2013/3/31 13:00 《現在地》
下船から55分、自転車を漕ぎ出してから35分にて、今回の新島における最大の探索舞台と目された地点「平成新島トンネル」付近へ、私はやって参りました!
もっと遡れば、昨夜自宅を車で出発したのが午後9時頃だったから、それから途中で仮眠したり、船に乗ったりなんだりを全て加えても、自宅から“3分の2”日でここまで来たことになる。
離島だなんだと行っても、いざ行動を起こしてみれば、そんなに遠い場所ではなかったのかも知れない。
だが、それを理解していても実際に行動を起こす人は一握りだからこそ、新島には私が求めるものが有るのだ。
直前に見た“旧旧道”の望遠によって、私のテンション・メーターは底部から一気にレッドゾーンに上昇していた。
そして同じく“レッド”な警告文が道路上で私を諫める。
…安心しろ!
俺はもう、お前(長大トンネル)を通過することになど、興味はない。
旧道か旧旧道を通って、この県道の「起点」へ立ってやるから、覚悟しろ!
(それはそうと、なぜかこの注意書きにはスペインポルトガル語が併記されている。なぜだろう? tu'nel)
意外かもしれないが、これは今日私が新島で初めて目にした青看。
思うに、新島の道路網(特に都道)はシンプルな上、観光客が青看に案内されながら移動するシーンが比較的少ない(運転するのはほとんどが地元ドライバー)ことから、青看(案内標識)の設置は全体的に低調である。(一方、歩行者向けの案内標識は多く設置されている)
しかもこの青看、ただ「あった」と言うだけでなく、私にとっても重大な内容を表している。
ここで右折し「羽伏漁港」へと案内されている道こそ、平成新島トンネル開通以前の旧都道に他ならない。
すなわち、平成新島トンネルが歩行者・自転車通行止めだというのならば、必然的にこの旧道を行かねばならない事になる。
にもかかわらずそれに関する案内が見られないのは、いよいよ本格的に不親切の誹りを免れないと思うが、まるでそのような需要など無いと言わんばかりである。
確かに、地元の人はみな勝手知っているだろうとは思うが…。
13:01 《現在地》
到着、新旧道分岐地点!
今回は、地図以外の事前情報を出来るだけシャットアウトした状態で探索に来ている。
したがって、なぜ人口2000人ばかりの新島に島嶼部最長のトンネルが建設されたのかという疑問の答えを、私はまだ知らない。
少しでも調べていれば、その答えと一緒に、本トンネルが歩行者・自転車通行止めであることも知り得ただろうが、これは今回の島旅に限った事ではなく、私は多くの探索で地図(場合によっては旧地形図を含む)以外の事前情報を得ずに探索する事の方が多い。
最終的に右折する前に、立入可能な限度まで坑口付近を探ってみることにしよう。
そこにミニ公園的に石碑などが整備されている様子から、私の疑問の答えを得られる予感があった。
分岐地点にあるミニ公園(名前があるのかは不明)には、下の写真で紹介する石碑の他に、上に掲載した「コーガ石ガラスのキロポスト(4.8km)」と、右の写真の「斜面番号の地図」が、石のテーブルや椅子などと共に設置されていた。
キロポストは港近くの都道終点で見て以来だが(途中にもあったと思うが見過ごしてきた)、終点のそれは9.5kmだったので、4.8kmポストがあるここは、若郷(起点)〜新島港(終点)間のちょうど中間地点ということになる。
そのうえで右の「斜面番号の地図」を見て頂きたい。
これは本来は、都道を保守する上で注意すべき斜面の案内を目的としたものなのだろうが、一般利用者にとってはキロポスト以上に便利な「現在位置図」として機能している。
これも本土では見たことがない、おそらく大島土木事務所のオリジナルアイテムである。
この地図の中で破線の部分はトンネルを示している。
とても長い破線が「現在地の●印」から北へ伸びて行っているのが分かるだろう。
平成新島トンネルの全長は、2,878mもある。
都道211号線の全長が9,512mだから、約3分の1をただ1本のトンネルが占めていることになる。さらに島の南北の長さである11kmに対しても、その4分の1を占めている。
細長い島の長辺方向に向かって長大トンネルを掘っているのは、地図上でも奇抜に見える。
さらに言えば、このトンネルが新島村役場がある本村(ほんそん)と結びつけている、新島にあるもう一つの集落若郷(わかごう)の人口は400人(平成7年当時)にも満たない。
しかも、若郷地区には集落の他に、風向きや天候次第で稀に定期船が入港するという渡浮根港があるだけだ。
こうして私が坑口前で観察している数分の間でも、行き交った車はおそらく2台だけだった。
…何を言いたいか、もうお分かりだろう。
だが、別に批判したいわけでは全くない。
わが国には「離島振興法」という法律があって、離島暮らしの不便さは国がフォローする事になっているし、寧ろ私は島という経済的にも限られた土地の中に、これだけの立派な土木構造物が存在出来る日本の豊かさや懐の深さを誇りたいと思う。
しかし客観的な事実として、(確認はしていないが)費用便益比は1.0を到底上回らなかっただろう。
