2017/2/7 7:26 《現在地》
『笹生活史』に書かれていた、11.5kmという、これまで私が把握していたより4kmも多い「小坪井軌道」の全長。
そして、スー氏のブログによってその存在が明かされた、田代川源流の谷底に穿たれた1本の隧道。
この二つの事実を結びつける、未知の軌道4km(以上)が田代川に存在したという可能性。
このことを確かめるべく出発した私は、封鎖された田代林道の奥、源流部の入口ともいうべき銘板なき橋へと辿り着いた。
自転車はここに残し、今から入渓を開始する。
なお、左図に青い破線で示したのは、スー氏のブログに掲載されていた地図を元に描いた、同氏の遡行ルートである。(元来の地形図(地理院地図)には、現在地以奥に水線の表示はない)
隧道が発見された地点までは、谷沿いに7〜800mとみられる。
橋の山頂側袂から、適当な斜面を伝って谷底へ下り立った。
写真は下流方向を見ている。
この先にあるという隧道が軌道のものであるならば、今いるこの場所にも軌道は存在していた可能性は高い。
だが、あくまで可能性が高いだけで、確定するわけではない。全長11.5kmという数字が信じられるとしても、それがひと続きの路線であったとは限らないからだ。
索道などで間接的に結ばれた、或いは全く連絡していない、単に同じ当事者が開設したというだけの、複数路線の合計延長が11.5kmだった可能性がある。
こちらは進行方向である上流側の眺めだ。
谷は深く刻まれており、そして河床の勾配は緩やかだ。
房総の谷らしい風景そのものであり、普通に想像する源流部という言葉のイメージとはだいぶ異なっている。
軌道の存在が既に確認されている小坪井沢とよく似ており、両岸の高さや川幅の規模も同じくらいだろう。
水量は少なく…、というかほとんど干上がって見える。河床の砂利を伏流しているのか、それとも、今年は1月中ほとんど雨が降らなかっただけに、本当に干上がっているかもしれない。
谷屋なら拍子抜けするかもしれないが、オブ屋の私にはもってこいの状況だろう。
新調したばかりの長靴を頼りに遡行を開始して間もなく、谷が狭まっている個所に遭遇した。
増水時に運ばれた大量の倒木や木屑が詰まって、いわゆる“ビーバーダム”を作っている。
こういう光景は小坪井沢でも見たが、両岸を迂回出来ない地形にあっては、面倒な障害物である。
あまり頻繁に現れないことを願うしかない。
ここまで100mほど前進したが、今のところ軌道跡らしいものは見あたらない。
とはいえ、前回までの探索で、私は十分に理解しているつもりだ。
この谷においては、路盤がなくても軌道は立存しうるということを。
目下の私が探しているのは、河床の岩壁に穿たれた“橋脚用の孔”である。
小坪井沢では隧道や僅かなレールの残骸も見つかったが、軌道跡を“線”として追跡し得るほど多く見つかったものは、“孔”をおいて他にない。
この谷も、軌道があったとしたら、きっと同様の残り方をしているだろうと思う。
そして経験的に、“孔”が多く残っている場所の傾向も分かっている。谷が狭く急で河谷の岩盤が多く露出した、平たく言えば険しい場所である。
先ほどの狭窄部はその条件に合っていたが、倒木の堆積が多くて探せなかった。
そして今いる場所は、大量の砂利が滞積しているので、ここも期待は薄い。
7:36 《現在地》
入渓より10分、おおよそ200mほど進んだ地点で、行く手の景色に変化があった。
谷が二手に分かれていた。
右の深く切れ込んだ狭い谷と、左の緩やかな広い谷。
それはまあいい。 問 題 は ――
地形図に描かれた地形と、実際の地形が、一致していない?!
