏破するような感じでヨッキれんは工事用道路をレポートしていたが、こんな平日(水曜日である)に4人も歩いているくらいだから、実はメジャーな登山ルートなのであって、ヨッキれんの語りは凄く大袈裟で眉唾なんじゃないのか?」

そう思ってしまった正直な人は、もう一度だけ、このレポートの第4回から第7回辺りを写真だけでいいから見直してほしい。
あんな道がメジャーな登山ルートなのだとしたら、日本はいろいろ終わってる。
ここで説得力のある証拠を見せる術が無いのが残念だが、この山上での邂逅は本当に偶然の出来事だった。

「何年も前にメールをやり取りした人物と、何の申し合わせをすることなく、そのメールの内容と全く関係のない場所、人生2度目の塩那道路の一夜に出会う。」

こういうことさえ長い人生にはあるのだと、そう納得して貰うしかない。ないんだよ!



別パーティとはいえ、同じ道を歩いてきた同志が間近にいる。しかも、相手は私を優しく迎え入れてくれる。塩那道路が父ならば、彼らは母のようだった。
私は全く予期せず唐突に、あの孤独から救い出されてしまった。

ぶっちゃけ、塩那道路における実景の感得と、その表現だけに専念をするならば、ここで第三者による攪乱が加わったことは、残念なことであったかもしれない。
彼らと笑顔で言葉を交わし続けながら、そんなことを内心に抱く程度には、私は冷静であった。

ただ、そうは言いながら、ここから先の記憶の一部は欠落が激しい。
これまで孤独に過ごしていた時間の出来事については、写真が多くあることもあり、何年経っても詳細に思い出せるのだが、彼らと過ごした時間の記憶は鮮明で無い。
(これは決して、彼らとの時間が退屈であったというのでは無い。むしろ、私は救われた喜びに、我を忘れてしまっていた。)

私が唯一譲らなかった(と思える)ことは、気前の良い彼らから食料や水の施しを受けなかったことくらいである。
これについてだけは(緊急時でなければ)譲りたくなかった。
彼らからは、面倒くさいうえにつまらない野郎だと思われたのかも知れないが、山でのことだから分かってくれるとも思った。
これは、自分が選んだ決断…「この装備と食料と水だけで夜を越えて無事帰還する」…が、実際に無理のない決定であったことを自分で証明して納得しないと、次回同じような決断の機会があったとき、今回のことが経験として活きないばかりか、臆病になってしまうと思ったからだった。



山の夜は早いとはよく言うが、本当にその通りである。

彼らと出会ったのは17時半だったが、それからしばらく談笑し、気付けば完全な暗夜が辺りを包んでいた。
私も彼らも、明日は別々の道を夙(つと)に歩き出すことを知っているので、後腐れは皆無。さっぱりとしている。

私が“宿”へと寝るつもりで引っ込んだのは、20時過ぎのことだった。
それまでも何度か“宿”へ入って寝床を作ったりいていたが、いよいよ寝ることにしたのである。




ブルーシートが全体に敷かれた、六畳一間のプレハブ小屋。
せめて畳でも敷いてあれば良かったが、木床にブルーシートの寒さは、言語に絶した。

大袈裟でなく、そうだった。
簡易なものであっても、寝袋を持っていなかったのは、この時期のこの標高では明らかに失策だった(←経験値get!)。

リュックに忍ばせていたジャンパーを頼りと着込むが、9月の探索に適した恰好にジャンパー1枚である。
たまらず、まるで鼠のようにブルーシートをほじくり出して包まるが、シートと着衣の間にある空気が動く度に底冷えのすることを、どうしょうもなかった。
保温性があると思いこんでいたのは銀色のシートで、ブルーシートは、その色のように冷たかったよ…。



いまの気温は何℃だろうか…。
そういえば今朝、麓のキャンプ場の草地が白く結露していたんだよな…。
あの光景が、今なら素直に受け入れられるぜ。

ああ、この寒さと寝心地の悪さ…。これは、清水峠の新潟側のリベンジに挑んだ前夜のことを思い出す。
標高1500m近い清水峠頂上の山小屋が満員で、土間にさえも満員で寝転がれず、結局入口の扉に面したコンクリート階段に座ったり倒れたりしながら、まんじりともせず朝をただただ待ったあの夜。苦い思い出。
あのときに較べれば、今日は遙かに焦りも苛立ちもない(後は下山するだけだし)のであるが、この気温の中で眠っても大丈夫なのかという不安がよぎった。主に生命的な意味で。(外で火を起こす事は出来るが、ここは国立公園の特別地域内なので、よほどの緊急でなければ使用できない)




結論から言えば、蓄積しまくった疲労は、長い夜の間に何度かは浅い眠りに引きずり込んだ。
だが、1時間以上目覚めないことはなかった。毎度手足の寒さに目覚めてしまうのだった。
しかも、目覚めたときにはいつも寒さに震えていて、そのままでは次の睡眠に入れないので、やむなく疲れた体に鞭打って狭い小屋の中でジョギングをして体温を上げるという、全く以て情けない自家発電状態であった。
不思議と小屋の中も外も体感温度に違いを感じなかったので(外も夜は風はなかったが、とにかくプレハブ小屋の保温性が絶望的と知った)、何度かは外へ出てもジョギングした。

そうこうしているうちにようやく日付が変わり、塩那道路での1日を生存したと思ったが、なお夜明けまでの半行程を耐えたに過ぎなかったことに思い当たり、憂鬱にもなった。
(この日の日の出の時刻は、ちょうど日没から12時間後の5:30であった。)

夜は長い。

本当に長い夜だった。

耐えるだけの、夜だった。



え? 星空は綺麗だったろって?

