東京都道211号 若郷新島港線 第5回

公開日 2013.4.20
探索日 2013.3.31

激坂に喘ぐ! “仮設都道”の300メートル


2013/3/31 14:08〜14:24 《現在地》

ここでまたしても、自転車のために痛い足止めを食らう。

長時間袋詰めにされて、揺らされて、島に上陸してからの“彼”は少々虫の居所が良くないのかも知れない。
主である私の整備不良だと言われればそれまでだが、羽伏港に来たところで突然リアの変速機が効かなくなった。

驚いて点検すると、ディレイラーを操作するためのワイヤーが断線し、全くテンションがかからなくなっていた。
バリケードを突破する際に草むらの中を強引に引きずったりしたので、その時にワイヤーにダメージを与えてしまったのだろう。

とりあえず予備のワイヤーに交換しようと思ったものの、滅多に旅先でこんな作業をしないことから、必須の「ドライバー」を持ってきていないことに気付く。

軽く絶望&自分をひっぱたきたくなったが、仕方がないので千切れたワイヤーを目一杯に引っ張り、さらにワイヤーを取り囲むカバーをペンチで加工するなどして、なんとか固定部に取り付けた。
微妙な調整が出来ないので、使えない“段”がいくつも出来てしまったが、とりあえず問題無く走行できるようにはなった。

しかし、これからはリアディレイラーの操作を必要最低限に抑え、出来るだけその部分への負担を少なくしないと、また外れかねない。
アップダウンが激しい島で一番“軽い段”が使えないとか、結構な難題を突きつけられたが、自走不能にならなかっただけでもラッキーだったと考えるしかない。(この無人の波止場で自転車を弄っている最中は、大の大人が泣きたくなるほどの孤立感と焦燥感を体験した。)

約15分間をトラブルに費やしたが、なんとか探索を再開…。




14:33 《現在地》

強引な上り坂が目を引く“仮設都道”、その分岐地点間近までやって来た。

背景は、ほとんど垂直の壁となって立ちはだかる宮塚山の断崖。
その直下の樹海には、旧都道の廃洞門(吹上げ洞門)が侘びしく横たわっている。
そしてその下の草原を斜めに横切る白いガードレールの列が、これから挑む“仮設都道”だ。

この位置からはスロープの全貌が手に取るように見渡せたが、動く人影はなかった。




“ほっ”とした!!

仮設路の入り口に設置されているバリケードの規制内容は、「車輌進入禁止」であった。
つまり、歩行者はこの規制の対象外である! (この際、自転車も歩行者と見なして下さいね?)
そして確かにバリケードの左側には、歩行者が通れるだけのスペースが確保されていた。

前回、通りがかりにこのバリケードを目にして「びびった」のが杞憂と分かりほっとしたが、どうせならば、「歩行者はこちらから若郷方面へ行けます」という案内を平成新島トンネル周辺に掲示する(島外者に対する)優しさがあっても良さそうなものである。

一般的には、「バリケード=無条件で立入禁止」だと考える人も多いので、新島は島内の集落間も車無しでは自由に行き来が出来ない、そんな不便な場所だと思われているかも知れないぞ。 (余計なお世話?)



さあて、これを登るぞ!!

この坂の頂点には、今回の新島探索の最大の目的地とも言える「新島トンネル」が待ち構えている。
既に開口している事は確かめられているので、後はたどり着き、貫通するだけだ!
今日一番、漕ぎ足に力を込めた。

このアスファルトの坂道(なぜかこの仮設都道だけは、大部分がアスファルト舗装だった)は、地図上での距離が約300mあり、その間の高低差が約50mである。
ここから単純に計算すると、平均勾配は約17という数字が出てくる。

山岳道路であってもそうそうお目にかからない、まして都道としては空前といって差し支えのない急坂である。
17%が事実であれば、これは「道路構造令」の規格にも準拠していないことになるが、仮設路だから「アリ」なんだろう。
路面凍結でもしたら、マジで“ボブスレー化”しそうだが。




入り口だけはギリギリ2車線の幅があったが、内部は待避所1箇所を除いて1車線である。

「仮設だから」というひと言でなんでも片付けてしまえるが、ここは不思議な感じのする道だった。
例えばこの写真でもよく分かるが、道の左右で路肩の施工方法がまるで違う。
左はちゃんと白線や流水溝のある正規の路肩だが、右側は舗装が途切れたところが直に路端になっていて、路肩が存在しない。
また、ガードレールの風合いも左は潮風に灼けた感じだが、右は妙に新しく見える(これは海に対する向きが原因か)。

ただ激坂だと言うだけでなく、仮設路は作りからしてどこか「普通じゃない」と分かる道だった。



ここから見上げる宮塚山の威容は、
島の絶対的な支配者が誰なのかを一時も忘れさせまいと君臨する、傲慢な暴君のようだ。

濃い緑の樹海を従え、悠久の時を安定に過して来たようにも錯覚するが、写真の右下隅に見えているのが「吹上げ洞門」。
つまり、この岩場のどこかが平成12年の大崩壊現場であり、旧都道を一撃に葬った元凶に他ならないのである。



