小坂森林鉄道 濁河線 最終回

公開日 2016.7.22
探索日 2013.5.03
所在地 岐阜県下呂市

右の線路は、本線だったのか。


2013/5/3 9:05 《現在地》

100mばかり手前の“分岐地点”に、戻って来た。
先ほどは“左の線路”を終点まで探索したので、今度は“右の線路”である。

左の線路は広場(現状は笹藪だが)の中の複線桟橋で終わっており、いかにも林鉄の停車場っぽい雰囲気があった。
ただし、桟橋の多用は作業線的であり、昨日歩いた部分を含めたここまでの風景とは雰囲気を異にしていた。

果たして、今度の“右の線路”こそが、作業線ではなく土木軌道として開設された、本線なのだろうか。
私の興味の一つはそこ。
そしてもう一つの興味は、今度の線路がどこまで延びているのかという、より根源的な興味であった。




“右の線路”は、分岐から20mほどで写真の堀割に入る。
こういう地形だとやむを得ないのだが、これで敢えなくレールは行方不明になってしまった。
土の堆積は結構ぶ厚いようで、爪先で小突いた程度では、レールを確かめる事が出来なかった。

だが、この短い堀割の先にあるものを既に私は知っていた。
それは、前回に“左の線路”を辿る過程で、見えていた物だ。

そしてそれは、その通りに現れた。
が、予想外の要素も含んでいた。




堀割の先に待ち受けていたのは、小さな涸れ沢を跨ぐレールだった。
もとはごく小さな木橋だったようで、丸太の残骸のようなものが左側に見えているが、とうの昔に蕩けてしまい、今はもう2本のレールだけが跨いでいた。

これだけならば、驚くには当たらないだろう。
私が意外だと思ったのは、この涸れ沢を跨ぐレールが、手前側で明確に途絶えていたことだ。
片側だけでなく、両側のレールが同じ位置ですっぱり切れていたので、後年の洪水などで壊されたのではなく、堀割区間内のレールは意図的に撤去済みだったという可能性を疑わせた。




現在地から見下ろす、“左の線路”の木製桟橋。

両者は20mほどしか離れていないが、高低差は結構大きい。
“左の線路”が分岐以来ずっと平坦なのに対し、この“右の線路”は、分岐以前に倍して急激に登っているせいである。

この勾配の変化は、“右の線路”の主目的が、登る事であることを感じさせた。
対して“左の線路”は、平坦であることを目的としている。
そうなると、より山の奥へ続こうという意志を持っているのは“右の線路”だという私の読みは、間違っていないと思う。
そういう意志がなければ、わざわざここで平坦な土地を無視してまで、斜面に取り付いている意義がない。

期待は膨らむ。記録された全長8.7kmの埒外の未知なる線路が、この先にあるのではないかという期待が。



序盤に一旦途切れていた疑惑を持たれたレールだが、涸れ沢の先はとりあえず無事だった。
が、相変わらず路盤上の土の堆積が多く、注意していないと見落としそうだし、いくら凝視しても見えない部分が多かった。
そのため、ときおり爪先で存在を確かめながら進んだのだった。

しかも、前方は見覚えのある感じの笹藪だ。
“左の線路”の広場周辺を覆っていた笹藪の続きが、こちらまで敷衍しているのである。
こればかりは、どうにもならない。

この笹藪に入った辺りで、1本の木製電信柱が傾きながら立っているのを見た。
軌道沿いで電信柱を見るのは、濁河川を渡った後についていえば、これで2度目である。
距離に較べて圧倒的に数が少ないが、基本的には電信柱を用意せずに適当な立ち木で代用していたのだろう。



笹藪を数十メートル進むと、路盤がやや広くなっている場所があった。
レールはほとんど見えないが、引き続いて左側に敷かれているようだった。
中央に林鉄現役時代から生えていただろう、だいぶ太い木が見えると思うが、その根元に、

