2017/2/7 8:08 《現在地》
果たして、“源流の隧道”は存在した。
スー氏のブログで見た通りの姿だが、実際に目にした感激は褪せたものではなかった。
それに、今日の私は隧道を探しに来たのではなく、素性を調べに来たんだ。目前のご馳走に涎が出る。
位置は、スー氏の記事の通りでおそらく間違いはない。私が入渓した田代林道の橋から約800mの地点だ。
これは、田代林道の起点に近い本日のスタート地点からだと5kmを超える奥地であり、まして林道を用いずに(スー氏のように)田代川の谷を通ったならば、6kmは歩かねば辿り着かないだろう。
こうした数字は、今回の探索の動機でもあった、“未知の軌道4km”に対しては、少しばかり過剰である。
仮に、この隧道が軌道用であったならば、問題がある。それは、実際には6km以上も未知の軌道が存在したか、或いは途中に軌道の分断があったか、そもそも私が従来把握したと考えていた「7.5km前後」という数字の方に誤りがあったのか…。
正直なところ、変数となる仮定や可能性が多すぎて収拾がつかない。
全体像の把握をここで試みようとするのは、いささか思考の無駄といえそうだ。
無駄な思索は諦めて、今回ここへ来た最大の目的である、“源流の隧道”が軌道に関係するものであるか否かを、調べることにしよう。
隧道の第一印象として、まずは軌道用として違和感ないサイズであると感じた。
これまで私が小坪井軌道で目にしてきた3本の隧道のうち、断面の大きさが判明している2本(【小坪井沢奥の隧道】、【片倉ダム直下の隧道】)と比較して、天井の高さも横幅も少し小さいような感覚はあるが、手押し軌道の隧道として不自然な小ささではない。
とはいえ、このようなサイズ感は、房総の河川に頻出する川廻しの水路隧道であるとしても矛盾はないし、スー氏も(前回登場した切り通しと共に)川廻し用であろうと指摘している。
私としては、この隧道が軌道用であってくれれば嬉しいけれども、軌道説を採るうえでの最大の難点は、隧道内を沢の水が普通に流れていることだと思っている。
今日は水量が少なく、隧道を水が流れていることの違和感は少ないが、スー氏の写真を見るとこれよりも遙かに水量が多く、坑口前には小さな滝と滝壷まで出来ていた。しかも上流からもたらされる沢の水の全量が隧道内へ導かれており、完全に新河道として機能していた。
いくら源流部とはいっても雨量豊富な房総半島南部である。豪雨があれば忽ち鉄砲水のような水量になるだろう。そうでなければここまでの行程で私を幾度も邪魔した巨大な流木が堆積した自然堰の説明がつかない。そのような状況で、河道になりそうな位置に隧道を掘って軌道を敷設するなどということが、あるのだろうか。
軌道廃止後に土砂が堆積して河床が上昇し、そのため隧道内を川が流れるようになったのではないかという反論が考えられる。
だが、それにしても隧道の位置はいかにも低く、容易に想定できる水没という事態に対し、無防備過ぎると思える。
端的に言えば、はじめから川廻し用の隧道として作られたと考えたときに、違和感がなさ過ぎるのだ。軌道隧道以上に、水路隧道っぽく見える。
こうした私の考え方は、次の一文が根底にある。
水路隧道 ≠ 軌道隧道 という常識。
……さて皆さん。
この谷の経験則において、真実から最も目を遠ざけさせてしまう“害悪”とは、何であったか?
常識、死すべし!
