道路レポート 東京都道211号 若郷新島港線 第10回

公開日 2013.5.22
探索日 2013.3.31

現在地は、「 東京都 新島村 若郷 」。

この短い地名にも、この地が歩んできた本土とは少しだけ違った“日本史”が、しっかりと刻み込まれているという話をしたい。
少し探索の本編からは脱線するが、お時間を下さいな。


まずは、「新島」なのに、その前に「○○」がないことに気付く。
これは伊豆諸島や小笠原諸島の島々に共通する特徴だが、近世以前より今日まで郡に所属したことがない。
例えば近世には伊豆国や駿河国に所属していたが、その際も「伊豆国新島」などと呼ばれていた。
そして明治11年に全国の郡名を改めた郡区町村編成法が成立した際も、新島を含む一部島嶼地域への適用が見送られたことで、郡名を得る機会を失った。

このような政治的な“仲間はずれ”が公然となされた理由はなんだったのか。
それは、伊豆諸島は人口の多さから考えて一郡にまとめざるを得ないが、それぞれの島が海で隔てられていて交流(交通)もほとんど無いことから、どこに郡役所を置くとしても役場所在地以外の島が不便になりすぎるという判断だったのだ。
当時の郡は、現在の名前だけの郡とは違って、県と町村の間に入る確然たる行政組織であっただけに、こうした配慮がなされたのだった。

しかし、このように郡区町村編成法から除外され、さらにその後釜となる明治21年の市制および町村制からも除外となった伊豆諸島は、同じように除外されていた沖縄などの島嶼地域と共に長らく地方政治上の冷遇を託つ事となった。
これらの島々では近世同様に世襲制の名主が都府県の監督(明治33年には郡制に準じる扱いとして大島島庁が設置され、大正9年に新島はその管轄下となった)を受けつつ村政を受け持ったほか、住民の代表(議員)を選挙し国政に参加させる可能性さえも否定されていた。(同時に地方税制度も施行を見送られたため、近世までの厳しい“年貢”の取り立てからは解放された)

ちなみにこのことと関連して、新島村には大字というものも存在しない(新島村「大字若郷」ではない)。
都市部を中心に従来の大字を廃止して、「○○町」などへと改名するケースはよくあるが、新島村には最初から大字が存在しなかった。
これも大字というものが、市制や町村制を施行した際に従来の村名(いわゆる藩政村)を残すために編み出された制度だったことによる。

本土の人々が明治の初期に政治参画を求めて自由民権運動に奔走したように、全国島嶼の人々は明治以来、大正、昭和初期に至るまで、町村制獲得のための運動を繰り広げたことは、今日あまり知られていない。
明治40年に政府はようやく島嶼地域の名主制度を撤廃して、町村制を施行することにした。
だがこれも自治や国政参画の可能性を低く抑えられた「島嶼町村制」という別枠の町村制であったうえ、伊豆諸島はこの制度からも当初は除外され、大正12年に至ってようやく施行されている有り様だ。
さらに伊豆諸島に(普通)町村制が施行されたのは昭和15年になってのことだった。



若郷には、まだまだ興味深い事実が沢山ある。
さらに紹介を続けさせてくれぃ。今度は視覚にも訴えるから。
でっかい地形図、行きます。 ↓↓↓


これは、新島を描いた最も古い5万分の1地形図である。

町村制という行政の基本の部分では、本土との間に大きな格差を設けられていた島嶼地域であったが、国土防衛上の目的からか、地形図の整備は本土並に行なわれてきた。
だが、あまり数が出回っていない地形図であり、見たことがある人は多くないと思う(見ようと行動を起こす人も)。

さて、私はこの地形図を見ていて、ある興味深い事実に気が付いた。
それは意外にも、道路に関する事ではなかった(道も描かれているが、その位置は予想通りである)。

興味深い事実とは、島には本村と若郷村という二つの「村名」や役場の記号“○”が示されているが、それらの境界線が存在しないということである。

これは、当時の島嶼町村制さえも施行されていない(つまり旧態依然とした藩政時代同様の状態)新島には、地形図に示すべき「村境」など無いという意味だろうかと思った。
だが、昭和27年の地形図にもやはり境界線は描かれていなかった。
前述の通り新島は昭和15年に普通町村制へ移行し、正式に東京府新島本村と同若郷村が誕生しているのであるから、村政の運営上、昭和27年時点で境界未決定とは考えにくい。