何やら錆色をした金属の物体が転がっていた。

当然近寄ってみる。


何だこれ→

だいぶ複雑な形をしていて、上手く言葉では表現出来ない。
全体としては板金を組み合わせた板状の加工品で、外径70cm四方くらいはあると思う。
たぶん左右対称形で、左側に見えている四角い部分が、中央の棒状の部分で、右側の四角い部分と結ばれているのだと思う。

正直、文章での説明が難しい。写真を見てもらうのが一番なのだが、半ば地面に埋もれている上に、右側は若木によって地面に縫い付けてしまっていた。
だから完全に掘り出して全体像を確認する事は不可能だ。それこそ、木を伐採するしかないだろう。
どうにか見える範囲から、この物体の正体を探りたいが…。

なんだろう? 林鉄跡にありそうな、こういう形の物体は……?



近付いてよく観察すると、四角い部分には、かつてガラスが嵌め込まれていた形跡があった。

↓↓↓

ガラス

↓↓↓

ガラス窓…?

↓↓↓

機関車の運転台!!!?



まままままままままて、おちけつ!

でも、この形って、→→

この形ってッッ!!


←完全一致とは、いかない。

だが、似てはいる!!

この錆びた物体の正体は、ここで使われていた内燃機関車の運転台の一部ではないのだろうか。
そんな物がここに置かれている理由は皆目見当がつかないが、この形状(特にガラス窓)に合致する物は、正直他に思い当たらないのである。

確実ではない! 
確実ではないが、これが本当に機関車の一部だとしたら、貴重な発見だろう。

マジでここは林鉄のワンダーランドか…。



9:10 《現在地》

血圧を高くする発見に胸を躍らせつつ先へ進むと、再び笹藪が濃くなり、足元のレールの有無も追跡不能になった。
あるのかないのか分からない。
しかし、路盤自体は明確な痕跡を残している。進路に迷う余地はなかった。

この場所は左側に大きく視界が開けている様子が、写真からも分かると思う。
ここからは“左の線路”の終盤にあった複線桟橋の一帯をよく見下ろす事が出来た。
次の写真は、その眺めである。




もし“刈払いオフ”を成功させたら、ここに複線桟橋が、ズギャギャギャギャーンって、現れるハズなんだよなぁ。

あることはあるんだから、笹のせいで見えていないだけなんだから。

ともかくこれで、“左の線路”の終点はもう見えてきた。
果たして今いる“右の線路”は、その先へ進めるのだろうか。
その判断地点が、いよいよ近付いている。




おお! 森(造林地)の中に入った。
しかも、右の斜面を登っていくスロープがある!

この右の道、もしやインクライン跡なのではないかという期待から、少し上まで登ってみたのだが、残念ながらそういうことはなく、ただの歩道のようであった。
しかし、間違いなく人工的な道だ。造林地の作業路だろうか。

対して正面の道が、引き続いての軌道跡だ。
相変わらず登り坂ではあるが、これまでの笹藪が森と引き替えに一掃されて、路盤が綺麗に露出している。
そしてそこに、レールは無かった。

レールなし。 その意味するところは……。




終わっちまった!

これが、おそらく濁河線上部軌道の本当の終点だ。

直線の長い立派な切り通しが、これ以上無く綺麗な形でスパッと閉じていた。
複線の幅を有する堀割エンドは、まさに林鉄の絵に描いたような終点の風景で、
さらに続いていなかったことは少し残念だが、どうせ終わるならば、
これはとても気分のスッとする、良い終わり方だった。



9:13 《現在地》

遂に全てが終わった。

私は、最後の堀割を足元に見下ろす位置に立った。
木洩れ日と森のそよ風を感じながら、この2日間の数え切れない成果を振り返った。そして、その余韻を噛みしめた。

結局は、“右の線路”も“左の線路”と同じく、畑さこ谷を越える事はなかったのである。
両者の終点は、直線距離にして30m、高低差は10mほど離れるが、畑さこ谷に対する距離という意味では横並びで、同谷の100mほど手前にある濁河川沿いの急斜面の手前で終わっていた。