  確かに綺麗だったんだけど、写真は無いです。撮り方を知らなかったので。

塩那道路からの夜景の報告早よ?

  どこからか見えるんでしょうか? 少なくともここからは見えませんでした。


それより誰か、夜の楽しい過ごし方(寝る意外で)を、教えて下さい。

朝よ、早くきてくれぇええ!! ロクに眠れないのは我慢出来るが、このままじゃ退屈で体がねじ切れちまうッ!




細切れの眠りと、屋内ジョギングの寒々とした夜は、こうして酷くゆっくりと過ぎていった…



2011/9/29 5:02 《現在地》

10回目の目覚めか、あるいはもっとなのか覚えてもいないが、
ともかく午前5時に辿り着いた私は、重い頭に喝を入れ外へ出た。

そして、東のかなたの空に、昨日見送った色の光が宿り始めているのを目撃した。
暗色の淡いグラデーションに透かされて、大佐飛山の大きなシルエットが浮かんでいた。



朝が来る。

初めての塩那の夜に、私は耐えた!

本当に有意義なことなんて何も無く、ただ着の身着のままに耐えただけ。

でも耐え抜いたのならば、次に繋がる旅は続けられる。今はそれでいい。



さも当然のように結露し氷結していた、9月29日(木)早暁の塩那。
寝袋なし、薄手のジャンパー、プレハブ小屋、これらの諸要素では、快適な山の夜は望めないことを学んだ。

頭の上の空は、昨日の日暮れのときのままで、相変わらず雲一つ浮かべていない。
徹底的に今回は晴れだけを見せる塩那の愛か。突き抜けてる。
この季節ならぬ低温も、2日連続の放射冷却だろうと思った。

しかし、冷静に考えると、この結露ぶりはヤだなぁ。
これ、帰り道で藪漕いだらパンツまで速攻でグッチョリだろうな。
まあ、下山するだけだから良いけど…。




もうこれ以上眠る気は無い。
ろくに眠ってないけれど、これからの時間は、私の時間。
無駄にしたら勿体ない。

“塩那の夜明け”を、万全な大勢で迎えなければ。
これまた、“塩那の日暮れ”と同じくらい貴重な光景であるはずだから。

ただ、ここからだと大佐飛山の裏から昇る太陽を待つことになるっぽいので、より積極的に迎えるべく、少しだけ移動する事にした。
どうせ何をしていても寒いしな、動いていた方がマシだ。



5:10

カメラとウェストバックだけ装備し、小移動のために、改めて外へ出る。

最初に見たときから10分も経っていないが、すでに東雲の火床は十分に熱せられた色を見せており、今にも真新しい灼熱の火球が浮かび上がりそうである。
スタンバイを急がないと。

どこへ移動するかは、6年前の風景の記憶から、すでに決めていた。




静寂に包まれた同志の天幕と、その隣の「記念碑」に向かって一礼をして通過する。
いま私が向かっているのは、昨日は全く足を向けなかった“天空街道”の北側区間だった。




工事用道路との分岐地点から振り返る、「記念碑」と宿のある鞍部全景。
向かって左が東の空で、明るくなっている。
工事用道路のある西側は、まだ夜だ。

夜と朝の境目の幽玄世界に、6年ぶりの足跡を進める。
足は1歩目から重苦しく、睡眠による疲労回復が皆無に近いことを思い知ったが、気力はとても充実していた。塩那で1日生存したことが誇らしかった。




私が目指す日の出の展望所は、「記念碑」地点から250mだけ板室側に進んだ所にある、「ひょうたん峠」地点だった。
お馴染みの塩那道路地名看板によって周知された地名であるが、肝心の看板は6年前から既に見あたらない。
ともかく、“天空街道”の中で日の出を見るならば、ここに勝る場所は無いはずだった。

すぐに「ひょうたん峠」のカーブが見えてきた。
あのカーブの外側に立てば、木の俣川の広大な谷がまっすぐ東へ向いていて、その先には那須の山々や那須野ヶ原が見通せる手筈だった。

ここからもはっきりと見える空の明るさが、私を駆り立てた。何度も時間を確認してしまう。まだ出てないよな。間に合ったよな。
夜明けは万全な姿勢で、ちゃんと迎えたい。



5:19 《現在地》

日の出まであと10分。「ひょうたん峠」に到着した。

そして、



スタンバイ OK!

いつでも上がってこいよ!!