…と思う事も、本土の常識に過ぎなかった。
若郷村は昭和29年になって新島本村へ吸収合併されるのだが、それまでも両村間に境界線は存在しなかったのである!
合併に際して両村が東京都に送った「理由書」には、次のような記述がある(傍線部は作者注)。

 新島は豊富な漁場に囲まれて発達した島であります。中央平坦地には本村があって人口は3600余、島の北端に若郷村があって人口は600余で、一島に二村があります。新島の西南2マイルの海上に式根島があって人口は約1000人で、本村の行政区に含まれています。
 本島は古来一島一村で(中略)、大地震により北村地区が被害を受け、その地区住民が島の北端部に移住して若郷村が開村しました。しかし、両村はその後も緊密な連携を保って発展し、現在にいたっています。
 従って人情風俗も同じで漁業権も共通であり、経済・医療・文化などの施設利用も機会均等です。このため両村の境界も区画を確定しておらず、隣保共助し今日にいたっております。
 このような状況から、過去においても度々両村合併の話がありましたが、道路事情が思うようにならず、残念ながら実現しませんでした。
 今回、町村合併促進法の施行を機会に両村が一体となり、都道の改修を促進し懸案の実現を図って、両村統合することを住民は等しく希望しているところです。(以下略)


合併直前の若郷村は人口600人余りというから、数的には相当な“小村”だ。
そのうえ親村のような本村との境界線が存在せず、おそらくは集落とその耕作地など、住民の生活に必要な部分を何となく村域として、本村との間で暗黙の了解を得ていたに過ぎない。平和!

それでも時に村の面積を求める必要性もあったはずで、どのように算出したかは分からないが、昭和13年(島嶼町村制時代)に東京府総務部地方課が発行した「市町村概観」という資料は、若郷村を「面積僅かに百五町歩の小村」であるとしている。105町歩≒1.04q2=104haである。
約1km四方だから、これは小さい!超ミニ村だ!(現存する日本で最も面積の狭い村は、3.47km2の富山県舟橋村であるという)

そしてそこに人口480人(昭和13年当時)〜600余人(昭和29年当時)であるから、人口密度は結構高い。(600人/km2は千葉県成田市、長崎県佐世保市などと同レベル)
ちょっとした都市国家だが、確かに若郷集落の風景はそういう雰囲気を醸している気がする。(といいつつ最近の人口は減っていて、平成14年のデータで若郷集落の人口は381人(本村2192人、式根島582人))



「新島村史」より転載。

なお、先ほどの合併理由書は、若郷村が本村から分離した経緯を、「大地震」であるとしている。

平成12年(2000年)に本村若郷間の都道を壊滅させた「新島近海地震」は既に紹介した通りだが、若郷村成立のきっかけも大地震であったとは驚きである。

そしてこの大地震とは、元禄16年(1703)に発生した房総沖を震源地とするものであった(新島村史より)。
「北村地区」の位置も不明だが、本村に隣接する北側にあったらしく、その背後にあった銚子山という山が崩れて数軒が埋まり、さらに余震などによる岩石崩壊の危険があったために、住民の一部が島の北部へ移住して若郷村を名乗ったという。
さらに8年が経過した宝永8年(1711)になって、若郷は村として独立したとされる。
独立の経緯ははっきりしないが、集落間の交通不便のためかと思われる。
そして243年間ものあいだ、若郷村は存続した。(ずっと交通不便のまま)

右の写真も若郷集落のものだが、時代はずっと上って昭和11年である。
キャプションにもあるとおり、この年にも新島は大地震に見舞われていて、村史は「新島大地震」と呼んでいる。

この当時の若郷村にはまだコーガ石やコンクリートを用いた住宅が普及していなかったようで、竹(バンブー的な)や木の香りが濃厚である。
率直に言って日本というより、もっと南の国の集落の雰囲気がある。
しかし…

背後に写っている新島山の絶壁の威圧感が現在と変らないので、確かに若郷の風景だと分かる。


“若郷人”は、断崖が好き?!