この終点の付近で二手に分かれていた線路には、どんな意味があったのだろうか。
両方の線路を歩いてみた実感としては、右の線路の方が先に廃止されていたような気がしている。路盤の終点にレールが敷かれていなかったのも、そう考える根拠である。
だが、同じ風景の解釈としては、次のようにも考えられるのだ。
右の線路は、さらなる奥地への延伸を前提とした準備施設か未成線だったのだと。
これは、私好みの夢ある妄想だ。

この地の海抜はおおよそ1220mで、小坂森林鉄道関係の最高標高地点と思われる。
もちろん、全国にはさらに高標高に達した林鉄はあるが、起点の飛騨小坂駅の標高550mから、本線と支線、さらに濁河川を渡る巨大な索道をも乗り継ぐ20kmを越える長路の最果てを思うとき、この終点の風景には神々しささえ覚える私がいた。
人と森の尊い関わり合いの残照は、今も無人の山河を色濃く彩っていたのである。
これほど多くの遺構を目にすることは、昨日の探索開始までは、全く予期しないことであった。



帰還開始!



9:30 《現在地》

余韻に耽った終点から満足顔で引き返した私だが、それから僅か10分後には既に全ての軌道と別れを告げて、林道が濁河川を渡る橋(銘板などがなく名称は不明)の上に立っていた。
今は無き林鉄の濁河川橋梁(仮称)の代替であるこの大きな橋を渡って500mほど歩けば、今朝停めた自転車が待っているはず。

ところで、この橋上から眺めた濁河川の景色が、ちょっとばかり凄かった(→)。

こんなに直線的な川というのは、源流付近には普通ないのではないか。
特に左側の岩壁はコンクリートかと思うほどに真っ直ぐで、天然の妙を超越した違和感を醸していたが、それでも人工物ではあり得ない。

ちなみに少し前まで探索していたのは右側の岩壁の上方、水面からは3〜40m以上の高所である。
全線で隣接しているにも拘わらず軌道跡とはほとんど触れ合わず、探索中に目にする機会も決して多くない濁河川は、なかなか神秘のベールを脱がない川である。軌道跡は征服したが、この川は全然征服出来た感じがしない。



それから首尾よく林道分岐地点に辿り着き、自転車を回収(←)。

この探索の最後の行程となった追分までの自転車による登攀は、さすがに下ってくる時のように楽ではなかったものの、もう何度も通った道であることと、快晴以上の爽快な天候と、昨日とは違って隠れる気が全くない御嶽山(→)と、納得行く探索成果の全てに励まされながら、30分足らずで元気に登りきった。

10:07 《現在地》

追分到着、探索終了!



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あの橋の在りし日の姿を見た! 10年前の探索レポートを発見。


全長8.7kmの軌道上で行われた2日がかりの探索を、導入から延べ19回も重ねたレポートで見て頂いた。これにより2013年現在における濁河線上部軌道の現状を一通り紹介出来たと自負しているが、ご満足頂けただろうか。

個人的には、私がこれまで探索した全ての林鉄の中で最も収穫に満ちた探索であったと思う。
ここには、レール、橋、トンネル、廃車体といった、林鉄探索者が渇望するアイテムが全て含まれていたし、私が初めて目にしたティンバートレッスル橋のような遺構さえあった。
しかも全線を通じて既知ではなく未知の状態で探索出来たことは、私にとっては掛け替えのない喜びであり、逆に、このレポートを読んでしまった皆さまに対して私が同情する点である。
(もっとも、私が一通り歩いた程度では、まだまだ沢山の見落としがあるに違いないから、ほとんど問題は無いだろう。)

現地探索で十二分満足したせいか、いくらか謎を残したにも拘わらず、帰宅後も特別に机上調査はしなかったのだが、後日別件で入手した“ある本”の中に、私よりも10年以上早く上部軌道の一部を探索した方のレポートを発見した。
しかもそこには、私が現地で「惜しい!」と思ったことや「謎だ!」と思ったことの答えが幾つも含まれていたのである。