とりあえず離島振興法を抜きにしても、何か特別な事情がなければ事業化されないようなトンネル事業だったと思うのだ。
日本中の全長2kmオーバーの長大道路トンネルで、これほど利用者の人口(回数ではない)が少ない道は、多分他に無いのではないか。
それでは、 “特別な事情” を、ご覧いただくことにしよう。
やっぱり、こんな大それたトンネルが出来るなんて、ただ事ではなかったのである。
平成新島トンネル
平成12年7月15日、新島近海地震によって檜山地区は約500mにわたり、大規模な岩盤崩壊が生じ通行できない状態が続きました。
そこで、今後同じような大地震が発生しても、安全かつ確実に本村地区と若郷地区を連絡できるように、この「平成新島トンネル」を建設しました。
トンネル入口に設置された銘板;の文字は新島小学校の児童全員が協力して作成してくれたものです。 (平成14年度当時)
平成16年3月
東京都大島支庁
道路整備事業が、費用便益比という呪縛から解き放たれる“伝家の宝刀”などと言ったら不謹慎だろうが、災害復旧事業がここでも活躍していた。
トンネル坑口付近に設置されている工事銘板にもはっきりと「平成12年 災害第25号」の文字がある。
しかし、新島近海地震というのは有名な地震だったのだろうか。
当時私はまだ秋田に居たせいか、あるいは単にニュースに疎かったのか、恥ずかしながらそのような地震があったことをここで初めて知った。
まだ発生から13年しか経過していないから、記憶が風化してしまうほど昔の災害ではない。
全国の読者諸兄は、この地震を覚えておいでだろうか?
この記事を書くために改めて調べてみたら、wikipediaにさえそのような項目はなく、やはり地震としてはあまり知られていない印象を持った。
だが、確かに地震は起きていた。
総務省消防庁のサイトには、「三宅島近海及び新島・神津島近海を震源とする地震について」という特設ページがある。
これを見ると、平成12年7月1日から翌8月18日までの間に、これらの地域で震度5弱以上を観測した地震が、なんと13回も記録されている。
中でも7月15日(土)10:30に発生した地震はM6.3の規模であり、新島村では震度6弱を記録し、死者(1名)も出ていた。
そしてこの一連の群発地震により、新島村と神津島村で合せて190世帯600人余り(いずれも最大時)が一時的に避難生活を余儀なくされていたのだった。
幾ら離島とは言え、これだけの大地震で全然記憶にないというのは不自然だと思ってさらに調べると、なんとこの群発地震の原因は、当時発生していた三宅島の火山活動だった事が分かった。
三宅島の噴火はさすがの私も覚えているし、8月10日に発生した大噴火をきっかけに、以後三宅島の全島民が平成17年2月まで4年半ものあいだ島外避難を余儀なくされていたのである。
ただ、こんな大きな災害の最中に、隣接する新島や神津島でも犠牲者が出るほどの大地震があったことを、私は知らなかった(あるいは完全に忘れていた)のだ。
新島の大地震を知らなかった私は、当然その災害復旧がどのように行なわれたのかなどを知る由もなかった。
だが、案内板や銘板の内容から判断すると、地震によって都道が崩壊してから、最終的に平成新島トンネルが完成して「本復旧」するまでの期間は3年4ヶ月である。
掘り抜かれたトンネルの長さを考えれば、迅速な対応だったのでは無いだろうか。
しかも、新島は(1000年以上噴火の記録がないとは言え)内部に複雑な地質をもった活火山島である。
にもかかわらずこのトンネルは、新島最大の火山である宮塚山の中央を大深度でぶち抜いているのだ!
とても挑戦的なトンネル計画だったに違いない。
この事の技術的な解決については、建設当事者による素晴らしい記録が閲覧可能なので、興味がある人は読んでみるといいだろう。→ (PDF)
地質ニュース592号 [伊豆新島に単成火山群を貫く島嶼部最長のトンネル出現]
…さて、だいぶ長々と事情説明をしてしまった…。
私が離島で初めて出会ったトンネルが、離島で日本一長いトンネルだったという運命じみた事を除いても、この坑口の姿は私に大きな印象を残した。
はっきり言って、坑門の意匠自体はこれと言って変わったところもなく、とても3km近くもあるようには見えないワケだが、圧巻なのはその周囲の風景だ。
坑門の周りの樹木は椎(シイ)だろうか。
まだ見慣れぬ常緑広葉樹の青々とした森は、南国を思わせる鮮やかさだった。
そしてその樹海の奥には、また別の迫力を持った黒い大岩盤が、白い空を背負って激しくそそり立っている。
穏やかな地形の本村を離れ、敢えてこの岩山の向こうに移り住んだ若郷とは、いかなる別天地なのか。
ますますこの都道のゴールに興味を感じると共に、「平成生まれのトンネルの進路妨害ごときに負けてなるものか!」という、ファイティング・スピリッツが余計に呼び起こされた。
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13:11
旧都道へ進入開始!