銚子山の崩壊で北村という故郷を追われた若郷村の祖先は、島の北端部に(おそらく)故郷とそっくりな地形を見つけて安住した。
敢えて本村との距離を離したのは、島の食料や飲用水の限りを知っていたからだろう。
だが、そんな彼らにとって馴染みのある“心の安らぐ”風景は、地震の度に危険になるという難点も継承していたらしい。

こんなことを知ってから、私はさらに若郷が好きになった。




私はこのレポートの中で前に、「若郷には今ほど観光化する前の島の雰囲気が残っている気がする」というようなことを書いたが、それは事実であるようで、こんな不思議なものが村史に掲載されていた(→)。

これは平成の現在における若郷集落の地図であるが、各戸の格子型をした敷地毎に、異なる奇妙な“印”が描かれている。
同じ印は一つとしてなく、全て異なっているようである。

村史曰く…

 また家号と同じように家印も生活の中に生きている。本村地区ではほとんど家印は使用されないが、若郷地区では、社寺の行事のときの届物、祝事や不祝儀のときなどの包紙に家印だけ書いて届けてくる家が多い。回覧板の順序の表示なども家印で書かれている。
 本村地区にくらべると若郷地区では家印が使われることが多く、その全てを記録に留めておきたいと思う。本村より移住して来た時の地割りが多少の変化はあってもそのまま残っているのも珍しいと思われる。

まるで暗号文書のような集落地図…。
これで回覧板が回ってくると言うのだから、やはり若郷はちょっとした異境であると思われる。



それではそろそろ本編。 若郷観光の続きなり〜!



若郷集落 と 渡浮根港(若郷漁港)


2013/3/31 15:47 《現在地》

都道の起点である名も無き十字路からレポートを再開しよう。
時間的に見て、すぐに引き返して“廃道”へ戻らないと明るいうちに探索を終えられないかも知れないという危機感を持ってはいたが、新島の中でもここはそう簡単に来られる場所ではない。
もう少しだけ景色を見て回りたいと思った。

十字路で都道は終点(というか起点)だが、一回り細くなった道がまだ続いている。
その右側には、一目で学校なんだと分かる白い大きな建物が松樹に囲まれているが、まだ明るいのに子供達の気配のまるで感じられないのが少し不自然だった。
そしてそんな静寂に包まれた細道の本当の終点には、石の島に相応しく、これまた白い石の鳥居が鎮座している。
全国どこでも宿場町と呼ばれるような古い町並みが残っている所では、メインストリートの終わりにまるで“重石”のように神社が置かれている事をよく見る。
全てが門前町ではないだろうにそうなのは、これが日本人に息づいた街づくりの美的センスなのだろうかと思ったりするが、それは伊豆の島でも変らぬらしい。
なんか愛着が湧いた。



若郷小は、ガチ!!

小学校が小さいわけではない。ちゃんと3階建てだし、多分あなたの最寄りにあるそれと同じくらいのサイズだ。

それにしても、なんつう恐ろしい場所に小学校を建ててやがる!
島の大自然に子供達を率先して触れさせようとする、大人達の愛あるスパルタには不敵な笑みが漏れたが、これは近年にどうこうした位置ではなくて、大正3年の地形図でも同じ場所に描かれており、開校は明治13年であるという(当初は集落内のお寺を仮校舎としたが数年後に現在地に正式な校舎を設けた)。

(地震があると背後の斜面が崩れてきて危ないが、海に近いと津波が怖いし、狭い集落内はどこでもリスクは大差ない感じ?)

だがその一方で、かつて田舎の子供達がよく苦しめられた長く危険な通学路という問題が存在しないのは、若郷の美点といえ… た。



立地がえらくスパルタンな若郷小学校だが、子供達の姿が見あたらないのも道理で、平成19年に閉校していたのである。
今、若郷の子供達はスクールバスに乗って毎日長いトンネルを潜って、本村にある新島小学校に通っている。
(彼らはバスを使うか、親御さんに車で出迎えられない限り、登校も帰宅も出来ない交通事情である)

127年の歴史の重みをイメージさせる「若郷小学校跡」の碑が校門前に立ちはだかり、背後の薄く緑がかったグラウンドでは、かつての若郷男児女児たちがゲィトボゥルに興じていた。
実は若郷集落内で初めて人の姿を見た。そのくらい午後4時前の集落は静かで、碑に刻まれた一字一句が私を自分でも驚くくらい厳かな気持ちにさせた。

