現在地は、「 東京都 新島村 若郷 」。
この短い地名にも、この地が歩んできた本土とは少しだけ違った“日本史”が、しっかりと刻み込まれているという話をしたい。
少し探索の本編からは脱線するが、お時間を下さいな。
まずは、「新島村」なのに、その前に「○○郡」がないことに気付く。
これは伊豆諸島や小笠原諸島の島々に共通する特徴だが、近世以前より今日まで郡に所属したことがない。
例えば近世には伊豆国や駿河国に所属していたが、その際も「伊豆国新島」などと呼ばれていた。
そして明治11年に全国の郡名を改めた郡区町村編成法が成立した際も、新島を含む一部島嶼地域への適用が見送られたことで、郡名を得る機会を失った。
このような政治的な“仲間はずれ”が公然となされた理由はなんだったのか。
それは、伊豆諸島は人口の多さから考えて一郡にまとめざるを得ないが、それぞれの島が海で隔てられていて交流(交通)もほとんど無いことから、どこに郡役所を置くとしても役場所在地以外の島が不便になりすぎるという判断だったのだ。
当時の郡は、現在の名前だけの郡とは違って、県と町村の間に入る確然たる行政組織であっただけに、こうした配慮がなされたのだった。
しかし、このように郡区町村編成法から除外され、さらにその後釜となる明治21年の市制および町村制からも除外となった伊豆諸島は、同じように除外されていた沖縄などの島嶼地域と共に長らく地方政治上の冷遇を託つ事となった。
これらの島々では近世同様に世襲制の名主が都府県の監督(明治33年には郡制に準じる扱いとして大島島庁が設置され、大正9年に新島はその管轄下となった)を受けつつ村政を受け持ったほか、住民の代表(議員)を選挙し国政に参加させる可能性さえも否定されていた。(同時に地方税制度も施行を見送られたため、近世までの厳しい“年貢”の取り立てからは解放された)
ちなみにこのことと関連して、新島村には大字というものも存在しない(新島村「大字若郷」ではない)。
都市部を中心に従来の大字を廃止して、「○○町」などへと改名するケースはよくあるが、新島村には最初から大字が存在しなかった。
これも大字というものが、市制や町村制を施行した際に従来の村名(いわゆる藩政村)を残すために編み出された制度だったことによる。
本土の人々が明治の初期に政治参画を求めて自由民権運動に奔走したように、全国島嶼の人々は明治以来、大正、昭和初期に至るまで、町村制獲得のための運動を繰り広げたことは、今日あまり知られていない。
明治40年に政府はようやく島嶼地域の名主制度を撤廃して、町村制を施行することにした。
だがこれも自治や国政参画の可能性を低く抑えられた「島嶼町村制」という別枠の町村制であったうえ、伊豆諸島はこの制度からも当初は除外され、大正12年に至ってようやく施行されている有り様だ。
さらに伊豆諸島に(普通)町村制が施行されたのは昭和15年になってのことだった。
若郷には、まだまだ興味深い事実が沢山ある。
さらに紹介を続けさせてくれぃ。今度は視覚にも訴えるから。
でっかい地形図、行きます。 ↓↓↓
これは、新島を描いた最も古い5万分の1地形図である。
町村制という行政の基本の部分では、本土との間に大きな格差を設けられていた島嶼地域であったが、国土防衛上の目的からか、地形図の整備は本土並に行なわれてきた。
だが、あまり数が出回っていない地形図であり、見たことがある人は多くないと思う(見ようと行動を起こす人も)。
さて、私はこの地形図を見ていて、ある興味深い事実に気が付いた。
それは意外にも、道路に関する事ではなかった(道も描かれているが、その位置は予想通りである)。
興味深い事実とは、島には本村と若郷村という二つの「村名」や役場の記号“○”が示されているが、それらの境界線が存在しないということである。
これは、当時の島嶼町村制さえも施行されていない(つまり旧態依然とした藩政時代同様の状態)新島には、地形図に示すべき「村境」など無いという意味だろうかと思った。
だが、昭和27年の地形図にもやはり境界線は描かれていなかった。
前述の通り新島は昭和15年に普通町村制へ移行し、正式に東京府新島本村と同若郷村が誕生しているのであるから、村政の運営上、昭和27年時点で境界未決定とは考えにくい。
…と思う事も、本土の常識に過ぎなかった。
若郷村は昭和29年になって新島本村へ吸収合併されるのだが、それまでも両村間に境界線は存在しなかったのである!