今日もこの谷の“常識狩り”は絶好調。
坑口前の1mある落差を這い上がり、短くも薄暗い洞内へ踏み込んだ私が瞬時に見つけ出したのは、今まで飽きるほど見てきたものと瓜二つの、“孔”たち だった。
鑿痕も鮮やかな明確な丸孔。これまではずっと、軌道の桟橋を支えるための“橋脚孔”であると考えていたものが、隧道内にも存在していたという事実が示すのは――
一つの隧道を、軌道と水路とが上下に共用していたのではないかという、これまでの私が常識に囚われて説くことが出来なかった異説。
道路のトンネルが、水路トンネルを兼ねる(或いはその逆)のは稀に見る。水道用トンネルを道路として用いるなどだ。だが、その場合も水路には蓋がされていたり、管の中を流れていることが多い。
そして、林鉄と水路を兼ねたトンネルについては、寡聞にして知らなかった。
もっとも、ここに描いた図は、想像を都合良く解釈したものに過ぎない。
向かって左側には橋脚跡らしい孔が点々と続いているが、右側の水が流れている部分にはそれが見あたらない。
水流に浸食されて痕跡を失ったのだと私は考えているが、そうでなければ、隧道内に桟橋状の軌道が敷かれていたとする説は怪しくなる。
なお、洞床にあるこれらの“孔”だが、明らかに丸い形をしている。
もし、枕木を敷いた形跡であるならば、丸ではなく角形に近いものになるはずだ。
隧道の長さは、10m程度である。数秒で通り抜けられてしまう。
これまで小坪井軌道で見た隧道はどれも長かったが、初めて短いものが現れた。(「洞門橋」の所にも隧道があったとしたら、これより更に短かったかも知れない)
壁面は粘土質で、触ればボロボロと砂が落ちる柔らかさだった。しかし大きく崩落した形跡はない。
隧道の出口へ近付くと、なんとこちらにも明瞭な“孔”の痕がいくつも残っていた。しかも今度は片側ではなく、両側に孔の列があった。
これにより私は、隧道内に桟橋状の軌道が敷かれていたとする説をいよいよ確信した。同時に、このような田代川の奥にまで軌道が及んでいたという想像の愉快さに、叫び声を上げていた。
叫びは、狭い谷と隧道の間で思いがけず大きく反響し、怪しげな残響さえ耳に残した。
それから私は気付くのである。
「あ、そういえばここは、登山者の多い“関東ふれあいの道”の近くだったな。」と。
山童でも出たかと思ったハイカーがいたら申し訳ない。出たのはいつものです。
8:12 《現在地》
わずか10mほどの隧道を通り抜けるのに4分もかけて、
妄想とも現実ともつかぬ軌道のラインが目蓋に浮かぶ、上流側坑口へ。
このアングルで見える河床の“孔”はひとつだけだが、洞内の光景と重ね合わせれば、図示したような桟橋を想像するのは容易い。
川の流れを受け入れる、そして軌道も受け入れる。そんな一挙両得だが前例のない二階建てトンネルは、実在したのだろうか。
私は、存在したと思う。
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↑ 360度写真。
さて、少し寄り道をして、上流側から蛇行した旧河道へと進んでみた。
左の画像が旧河道で撮影したもので、チェンジ前は入ってすぐに、チェンジ後は50mほど進んだ蛇行の頂点付近で撮影した。
旧河道の入口には、高さ2m程度の土山が堰のようになっており、水の浸入を防いでいた。これが新河道(隧道)に水を導くため故意に盛られた土なのか、自然の堆積によるものかは不明だ。
旧河道内部は全体的に土が滞積し、水は流れていない。しかし、植林地や炭焼き窯として利用されていた痕跡はみられない。水捌けが悪すぎるためか、植生も意外に乏しい。ただの死河川の風景だった。
旧河道の地形は穏やかで、隧道によって短縮された距離は、おそらく100m程度であった。
隧道を建設した目的として、100m程度の運材距離の短縮だけではいささか弱い気がする。旧河道を“何か”に利用したことが考えられていいが、その“何か”は定かでない。
旧河道の利用法に関する一説
右の写真は、前回紹介した“二ツ釜”下流側の新旧河道合流地点である。
右側に見える新河道が、天然のものなのか、人工的に開削されたものであるかは、未だ解決していない問題だ。
ただし、明治19(1886)年以前に作成された「迅速測図」に既に新河道が見えることから、軌道の敷設よりも遙かに早い時期に、河道の分岐があったことは判明している。
この新河道の成因問題について、前回の公開後、ある読者さまから注目すべき情報が寄せられた。既にレポート中でも一度登場している滝おやじ氏のコメントだ。少し長いが転載する(下線は私が付した)。
千葉県の滝・川廻し地形を調査していたものです。
田代川の「二ツ釜」の観察、興味深く読まして頂きました。かねて、迅速図を見て曲流短絡地形があることは知っていたのですが、地形の確認の必要があり、昔の元気はなく、とても現地に行けないと諦めて歳を過ぎていました。情報をあげて頂いてうれしく思います。
以下に、私見を述べます。
(1) 人工の河川短絡地形であることは、地形の平面配置から確実です。