若郷小学校 校歌
     藤本吟月 作詞

新島山に出ずる日の 光を浴びてわが郷は
自然の恵み海の幸 此所に集える同胞よ
学びの庭に花と咲き 如何なる実をば結ぶべき

智徳を磨き身を鍛え 大和桜の香ばしく
誉れ残さん後の世に いざ立て奮え吾友よ
いざ立て奮え諸共に いざ立て奮え吾友よ

この校歌の文句を見て思ったのは、集落の背後にある標高234mの岩山を最初に「新島山」と名付けたのは、きっと若郷の人々だろうという想像。
この山の名前は地形図に描かれていないのだが、新島(にいじま)の最高峰でも中央峰でもない山が、村史などでは新島(にいしま)山と呼ばれていることに不思議を感じていた。
だが、若郷集落に朝を灯す山の名は、校歌の通り「新島山」こそが最も相応しい。これが「若郷山」ではシマらないのだ。

なお、若郷中学校もかつてここに併設されていたが、都道の完成を待って昭和37年に、本村地区の新島中学校へと統合廃止されている。
つまり、中学生はこれまで紹介した「旧都道」や、これから紹介する「旧旧都道」を毎日通学していたのである。



新島の道の真の終点(北端)に立地する宮造神社。
境内は平らで広く、人気こそないものの、綺麗に掃き清められた一面の白砂が、ここに宿る信仰の篤さを思わせた。
周囲には本土で見られるようなスギの大樹は少なく、代りに見慣れぬ照葉樹の如何にも古そうなのがこんもりとしている。
だが、どうやっても新島山の絶壁を視界から隠す事は出来ず、寧ろそれが御神体であるかのような迫力で見下ろされていた。

ここに至って、私は心置きなく折り返した。




戻って来たわけだが、何度見てもカッコイイと思わないか? この眺め。 この起点。

まだまだ語り足りない。幾らでも言葉が溢れてくる気がする。でも一つ二つだけ。
まずは、集落内の都道の“エセ2車線ぶり”が好き。手前の1車線の道と幅がほとんど変らないのに2車線。
もちろん歩道なんてものも無い。交通量が少ない上に、大型車が滅多に入り込まないから、これでも多分困らない。

そして何と言っても「山」だね、ヤマ。
左の新島山と正面の宮塚山が、まるで龍虎相対するようにそそり立っている。
そしてその他に視界を遮る山は一つもない。絶海の孤島だから。
前も書いたけど、本村へ出るにはこれらの山の隙間を縫って、回り込んで行かないとならない。
いや…、今はトンネルであの山のへそをぶち抜いているけど、本来は回り込みが王道。そんな地形がタマラナイ。
しかも、小学生も中学生も全員あの山を通学路にしているというのも、あっつい。

あついYO〜もう一度いくYO!



帰りは、海側にもう1本都道と平行して走っている路地を使って若郷トンネルへ向かった。

こちらは裏通り扱いで、一層車通りも人影も少ない(マジで通りを歩いている人がいない)が、郵便局(旧跡ではなく現役の)や役場支所は寧ろこっち沿いにある。

私はといえば、再び廃道探索へ赴く準備として、集落を離れる前にドリンクを1本補給したかったのだが…




コンビニエンススト ー」は、残念ながらクローズ済み…。

きっと島で唯一のコンビニだっただけに、クローズが大変惜しまれるが、これで若郷には食料品を扱う店が皆無になってしまった?! 見逃したか?
いずれ、「スト ー」と一文字足りなかったのが良くなかったのか、「マエアサ」というお洒落なチェーン名を全島さらには本土へ拡張する夢を果たせずに、今は眠りに就いている。
願わくは再び息を吹き返し、隣の郵便局を呑み込む勢いで頑張っていただきたいものだ。名物はクサヤおにぎりで。




廃道に始まり、コンビニで終った若郷集落とのサヨナラの時が来た。
全長400m強で洞内オール7%上り坂という、少しキツい若郷トンネルをくぐり抜ければ、
旧道の「木戸の坂」をショートカットし、その先の台地に戻る。