地形図だと、左の広い谷は本流として描かれているが、
右の狭い谷は描かれていないばかりか、その進行方向は、
左の谷の蛇行を突っ切るショートカットのようである。
いや、事実そういう地形であった。
右の谷を覗くと、そこにはやや間隔を空けて前後する2段のナメ滝が、大きな滝壷状のプールを前衛として立ちはだかっているが、一連の狭窄部の奥に目を向けると、100mも離れない距離に広々とした杉林が見えるのだった。
この事実を地形図に描かれた地形と照らし合わせれば、右の谷は左ノ谷の蛇行をショートカットする存在であり、房総にしばしば見られる川廻しのための新河道の如きものであるということが、はっきりと理解されたのである。
地形図は、世界にとってはあまりにも些末なこの事実を、描き出してはいなかった。
なお、スー氏はこの特徴的な二段ナメ滝を“二ツ釜”と命名されているので、私もこれに倣って呼ぶことにする。
左右に分かれた谷は蛇行の先で一つになっている。
右の谷が専ら水を流す本流であるようだが、入口にある深い滝壷に行く手を阻まれ、辿る事が出来ない。
ここは大人しく、左の旧河道と思しき谷へ迂回する事にした。
スー氏の記事によれば、この谷の奥には流れをショートカットする(目指す)隧道1本と、それよも手前にも隧道ではないが似たような切り通しが1カ所あると報告されている。
だが、この“二ツ釜”こと右の谷も、それらと同じく、谷をショートカットために人為的に築かれたものと思われる。自然に起きた地形の変化とは思えない。
軌道の有無に関する発見こそまだないものの、田代川源流には、当初想像していた以上に深く人跡が刻まれているようである…。
ぞ、 ぞくぞくしてきました…。
旧河道を50mほど前進すると、谷は右へカーブを始めるが、ちょうどそこで崖錐的な瓦礫質の斜面が進路を塞いでいた。
斜面の20mほど上方を横断する林道が見えた。
旧河道のカーブは深さ5m以上は埋まっているようだが、そこを乗り越えるとすぐに旧河道の続きの谷が現れた。
右の写真は、カーブを超えた先の旧河道である。
そこには周囲のどこよりも太い立派な杉が林立していた。
植林とみられるが、太さからして、半世紀どころではない昔に植えられたものとみられる。
これは意図的に河道を変更し、旧河道を植林地として使用したのだと考えられる。
翻って、小坪井軌道の敷設は昭和10(1935)年代までの出来事だから、80年ほど昔である。
軌道の敷設と、この地の河道変更や植林は、大体同じ時代の出来事であるような気がする。
左図は、“二ツ釜”周辺の概念図である。
長さ50m近い新河道の開削により生じた、150mほどの旧河道のうち、半分弱が植林地として利用されている。
林道の開削は昭和40年代であるようなので、それに伴う旧河道の埋没がなければ、もう少し植林地は広かったのかも知れない。
しかしそれにしても、これほど大規模な新河道開削を伴う植林が林業として元を取れるものなのかどうか。
現代の基準からしたら無謀と思えるが、人件費が今とは比べものにならないほど安価だった当時ならあり得るのか…。
7:43 《現在地》
8分ほどで“二ツ釜”を迂回し、上流側の新旧河道分岐地点へ辿り着いた。
写真は振り返って分岐地点を撮影している。
また、チェンジ後の写真は、同じ地点から旧河道の植林地を撮影したものだ。
かなり年季の入った太さであることが分かると思う。
先へ進む前に、先ほど滝壷に阻まれて進入出来なかった新河道“二ツ釜”へ、上流側から踏み込んでみることにした。
滝が見たかったわけではなく、更に上流にあるという隧道を軌道跡と疑うのであれば、この新河道だって軌道跡の可能性を疑っても無駄ではないと考えたからだ。
これが、“二ツ釜”の内部だ。
なるほど、上流から見てもはっきりと二つの“釜”、すなわち滝壷が見て取れる。ほとんど水は流れていないが、水量の多いときはなかなかの迫力であろう。
それはそうと、チェンジ後の画像に描いた2本の黄線の間が私の考える新河道なのだが、果たしてこれが本当に人為的なものなのかどうか。
改めて見ると、甚だ自信を失わざるを得ない。
新河道が単純に回廊状であれば、迷わず人工の地形と判断しただろうが、中間にある滝壷とその周囲の谷の広がりは、人工的な地形を土台にした浸食作用の結果とは思えないのである。
では、どういうことなのだ。
自然の作用だけで、このように河道の更新がなされるものだろうか。
それとも、旧河道があると考えたことがそもそも幻想で、川は太古からここだけを通っていたのだろうか。
地形図さえも、それに騙された?