(2) 短絡河道(シンカワ)が立派な滝地形になっていますが、これも、短絡後の川の侵食作用によるものとして良いです。上総地方の川廻し地形では、河床岩盤が硬くないので、短絡後、侵食されて短絡部の人工滝が後退・拡大している例はよくあり、田代沢のように河床に円磨礫が多量に堆積しているような川なら、洪水時に研磨剤の礫が流れるので、十分掘り込む能力があります。短絡滝が拡大・後退している例:最近有名になった笹川の濃溝滝の滝面など。
(3) 谷全体の河床が異常に平坦なのもこの故で、「出る杭は打つ」+「打たれるとすぐヘタレる」という環境の結果です。
(4) フルカワの地形の様子からは、この川廻しは水田用には思えず、林業用と思われますが、江戸時代に遡る林業用の川廻し地形というのは、まだ確実な事例はないのでなんともいえません。ただ、江戸時代から、江戸を市場とする燃料、木っ端材の生産で、水運を利用した林業が盛んだったので、あり得る話と思います。
(5) 単なる可能性ですが、川廻しは軌道より前の人工物なのですから、残っていた岩盤の穴が大きいという点で、林業用の川堰の跡ということはないでしょうか。フルカワに主堰を立て、余水吐用にシンカワを掘るというのも考えられないことではないと思います。
(6) (後述)
滝おやじ氏の証言より
“林業用の川堰の跡”という説には、思わず膝を叩いた。
迂闊にも、私はその可能性をすっかり亡失していた。
だが、言われてみれば思い当たることがある。
……覚えているだろうか。
本日のスタート地点である田代林道の小坪井橋の上で4年前に得た、“第二の証言者”の発言内容を。
「“鉄砲出し”もやったと言っていた。」
“鉄砲出し”とは、水量の少ない川に堰を設けて一時的に水を溜め、それを解放することで水と一緒に木材を押し流して運ぶ、日本古来の運材方法である。
このような方法は、森林鉄道や林道が山奥にまで建設されて機械運材が行われるようになるまでは、日本各地で行われていた。
房総半島の河川は一般に規模が小さく、常に水量の大きな川は少ないため、鉄砲出しには適した環境だったといえるだろう。
古老は、私の誘導的な質問ではなく、自ら“鉄砲出し”という言葉を口にした。
ゆえに、田代川周辺で鉄砲出しによる伐出が行われていたことは間違いない。
明治期の記憶を古老が語るのは不自然と思うかも知れないが、もともと第二の証言者の内容は故人からの伝聞であり、本人の証言ではない。また、軌道撤去後にも鉄砲出しは行われた可能性がある。
“二ツ釜”は、軌道敷設以前の時代に建設された川堰の跡かもしれないというのが、滝おやじ氏の指摘である。
これは十分に説得力のある説だと思うが、これを認めるとしたら、“二ツ釜”の上流で発見された切り通しであるとか今回の隧道もまた、最初は軌道用に開設されたものではなく、川堰の余水吐き(不意の増水時に堰が壊されないように設けたと思われる)であったという可能性が出てくるのだ。
(6) 上総の河川河床に見られる穴の跡について、普通に言われているのは、柱穴の跡、あるいは林業用の川堰の跡と言われていました。今度発見された軌道跡の穴について、それらの穴との違いを区別する特徴・・・橋や堰は川を横切り、軌道は川沿いという点は明瞭です・・・穴の形状や寸法、配列などの点については如何でしょうか。
滝おやじ氏の証言より
この地方の河川には広く川底の孔が見られるが、従来それらは、橋の柱穴 か 林業用の川堰の跡だとされてきたという。
翻って私がこれまでに軌道跡と考えた方々で見つけてきた孔たちが、どちらに属していたのかについては、個別に検証はしきれない。
しかし、前後の連続性を持って並んでいたものは多く、桟橋に由来するものが多数であったと考えている。
例えば、今回の“源流の隧道”内部の孔などは、明らかに堰ではないと言える配置だろう。
一方で、まさに堰の存在が疑われる場所となった“二ツ釜”の滝口で見た孔(右写真)のように、堰跡の可能性を拭い去れないものも出て来た。
河川隧道 ≠ 軌道隧道の常識が通用しないならば…
川であり軌道でもある隧道の存在を認めても良いならば、机上調査編で考察した、笹川湖底に沈んだ“坪井沢の隧道”の位置についても、再考の余地が大きくなる。
ツボイ沢の隧道は長さ100m程で(もう少し短かったかもしれない)、出口(上流側)に近付くと緩く右にカーブしていた。
ツボイ沢の水は隧道の中を流れていた。隧道内を地下足袋にワラジ履きで右岸の壁に沿って怖々歩いた記憶がある。入口の右側に川床らしきのもがあったが、水流はなかったと記憶している。
トビミケ氏の証言より(抜粋のうえ再録)
トビミケ氏が昭和52(1977)年に登山ルートとして用いたこの隧道については、内部を坪井沢の水が流れていたという証言から、川廻しの隧道であって軌道隧道ではない可能性が大であると判断していた。
同隧道は『房総の山(第2版)』に登山コースとして紹介されており、同書の地図には隧道の記号こそないものの、右図の青線で示した位置に道が描かれていて、説明文にも隧道の存在が出ている。
対して、第三の証言者によって提供された手書きの地図には、緑線のように軌道と隧道が描かれており、この二つの地図は異なる位置に隧道の存在を示唆していた。
従来の私は、あくまで軌道の隧道と川廻しの隧道は別に存在していたと考えていたが、両者を兼ねる隧道の存在を認めるなら、トビミケ氏の歩いた隧道が軌道跡だったという可能性は高まる。
とはいえ最終的な判断は、ダムの撤去でもなければ難しいと思うが…。