2.8kmのトンネルに対する旧都道は、その一部が市販の道路地図からは消えているが、
特に「通行止め」の予告は今のところ見あたらず、またこれも今のところ明示されてはいないが、
歩行者や自転車のための迂回路として機能しているに違いない。
しかし、この旧道の先に待ち受ける“旧旧道”は明らかに廃道っぽいので、今から期待大だ!
…そんなことを考えているうちに、またまたあつぅい〜遠景が見えてきたぞ…。
↓↓↓
中央付近を、もっと望遠で…
↓↓↓
!坑門を発見しました!
あれが一部道路地図から完全に存在を抹消されてしまった、先代「新島トンネル」の南口だ。
しかしこのトンネルは「ウオッちず」に普通に描かれている。
道路地図からも「ウオッちず」からも抹消されているのは、坑門の右側にラインが見える…旧旧道の方である。
ここから見た限りでも旧旧道の路面は緑がちで、かなり荒廃が進んでいそうな印象を受けた。
そして、緑の中には路盤が欠落している箇所が隠れていないとも限らない。
行ってみないと、こればかりは何とも言えない…。
新トンネルを先ほど呑み込んだ宮塚山は、いよいよ羽伏浦の海岸線が恋しくなったか、
巨大な岩の峰を先兵として、旧都道の頭上へと覆い被さり始めた。
対する人類も全く無防備だったわけではなく、まるで砂防ダムのように巨大土留めの擁壁と、
路傍には高い落石防止フェンスという、二重の守りをもっていた。
これはなかなか本格的な防御だが、新島近海地震で発生した土砂崩れは、防ぎきれなかったらしい。
果してその現場はどこだろう? まだ先だろうか。
なんだ、この分岐。
またしても想定外!
旧都道へ入って約600mを進んだ地点だった。
この、地図にない分岐が現れたのは。
今までの道の延長と思われる直進路は、明らかに塞がれているワケだが…
これが……。
これこそが、被災前の旧都道ではないのか!
現在地は上図の通りである。GPSを利用しているので正確なはずだ。
そして、地形図には描かれていない分岐地点が、ここに存在している。
その進行方向(矢印)や等高線の有り様を検討すると、
塞がれている直進路こそが本当の旧都道だと推測された。
地形図に描かれている道は、新島近海地震後に設定された迂回路ではないのか。
興奮にワナワナしながら、迷わず直進する!
するとすぐさま、この高く厳重な有刺鉄線バリケードによって道は塞がれていた。
しかし、特に通行止めであるとは書かれていない。ただ塞がれている。
まるで戦場にでもありそうな有刺鉄線の先にも、カーブした車道が平然と続いていた。
白砂の浜をイメージした観光色満載の歩道が、なんとも場違いだった。
思わず勇んでバリケードまで直行したが、その直前の海側にも小さなロードサイドパークが整備されていた。
しかし、いかにも哀れである。
分岐地点に立ち塞がる“3連矢印板デリニエータ”による封鎖予告と、その奥に見えている厳重なバリケードのあいだのわずかな区間(現道と言えるのか?)にある公園に誰が気付くというのか。半ばオブローダーのための公園にはなっていないか?
この哀れなロードサイドパークにあったのは、二つの巨大な石のモニュメントであった。
一つはこれ。
「羽伏観音」の銘板が埋め込まれた、モヤイ像とも聖母像とも取れる大きな顔面彫刻碑。
献花台があり、傍らには造花が供えられていることから、何らかの慰霊碑と推測された。
しかし、謂われについては残念ながら情報が無くて分からなかった。
そしてもう一つの碑は……
都道開設の碑。
こちらにも献花台やお供え物が有り、どちらの碑も都道建設に関わる慰霊の意図を持っているように思われた。
碑の周囲にだけ白砂を蒔いてあるのは清浄さの象徴で、新島の墓所は大抵このようにされている。
そしてこの碑の裏面には、都道建設に深く関わったと見られる4人の名前と共に、「昭和33年8月26日」の文字が刻まれていた。
これは今から向かおうとしている旧「新島トンネル」の竣工年(平成16年度道路施設現況調査により、「平成元年竣功」であると把握)よりもだいぶ古く、おそらく旧旧道の開通年であろうと推測されたのである。
いま私がいる道が最初に開通したのが、昭和33年なのだと思う。
いよいよ役者は揃った。
後は存分に 「旧都道」 および 「旧旧都道」 を踏破するだけだ!!
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