『トワイライトゾーンマニュアル13』より転載。

“ある本”とは、言わずと知れた鉄道探索の名著『トワイライトゾーンマニュアル』シリーズ(ネコ・パブリッシング刊)のうち、平成16(2004)年11月に発行された『13』である。
そこに収録された「森林鉄道の終点」という記事が、濁河線上部軌道の終点付近を詳細にレポートしていたのだ。

記事の執筆者は、林鉄探索者にはおそらく知らない人はいない、竹内昭氏である。
プロフェッショナルの手による非常に質の高いレポートであり、分量も豊富で、皆さまにも本を入手して読んでいただきたいレベルだが、いかんせんトワイライトゾーンマニュアル(TZM)シリーズのバックナンバーは入手性に難がある。『13』もヤフオクなどで時々出品されているようだが、容易に入手出来ないかもしれない(図書館にも所蔵している所があるので、最寄りの館に依頼して取り寄せられる場合がある)ので、私が特に気になる部分を引用して公開しようと思う。

この記事の中には“あの橋”の在りし日の写真もあるので、(他人様のフンドシ頼みだが)期待していてくれ!



まず始めに引用するのは、竹内氏が調査した濁河線の歴史についてである。
私のレポートでも導入回で『全国森林鉄道』を引用して歴史の概要を述べたが、TZM13の記事にはそれ以上の内容が含まれていた。(引用文中、気になる部分に下線を付けた)

濁河線の起点は椹谷線の分岐点で、1.8km程進むと索道で濁河川を渡った後、畑さこ谷出合まで達し索道上流部だけで8.68kmあります。濁河線のレールは6、8、12kg/mで、主に8kg/mレールとJIS規格外の変わったレールが多く使われていました。軌道は営林署の管轄でしたが1947(昭和22)以降、伐採運材事業は小坂官材共同組合が行ない、昭和30年代になると索道上は組合所有の加藤製作所製のディーゼル機関車2台、集材機も組合の所有で他に営林署のモーターカーが1台あったそうです。運材台車は営林署からの借りたものを使用し、勾配のきつい根尾滝付近までは5台にまとめられた運材台車をブレーキのみで下り、機関車は単行で走りました。勾配の緩くなる根尾滝付近〜岳見台(索道上)は機関車が牽引する列車運材でした。索道より下は支線用の機関車が牽引、下島から本線の機関車で小坂の貯木場に送られていました。ブレーキは当初制動手による手動ブレーキでしたが、後にエアブレーキ化されました。1959(昭和34)年には本線を含めほとんど廃止されましたが、濁河線は間に中継索道のある特殊な線型だったためかその後も長く残り、運材終了が1970(昭和45)年、廃止が1971(昭和46)年でした。廃止後、組合の機関車2輌は里に降ろされ解体されたそうです。

最終回に登場した機関車パーツ。第9回に登場した木造運材台車。第7回に登場した鋼製運材台車。

今回の探索で見つけた「廃車体」に関する物は、右の三つであった。
このうち最終回で見かけた機関車パーツ(運転台の一部か)は、ここで活躍していたという加藤製作所製の2台のディーゼル機関車に由来する可能性が高い。

また、この機関車や道中で発見した各種運材台車の運用方法についても情報があり、根尾滝付近を境に列車運材と単行乗り下げ運材を使い分けていたらしい。
おそらく運行の中継地点は、レポートの第10回に登場した中間停車場と見られる複線部分ではないだろうか。


TZM13に記載された竹内氏による濁河線上部軌道の探索レポートは、右図に示した三ケ所について触れている。それらは、倉の平側の索道盤台(私のレポの第1回)、濁河川橋梁(仮称)(同第14回)、そして林道との交差点から終点まで(同第16回〜最終回)である。

終点付近のレポートでは、基本的に私が現地で見た物は漏れなくレポートされている。また、それらについては、特に大きく異なる見解が述べられていることも無かったと思う。
だが、私が知らなかった新情報や、私が見た物とは明瞭に違っている箇所もあったので、その辺りを重点的に紹介しよう。