7:44 《現在地》
“孔”が あった!!
上段の滝の落ち口に、探し求めてきた、“孔”が!!
それも、「見えなくもない」というような曖昧なものではなく、明確に人工的な孔が、二つ!
入渓地点からおおよそ250m地点の“二ツ釜”内部で発見された、小坪井軌道の特徴的遺物であった河床岩盤の橋脚孔。
軌道跡であるかを論ずる以前に、この位置に橋脚が存在していたことだけは確からしく、【このような道】が実在していた可能性が一気に高まった。
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結局、上下にある深い滝壷が邪魔をして、私が“二ツ釜”の中心部へ辿り着くことは出来なかった。
そして、そのせいとばかりも言えないが、新河道が人工的に作られたものであるか、天然のものであるかを決することも断念した。
旧河道が鮮明に存在し、新河道が地形図に描かれていないという点では圧倒的に人為説優位であるが、地形の相貌は人工物らしからぬものがあった。
この地では、常識に囚われた判断が誤った答えを導き出すリスクが、他のどの地よりも高い気はするけれど、それでも、“二ツ釜”が人工の河道であると判断するのは無謀な気が…。
ゆえにここでは妥協して、“二ツ釜”内部に“孔”が発見されたので、何らかの通路が、そこを桟橋で通過していた可能性が高い。――と述べるに留めておこう。
それでも、田代川源流部にも“孔”を見つけたという事実は、このうえもなく大きいのである。
“孔”があり、そしてこの先に“隧道”まであるのだとしたら、それはもう…、も う ……
隧道の正体についても、私の望む結末を期待せざるを得ない!!
左図は、明治13(1880)年から同19年にかけて、明治政府が作成した「迅速測図」と呼ばれる地図である。
後の地形図作成では厳密に実施された基準点測量を省き、その名の通り「迅速」に重きを置いて作成された、全国的なものとしては本邦初の地形図(ただし全国分は完成しなかった)であるが、縮尺は2万分の1と、後の地形図が5万分の1で整備されたのと比較して、かなり精密な内容になっている。
そしてこのうち関東地方の分は「歴史的農業環境閲覧システム」にて自由に閲覧が可能である。
左図は、同サイトから転載した田代川源流部一帯の迅速測図だ。(当時の一帯は千葉県望陀(もうだ)郡笹村であった)
空撮に頼るべくもない当時、短い調査期間の中で、これほど詳細に河川の蛇行を描き出したことに驚きを禁じ得ない。現在の2万5千分の1の地形図を越えた緻密さを感じる。
そしてここには“二ツ釜”の部分も描かれており、明らかに新河道を水が流れているように示している。そして旧河道は破線で示されている。
この図からも新河道が人工物か否かは判定できないが、河道の切り替えは明治初期には完了していたことが明らかになった。
またあった! 孔!
しかも、たくさん!!
丸いもの、四角いものと、盛りだくさんだ。
ここまで急に優しくされると、逆に不安になってくる。
普段はなかなか探索の成果に恵まれず、虐げられて疑り深くなっている私としては、そもそも橋脚孔という見立てが本当なのかとか、そんなところまで疑いたい心境になってくるのだ。
それもこれも、未だこの非常識に近い桟橋天国的光景を撮した古写真が一枚も出て来ていないせいである。
しかし、橋脚孔以外の有力な説は、また思い付かないのである。
先ほども記したとおり、河床の様子がこのようにゴロ石まみれになると、軌道跡ないし何らかの通路跡(以下、面倒なので「軌道跡」と表現する)の痕跡を見つける事は不可能になる。
歩きやすいのはこうしたゴロ石の場面だが、遺構発見の期待度が高いのは狭隘な難所であることが多いというジレンマだった。
そして、実際には前者のような場面が多かったことから順調に進行し、“二ツ釜”から250m、入渓地点から数えて500mほど進んだところで、
それは現れた。
7:54 《現在地》
おおっ! 切り通しッ!!