…寂しいところだなぁ…。

海から吹上げてくる風が、横っ面をなで上げる。

急坂の中間部分に設けられた待避所部分も、既にこの広さを維持する必要が無くなって久しいので、舗装の切れ目に雑草が蔓延っていた。

気弱な旅行者ならば、この状態で「歩行者OK」だと言われても不安を感じるに違いないが、逆にこの程度で不安がっているようでは、絶対に「若郷」へは行けない。




300m以上もほとんど緩むことなく続く、15%を超える超急勾配。

しかも、“軽自動車王国”である新島だからではないだろうが、道幅も自動車1台分ぴったりだ。
この状況では自転車を押して進んだ方が体力の消耗を防げたろうし、早かったとも思うが、私は(35才にもなって)意地を張って乗ったまま登ろうとしたため、余計に苦しんだ。

だって! 後半になると坂のゴールにトンネルが見えるんだもの!!
目前に大好物のニンジンをぶらさげられて走るお馬さんのように、トンネルは私をおびき寄せた。

そんなこんなで、登り始めてから約7分が経過した頃…。




14:40 《現在地》

新島トンネル到着!

そしてまた、驚かされる。

歩行者や自転車が通れない平成新島トンネル、宮塚山の威容、廃道の四重閉鎖、真新しい廃洞門、仮設都道の異様な急坂。
一連のシーンでは、もうこれだけ驚かされているが、またまた奇妙なものが現れた。

なんなんだ、この変な形の坑門は。

てっぺんの尖った形もおかしいが、そのせいで道幅が思っていたよりも全然狭くなっている。
このトンネルは仮設道ではなく、本来の旧都道に属するものであるはずだが、よもや仮設道と同じ1車線のトンネルだとは予想外だった。扁額もないし…。



そしてこの坑口も、高圧的な有刺鉄線のフェンスに囲まれていた。
立入禁止などの表示は無く、扉の部分が幅1m程度開いていたので、自転車と一緒にトンネルへ進むことは可能だが…

…いよいよ普段の「廃道探索」と大差ない光景に見えるのは、私だけだろうか?

「平成新島トンネル」に対する歩行者・自転車用の迂回路という利用方法が、公式に認められたものだとは思えなくなってきた。
そもそも、私が勝手に、「迂回する手段は当然あるよね」と思い込んでいただけで、実はそんなもの初めから存在しなかったのではないかという気がしてきた。

だが、もし歩行者や自転車の迂回を禁止しているならば、このゲートを閉ざせば済むわけで、そうなっていないことにも意味があると私は考える。
そしてその真意はさておき、この高さの有刺鉄線フェンスが閉っていたら、トンネルへは進入不可能だったと思われるのであり…

ゲート開放に救われた。




もし、ここでトンネルに入る事が出来なければ…
この旧旧道を進むことを強制される所だったのだ。


とりあえず旧旧道は後回しにしよう。
これはとてもじゃないが、自転車を持って行ける感じではない…。
自転車による都道の走破の目処が付いてから、徒歩でじっくり取り組む事にする。
(ちょっと残り時間が心配になってきたが、今日が無理なら明日の朝一番で来ても良かろう)



これより人生初となる、離島のトンネル体験である。
人生初の離島トンネルが「旧トンネル」だというのが良いよね(笑)。

トンネル抜ければ、もう羽伏浦は見られなくなるはずなので、ひとまずの見納めをする。
ちなみにこの右側の落石防止柵が建っている草むらは、旧都道の廃道敷きだ。
ススキの茂っている部分を20mほど進むと、前回辿りついたバリケードの反対側になる。





「新島トンネル」の異様な姿…


14:41 いざ、新島トンネルの探索を開始。

そこでひと言。

「これって、廃隧道じゃないんだよね?」

風は抜けてきているので、閉塞していないことは間違いないと思うが、
坑口から出口の明かりは見えず、その代りに道のしるべとなるべき照明も点灯していない。
仮設都道を辿ってくる限り、ここまで一度も「立入禁止」を侵していないので、
廃道でも廃隧道でもないと思うが、この闇の濃さは廃隧道のそれと全く変わらない…。




と、ここでまたしても道具トラブルが発生!!

これまで長い付き合いをしてきた信頼の置ける照明器具。廃隧道の闇をハンズフリーで切り裂くオブローダーの光源「GENTOSヘッドウォーズ HW-777H」が、なんと点灯しないのである!

長時間袋詰めにされて、揺らされて、島に上陸した時点で、“彼”はもう虫の息だったらしい。長い付き合いだったが、ついに配線系に寿命が来たのだろう。
なんでこう島に来た途端、バタバタと相棒達が斃れていくのか分からないが、全ては成果を前にした厳しい試練なのだろう。

しかし案ずるなかれ。
廃道探索の生命線でもある照明は、ちゃんと予備を持っている。
ここから先は、旧式の「GENTOSスーパーファイア SF-502XP」が闇を裂くぜ!