合併に際して両村が東京都に送った「理由書」には、次のような記述がある(傍線部は作者注)。
新島は豊富な漁場に囲まれて発達した島であります。中央平坦地には本村があって人口は3600余、島の北端に若郷村があって人口は600余で、一島に二村があります。新島の西南2マイルの海上に式根島があって人口は約1000人で、本村の行政区に含まれています。
本島は古来一島一村で(中略)、大地震により北村地区が被害を受け、その地区住民が島の北端部に移住して若郷村が開村しました。しかし、両村はその後も緊密な連携を保って発展し、現在にいたっています。
従って人情風俗も同じで漁業権も共通であり、経済・医療・文化などの施設利用も機会均等です。このため両村の境界も区画を確定しておらず、隣保共助し今日にいたっております。
このような状況から、過去においても度々両村合併の話がありましたが、道路事情が思うようにならず、残念ながら実現しませんでした。
今回、町村合併促進法の施行を機会に両村が一体となり、都道の改修を促進し懸案の実現を図って、両村統合することを住民は等しく希望しているところです。(以下略)
合併直前の若郷村は人口600人余りというから、数的には相当な“小村”だ。
そのうえ親村のような本村との境界線が存在せず、おそらくは集落とその耕作地など、住民の生活に必要な部分を何となく村域として、本村との間で暗黙の了解を得ていたに過ぎない。平和!
それでも時に村の面積を求める必要性もあったはずで、どのように算出したかは分からないが、昭和13年(島嶼町村制時代)に東京府総務部地方課が発行した「市町村概観」という資料は、若郷村を「面積僅かに百五町歩の小村」であるとしている。105町歩≒1.04q2=104haである。
約1km四方だから、これは小さい!超ミニ村だ!(現存する日本で最も面積の狭い村は、3.47km2の富山県舟橋村であるという)
そしてそこに人口480人(昭和13年当時)〜600余人(昭和29年当時)であるから、人口密度は結構高い。(600人/km2は千葉県成田市、長崎県佐世保市などと同レベル)
ちょっとした都市国家だが、確かに若郷集落の風景はそういう雰囲気を醸している気がする。(といいつつ最近の人口は減っていて、平成14年のデータで若郷集落の人口は381人(本村2192人、式根島582人))
「新島村史」より転載。
なお、先ほどの合併理由書は、若郷村が本村から分離した経緯を、「大地震」であるとしている。
平成12年(2000年)に本村若郷間の都道を壊滅させた「新島近海地震」は既に紹介した通りだが、若郷村成立のきっかけも大地震であったとは驚きである。
そしてこの大地震とは、元禄16年(1703)に発生した房総沖を震源地とするものであった(新島村史より)。
「北村地区」の位置も不明だが、本村に隣接する北側にあったらしく、その背後にあった銚子山という山が崩れて数軒が埋まり、さらに余震などによる岩石崩壊の危険があったために、住民の一部が島の北部へ移住して若郷村を名乗ったという。
さらに8年が経過した宝永8年(1711)になって、若郷は村として独立したとされる。
独立の経緯ははっきりしないが、集落間の交通不便のためかと思われる。
そして243年間ものあいだ、若郷村は存続した。(ずっと交通不便のまま)
右の写真も若郷集落のものだが、時代はずっと上って昭和11年である。
キャプションにもあるとおり、この年にも新島は大地震に見舞われていて、村史は「新島大地震」と呼んでいる。
この当時の若郷村にはまだコーガ石やコンクリートを用いた住宅が普及していなかったようで、竹(バンブー的な)や木の香りが濃厚である。
率直に言って日本というより、もっと南の国の集落の雰囲気がある。
しかし…
背後に写っている新島山の絶壁の威圧感が現在と変らないので、確かに若郷の風景だと分かる。
“若郷人”は、断崖が好き?!
銚子山の崩壊で北村という故郷を追われた若郷村の祖先は、島の北端部に(おそらく)故郷とそっくりな地形を見つけて安住した。
敢えて本村との距離を離したのは、島の食料や飲用水の限りを知っていたからだろう。
だが、そんな彼らにとって馴染みのある“心の安らぐ”風景は、地震の度に危険になるという難点も継承していたらしい。
こんなことを知ってから、私はさらに若郷が好きになった。
私はこのレポートの中で前に、「若郷には今ほど観光化する前の島の雰囲気が残っている気がする」というようなことを書いたが、それは事実であるようで、こんな不思議なものが村史に掲載されていた(→)。
これは平成の現在における若郷集落の地図であるが、各戸の格子型をした敷地毎に、異なる奇妙な“印”が描かれている。
同じ印は一つとしてなく、全て異なっているようである。
村史曰く…
また家号と同じように家印も生活の中に生きている。本村地区ではほとんど家印は使用されないが、若郷地区では、社寺の行事のときの届物、祝事や不祝儀のときなどの包紙に家印だけ書いて届けてくる家が多い。回覧板の順序の表示なども家印で書かれている。
本村地区にくらべると若郷地区では家印が使われることが多く、その全てを記録に留めておきたいと思う。本村より移住して来た時の地割りが多少の変化はあってもそのまま残っているのも珍しいと思われる。
まるで暗号文書のような集落地図…。
これで回覧板が回ってくると言うのだから、やはり若郷はちょっとした異境であると思われる。
それではそろそろ本編。 若郷観光の続きなり〜!