まずは、第17回に登場した朽ちた吊橋(←)に関する情報だ。

濁河線終点へは、下島から小黒川沿いに上り濁河温泉へ行くバス路線に沿って進みますが、大平台〜追分間にかつて「林鉄口」というバス停があったそうです。これはかって濁河線終点の事業所へ行く歩道がこのバス停付近からあったそうですが、現在ではその歩道も消滅してしまい事業所直前の濁河川を渡る吊り橋が朽ちながらも辛うじて残っていると聞きます。

「林鉄口」というバス停が県道441号に存在し、件の吊橋を経由して林鉄と県道を歩道連絡していたという情報。
当時の吊橋の状況は伝聞の形で触れられているだけだが、既に荒廃していたのだろう。現状はもう、「辛うじて残っている」とすら言えなそうだが…。

竹内氏のレポートには、この中破したティンバートレッスル(←)の平成13(2001)年11月18日当時の写真が掲載されていた。
が、意外なことに、12年前も現状と全く差異が認められない姿であった。
当時から既に今と同じくらい崩壊しており、そこで崩れ方が止まっているようだ。

対して、明確に変化している遺構もあった。
例えば、ティンバートレッスルの直後に現れた、この大破した木橋(→)である。
こいつの平成15(2003)年6月8日に撮影された写真(下の2枚)を見た私は、思わず臍(ほぞ)を噛んだ!




『トワイライトゾーンマニュアル13』より転載。

『トワイライトゾーンマニュアル13』より転載。

10年前迄は、架かってたのか〜!! ぐぞーッ!


いいもん、いいもん! 私だって架かってる橋を1本見つけたもんね…。

林鉄探索においては思い立ったが吉日で、急いては事をし損じ「ない!」と心得るべきだろう。



続いては、“左の線路”の終点にあった複線桟橋で私が見た物(→)についての、種明かしだ。
ここの左側の桟橋の一部に敷かれていたレールは、枕木に固定されていないという大変不自然な点があったのだが、そのワケは…。


『トワイライトゾーンマニュアル13』より転載。

桟橋の先を行くと再びポイントが現れ、その先は複線桟橋になっていますが軌道が残るのは山側のみで川側は撤去されています。また、この辺りの笹藪になっていますが野地になっており、現役時代の事業所などはこの辺りにあったものと思われます。

←注目は、左の写真のキャプションだ。
奥の軌道は撤去されていたものに、その辺に転がっていたレールを持ってきて“らしく”並べてみたもの。

はーい、解散かいさーん!

あの謎のレールは、10年前の竹内氏が残した後進へのプレゼントでした!(汗)

続く、複線桟橋から“左の線路”の終点についての次の記述も面白い。




『トワイライトゾーンマニュアル13』より転載。

複線桟橋の右に、これまた何やら鉄板が落ちていると思ったら、それは何と加藤製機関車のキャブの扉でした。金切り鋏で無理やり切り抜かれた穴まで開いています。歩道はこの辺りで消えてしまうので、その先は籔の中を複線桟橋を追って進むと、間もなく単線桟橋になりますがポイントは撤去され普通のレールに敷き直されたようです。その際で桟橋は終わり、すぐ先の緩い右カーブで軌道は途切れ、ここが終点、軌道最奥地ということになります。現役時代には、この位置に機関庫があったということです。

私も今回の探索で、“右の線路”の途中で機関車の運転台(キャブ)の一部とみられるパーツを発見している。
竹内氏もそれを見つけており、「加藤製機関車のキャブ前部、ボンネットの凸形や窓でそれと分かる」と記していた。
だが、彼はそれと別に、“左の線路”の複線桟橋付近でも写真(←)のパーツを発見しているのである。
残念ながら、藪が深かったせいか、私はこれを見つけていない(行方不明)。
どうやら、終点の“加藤臭”は半端ないレベルのようだ。もっと探せば、他のパーツも落ちているかも…。

また、レールはあるのに車止めが存在しない事に不自然さを感じていた終点(→)についてだが、現役当時、ここには機関庫があったという新情報。
当然、機関庫は壁に囲まれていたのであろうから、それが車止めを兼ねていた可能性が高いのだろう。腑に落ちた。