このトンネルの銘板の文字は、平成15年に若郷小学校の児童が製作したらしいが、
いみじくも若郷に小学校があった過去の記念物となってしまった。



16:00 《現在地》

ちょうど30分ぶりで若郷漁港との都道分岐地点に戻ってきた。
ここで私は地図と、時計を、交互ににらめっこ。

…どっちへ行くか、悩んだ。

最終的な目的地は、デカリュックも置き去りになっている(←お前を忘れたわけではないぞ…笑)吹上げ坂だが、せっかくここまで来たんだから、色々な風景を見ておきたいし、何よりこの分岐から若郷漁港までの道路も都道211号に認定されている。その支線として。

その全長は約500,つまり往復1km。
あっという間だと思うかも知れないが、しかし……。




あーわわわ…!

やっぱりこうなった…。

せっかく上り直した海と台地の比高を、あっという間の再放出!
再び海抜0メートル付近へと、都道支線は全台大解放の展開となっていた。

行きはよいよい帰りはコワイとは、まさにこのこと。
ちなみに「こわい」は秋田弁で「疲れる」ことだ。

敢えて集落内ではなく、少し離れた所にある若郷漁港だが、こちらは後背地と呼べる地形がほとんど無く、急坂即海という展開。
集落が面している前浜は円弧砂丘海岸で、少しでも波が荒れると舟を寄せる事が難しく、当然水深が無いから大きな船も接岸できない。
そんなわけで、崖に囲まれて水深が深いこの場所に港を設置したのだろう。




やはり人影がほとんど見あたらない若郷漁港(渡浮根港)。
鈍色の空と海の境界線がいかにも寒々としていて、少し怖かった。

しかし思いのほかに港湾施設は豪壮であり、前浜の方にまで長々と伸びた防波堤は、
新島第2の定期船港としての重責を十分に感じさせる、自慢の施設であった。

もっとも、あくまで役割は副に徹しているので、前に見た羽伏港と同様、
船会社の事務所や乗船券売り場、待合施設等は一切見あたらない。
本村と若郷の間のある種の交通不便を考えると、幾ら無料バスが走っているとは言え、
出来るだけ若郷には上陸したくないと思う旅行者もいるかもしれない。



海上見晴るかす“片富士”の如し島影は、今朝の船旅ですれ違った利島だ。
ここからの直線距離は約10kmと、潮目が良ければ泳げそうだと思う人もいるかもしれない。
私なんかは、この距離でも完全に“絶海”だがね。

利島は新島よりも遙かに小さいが、最高峰の高さは、70mばかりあちらが高い(507m)。
それに面白いことに、どちらの島も最高峰の名前は「宮塚山」である。どんな由来があるのだろう。



振り返れば、“こちら”の宮塚山が見下ろしていた。

強風のため木々が育てぬこの場所の眺めは、火山灰層の縞模様とあわせて、
いかにも不毛の火山島といった雰囲気だった。う〜ん、殺伐としてる。

で、潮風に追い立てられるように私は坂を駆け上った。
疲労はしても回復出来るが、探索中のタイムアウトは取り返すのが大変だから、頑張る。


16:10 《現在地》

正味10分間の寄り道で、島の都道完全走破への希望を繋いだ。

本日3度目となるデルタ交差点を、今度は迷うことなく本村方面へ右折。

ここから新旧道分岐地点までは、他車とのすれ違いに最も気を遣う場面だった。
というのも、自転車で本村方向へ向かって走る私を見て、島人の親切心から「自転車では行けないよ」と声をかけてくれる人が出る可能性がある。
島の人との触れあいのチャンスではあるが、今は先を急ぎたい。

なんか、日暮れだけでなく、空模様まで怪しいではないか。
天気予報では、雨はないはずだったが……、廃道で夕立が来たりしたら最悪だ。
明るいうちに、雨の来ぬうちに、残る廃道をクリアしてしまいたい。




16:13 《現在地》

再び声をかけられることはなく、首尾よく新旧道分岐地点に到着した。

すると、45分前にはいた「高校野球おじさん」も軽トラごと姿を消しており、再びの旧道へ挑む私を見届ける者などいない事になった。
望むところではある。

ところでこの分岐地点には、往路で存在には気付きながら、おじさんの目が気になったこととどうせ戻ってくるのだからと、完全にスルーしていた一基の石碑があったのだ。
これを改めて確認してみると……。




「われらこの道を 徒歩通学す」

!!! 
これはまたまたしても、道路関係の碑!