スー氏のブログで確かに見た覚えのある光景だ!
これが現れた後で隧道が現れたのだった。
……や、やっべえ。 すげぇ、ドキドキする。
そしてこの切り通しだが、これについてはスー氏も書かれている通り、人工物とみて間違いはないだろう。
そんな人工的な切り通しが、何の目的でこの場所に存在するのかということを、私は解き明かしに来たつもりだ。
左に大きく写っているのが、切り通しである。
切り通しの底、道であれば路面となる部分は、手前の河床から2〜3m高い。
ただし、切り通しの底には山なりに土砂が堆積しており、本来の高さがよく分からないのも事実である。
それでも、手前の河床より数メートル高いのは間違いないはずだ。
川はこの先で大きく蛇行しており、50mほど先(写真右端辺り)で折り返してから、切り通しの裏側へ回り込んでいる。
そしてこれが反対の上流側から見た切り通しだ。
こちらから見ると切り通しの底と河床の高低差がほとんど無いが、それでも僅かに河道が低く、水があるときはそちらを流れているようだ。
これらの状況から、往時の切り通しの利用状況を想像するのは案外に難しい。
まず、水がどちらを流れていたのかを決定し難い。
心情的には、切り通しには軌道跡であって欲しいから、川の水は入っていて欲しくないが、現状はその答えを教えてくれないのである。
切り通しの内側に例の“孔”でもあれば良かったが、土砂が堆積しているため、低い位置の岩盤を見ることも出来なかった。
切り通しの規模は、長さ10m、幅2.5m、最も深いところで8mくらいの深さがある。
下に堆積している土砂の量がよく分からないが、それ次第では10m以上の深さがあるかも知れない。
スー氏も述べているが、これは隧道でも不思議ではないと思える規模で、隧道跡の可能性も捨てきれない。
いずれにせよ、法面の直線的な切り出しなど、間違いなく人工的な土工跡である。
昭和40年代にようやく開通した林道から5〜60mも低い谷底に、これだけの人工物が眠っていたことには純粋に驚きを感じる。
果たしてこれが軌道跡なのか、川廻しの河道なのか、はたまたそのどちらでもないのか、どちらともなのか。
未だ決定的な証拠は得られていない。
この先に待つという“隧道”が、その答えを教えてくれることを願うばかりだ。
私は切り通しを抜けて、もう間近だと思われる“隧道”へと歩き出した。
右の写真は、振り返って切り通しが見えなくなる直前に撮したものだ
遠くなっても、その存在感たるや侮れないものがあった。
周りの緑も鮮やかだ。
未だに標高は僅か200mに過ぎないが、それを忘れさせるような山襞(やまひだ)の深さがある。そして事実、元清澄山の一帯は、房総半島で最も人煙に遠い国境の山なのである。
この辺りより先の源流の谷は国境尾根に沿っており、尾根から水平距離で200m内外、高低差僅かに50〜100mの位置にある。
こうした数字からは、いつでも尾根(「関東ふれあいの道」という整備された歩道が通っている)へと脱出出来ると思うかも知れないが、それは誤りである。
現実には、これまで通り一切の逸脱を許さない回廊峡谷が続いている。
切り通しを過ぎてからも、依然として“孔”との遭遇は断続的に続いていた。
左の写真の“孔”は、四角形で特別に大きく、長辺が40cmくらいもあった。
使われていたのが1本の木材だったとしたら、もの凄い太材。そうでなくても、それなりに頑丈な橋を支えていたものと考えられる。
隧道を今か今かと待ちながら、右へ左へと小刻みに蛇行する、どこか道路じみて見える谷を遡る。
GPSの画面を注視するのも何度目か。目指す地点は、既に私を示すアイコンと重なっていた。
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