『トワイライトゾーンマニュアル13』より転載。

“右の線路”の終点直前で山手に別れていた歩道(←)の正体についても、考察した記述があった。

その先から右上に歩道が延びています。畑さこ谷の集材は木馬によって運ばれていたので、これが木馬道跡なのかもしれませんがすぐ先で崩落していました。

木馬(きんま)とは、木材を乗せた木製のソリを、それが滑りやすいように作った木造の通路に走らせる輸送手段であり、各地の林業地帯の短距離運材手段として集材機の本格導入による機械化以前は盛んに行われていた。
右の写真は昭和30(1955)年の春先に撮影されたという、畑さこ谷付近の木馬桟道であるという。
この場所が現状どうなっているのかは調べていないが、林鉄の作業線によく似たこのような桟橋が、林鉄の終点よりさらに奥の山地を縦横していたのである。考えるだけで、ぞくぞくする。

なお、竹内氏のレポートでも、終点付近の分岐した線路については左の方が後まで使われていたのではないかと考察している。

右側の上の軌道が本来の濁河線のようですが、こちらの方が廃止が早かったのか、あまり軌道は残っていません。左側の下の軌道がほぼ全線残っているところを見ると、最後まで材出しをしていたのは下の線のようです。

これは私の想像だが、“右の線路”の複線幅の終点では、畑さこ谷の木馬道で降ろされた木材を積んでいた。
だが、後に架線集材機の導入により木馬運材が中止され、新たな架線集材に適した広い土地に積み込み場を設ける必要から“左の線路”を開設し、その末端に複線桟橋や機関庫を整備したのではないだろうか。

濁河線は、昭和25年の地形図に畑さこ谷までの全線が既に描かれているにも拘わらず、『全国森林鉄道』など複数の資料が、濁河線の開設年を昭和14年から38年という幅を持たせている。
昭和38年にいかなる開設が行われたのか疑問だったのだが、それが“左の線路”だったという可能性がある。



さて、最後はお待ちかね。

上部軌道最大の橋梁遺構であった、濁河川橋梁(仮称)の“架かっていた姿”を、ご覧頂こう。

果たして、どんな姿の橋だったと思いますか?



濁河本谷橋は車道のすぐ横にあり、資料によると長さ89m、高さもかなりある見事な木造方丈橋でしたが、
残念なことに2001(平成13)年の夏頃、自然崩落してしまい私は見ることが出来ませんでした。




『トワイライトゾーンマニュアル13』より転載。

↑これが、平成13(2001)年4月29日に 坊主岩太郎氏 が撮影した、
“濁河本谷橋”の在りし日の姿だ!!


全長89mの木造方丈橋! もし現存していれば、定義の木橋(大倉川橋梁)に匹敵する(高さは劣るが長さは勝る)存在だったろう。

方丈橋という形式も定義と一緒だが、中央の主径間長はより大きく、そのため桁を支える斜材(方丈桁)の存在感が、一層大きなものになっている。

全体の印象としては、とにかくワイルドで大陸風の雰囲気がある。間違いな林鉄界の名橋と呼ばれるべき一本だろう。


…が、この写真が最後の勇姿になってしまった。



『トワイライトゾーンマニュアル13』より転載。

↑こちらは、上の写真の僅か7ヶ月後、
平成13(2001)年11月18日に竹内昭氏が撮影した写真である。

4月の写真に、崩壊の近さを感じさせる要素を特に見えないが、
7ヶ月の間に何があったものか、11月の時点では、現状と同程度まで一気に崩れ落ちてしまっていた。
この写真と現状との違いは、橋下に見える大量の残骸が流失して無くなったくらいに見える。

大きな橋であればこそ、一旦バランスが崩れると、あっという間に自らの重さで崩壊し尽くしてしまう。そんな現実を垣間見た気がする。
私が10年以上前にここを訪れる選択肢は無かったので、後悔こそあまりないが…、 残念だ!
それでも、こうして当時の貴重な写真を見ることが出来た事を喜びたい。偉大なる先人探索者諸兄に感謝。