しかもまた、「再び来りて峻険に挑む」並にカッコイイ名文句じゃないか! 
オイオイ! 新島はモヤイ像の彫刻師だけでなく、詩人の島でもあるというのか?!

当然のように「本文」も、島の道路や交通に関する第一級の証言であった。
これまた少し長いが、ハリキッテ全文を転載する。

 新しい知識を得たい、学びたいという青年達の連帯した一途な情熱が、昭和24年(1949)5月に定時制の大島高等学校新島分校を本村に開校した。
 昭和46年(1971)に全日制の新島高校として開校され、24年間続いた定時制は幕を閉じたが、その頃は若郷、本村間の道路も未整備で、若郷からの通学生は8キロの山道を徒歩通学したのだった。
 一日の労働を終えてから8キロの山道、七曲りの急峻な坂道を登り下りして学校に急ぎ、4時間の授業を終えてから再び仲間達と闇の獣道を若郷の我が家に帰ったのだ。
 羽伏浦の漁火を眺めながら青春の心を癒しのんびり歩く日は少なかった。ある時はたたきつける雨の中を、そして気温の高い既設には水をかぶったような汗を流し、風邪気味や体調の悪い時は歯を喰いしばって仲間達に遅れまいと吹き上げの坂道をかけ登ったのだった。
 当時の定時制高校生の汗がしみついた坂道、高校で学ぶ機会を与えてくれたこの道に感謝したい。

新島村




……泣いた。

格好いいぞ、新島人。

俺なんて、探索で往復16km歩いたらもう寝る。
彼らは、日中働いて、8km歩いて、4時間学んで、8km歩いて、寝た。

碑の内容は補足不要なほどまとまっているが、ちょうど今回紹介した若郷の小学生と中学生の話の続きで、では高校にまで進学した人はどうしたのかというテーマである。
昭和24年に定時制高校(分校)が本村に開校し、島で学ぶことは可能になったが、それから昭和36年に都道が開通するまでの徒歩通学の苦難について述べている。

つまり、これから向かう旧旧都道よりも古い旧旧旧道の時代の話であり、「七曲り」があったことが述べられている。
羽伏港から仰瞰した山肌に刻まれていた電光型の古道跡(→)がそれであろう(未探索だが、次回訪島時探索予定)。



それにしても本当に、新島の都道は“道路関係石碑”の宝庫である。

既に発見したものだけでも右図の通り、発見した順に@〜Eまで6基を数える。

石碑番号石碑の内容 【紹介回へのリンク】
@「平成新島トンネル」の説明碑 第2回
A都道開設の碑 第2回
B「再び来りて峻険に挑む」の碑 第7回
C「久田巻広場と貫通石」の説明碑 第7回
D「若郷トンネル」の説明碑 第9回
E「われらこの道を徒歩通学す」の碑 第10回(今回)

新島村の名で建立された沢山の石碑からは、同村の陸路に対する“情熱”を感じとった!
本土とくらべれば遙かに小さな島のことであり、陸路より海路に依存して暮しているイメージを持ちがちだが、実際に島の人々が日々通うのは陸路である。
どちらかだけでは生きてはいけない。
実際に島を自転車で走ってみて、二つの集落を行き来する定期船などは存在しない事を目の当たりにして、その事が実感された。

島旅は船旅だけにあらず、地に足を付けた己の旅でもあったわけで、ますます来た甲斐があったというものだ!





「 ワ〜プ! 」
(↑沖田艦長風に)






16:43 《現在地》

…とか言いつつ、ちゃっかり時間は普通に経過しておりますが、明るいうちに戻って来れました。
レポート的には4回分、1時間半ぶりとなる吹上げ坂の廃道エリアへ。
しかも今日一で難しいだろう旧旧都道の入口へと、やって参りました!

ここを左折すれば、何が待っているのか。

全ては次回より明らかになりますが、過去回のこのへんの眺めから想像するも良いでしょう…。




左折すると……



道は“”へ消え。



次回、
クライマックス!