奇妙に尖った断面の坑門をくぐると、

すぐさま奥の様子がおかしい事に気付く。

左の方向にかなり強く曲がっているだけでなく、断面が…。

なんだこのトンネル?!



振り返ってもおかしい景色が見られる。

まるで、坑口を出た道が即座に草藪に消えているように錯覚する。
しかし実際には、路面の連続性が感じられないほどの急激な下り坂で、
左下の方向に“仮設都道”が折れているのである。
直進の草藪は、廃道になった本来の旧都道に他ならない。



さて、内部に話を戻す。
尖った断面は坑口から30mくらいだけで、その奥には至って普通の2車線トンネルが隠されていた。

断面の変化が急激なので、その前後にガードレールを設置して、道幅をスムースに変化させていた。
とはいえ内部で断面のサイズが2倍に変化するとは、このトンネルはただ者ではないし、ただ事ではない出来事があったに違いない。スマートさが感じられない。

となれば、そんな原因は一つしか考えられない。
入口の尖った部分は、地中に掘られた本来のトンネルではなく、平成12年の被災に伴う仮設道整備にあわせ、緊急にトンネルを延伸したフルカバータイプの洞門…
いわば、“仮設トンネル” とでも言うべき構造物だと思われる。

そうでなければ、坑口部だけ仮設道路と同じ1車線幅とする理由がないのである。



そしてこの私の推理は、内部から入口を振り返る事で、一層強く支持された。

なんというか、めちゃくちゃなのである。

入口が広く、内部が狭い隧道というのは過去に何本か見ている()が、その逆バージョンは珍しい。
そしてその接合部の仕上がりが、明らかに尋常ではなかった。
通常の日本の道路整備事業としては考えがたいほど、仕事が雑なのである。スマートでない。




接合部のこの隙間は、絶対通常の“仕事”じゃない!

断面が変化する部分の内壁の一部が、外へ通じていた。
その部分に形を合わせた木板で塞ごうとしていた形跡があるが、それも用を成さず、痩せた人ならば出入りしうる程度の隙間が出来ていた。

この一事を以てしても、トンネル延伸は通常の道路整備ではありえない。
すなわち、洞内のこの位置までが“仮設都道”だったと考える最強の根拠となった。

また、本トンネルには工事銘板が存在するが、その取付位置も、「本来の坑口」の位置が今とは異なっていたことを示唆していた。



これが問題の銘板である。

この銘板は印象深い。外見的には本土にある普通のトンネルと何も変わらないし、本土のゼネコンが建設しているのも至って普通だ。コーガ石を使っていたりはしない。

だが、まずこの「新島トンネル」というストレート過ぎる名前が好きだ。
新島にあるから新島トンネルなのである。
それ以外の理由が考えられない。
“平成”新島トンネルのような飾り気もない。
しかしそれだけに島民の総意が込められている感じがする。
完成した当時、これが島で唯一のトンネルだったのである。




さらに、第一号でありながら、その規模は侮り難い。
全長739mもあるという。
この長さは完成当時、伊豆諸島で最長の座に君臨したほどのものだ。

島随一の難所を長大トンネルで克服した。
これは本来ならば、島史に未来永劫に刻まれるような偉業であったと思われるが、現実は非情。
完成からわずか15年足らずで、都道としての役目を終えている。

(なお、銘板の完成年は「1990年3月」(平成2年3月)であるが、事前情報である「平成16年度道路施設現況調査」では「平成元年」竣功となっている。前者の方が信憑性が高いと思うので、以後はそれを採用する)

新島の「吹上げ坂」に、わずか15年の間に建設された、伊豆諸島最長(739m)と日本離島中最長(2878m)という、2本の都道トンネル。

後者への更新は災害に原因するとは言え、本村(ほんそん)と若郷(わかごう)を結ぶこの峠が、どれほどの地形的難所であったのかということ。そしてそれと同時に、そこが島民にとっては日常的に通わねばならない「迂回の出来ない通路」だったということも、この豪壮なトンネル遍歴は語っている。




私は、私と同じ東京都民である新島の島民が、交通のために絞り出してきた貴い汗と、
本土の技術者をも巻き込んだ土木の大仕事を、今まで知る機会が無かった。

この深い闇の向こうに、難所と生きてきた(生きざるを得なかった)人々が暮らしている。
私は何としても、この都道の起点である「若郷」に辿りつきたいと思った。


若郷を見たい!



都道を走りつぶす目的で上陸したはずが、2時間の島滞在の結果、

その「起点」が歴とした“旅の目的地”へと変化していた事に気付く。

より強い根拠に支えられた私の都道探索は、いよいよ佳境を迎える。