東京都道211号 若郷新島港線 第4回

公開日 2013.4.18
探索日 2013.3.31

「吹上げ洞門」から「合流地点」まで


2013/3/31 13:37 《現在地》

石タイル貼りのおかげで、どこか古代の遺跡のように見えなくもない吹上げ洞門。

この洞門の内部は2車線分の車道があるが、その外側にはひさしを設けて歩道を迂回させてある。

その歩道の入口に垂れ下がっているのは、前回登場した電柱に結ばれていた電線であろう。
この道は本村と若郷の唯一の往来路であったのみならず、発電所や電話局を持たない若郷にとってはライフラインでもあったようだ。

それでは、いざ入洞!





案の定…

洞門内は平穏無事です!(入口付近は除く)




極めて対照的な洞外と洞内の路面状況。

洞内はこちらから奥に向かって結構な上り坂になっているにもかかわらず、坑口から20mほど奥まで目の細かい土砂(おそらく火山灰土)が侵入していた。
極めて流動性の強い土石流が、過去に坑口付近を襲った事が見て取れた。

それにしても、長さ100mほどのこの洞門を設置した関係者は、こんな結末を相当悔しく思っているのではないだろうか。
明らかに耐用年数を大量に残したままでの廃止であるばかりか、もし新島近海地震による崩壊地点がこの洞門の上であれば、交通が途絶することも、そのまま(大事を取って)長大トンネルの新道に取って代わられることも、起こらなかった可能性がある。
もっとも、崩壊の規模によっては大崩洞門のように圧壊してしまったかも知れないが…。




洞門のたくさんある“窓”の部分から、外へ出てみる。

そこには見慣れたタイル貼りの歩道があるが、防壁が完全ではないため、いち早くジャングルの侵蝕を受けている。数年もしたら通行困難な状態になりそうだ。

そして私はこの歩道部分に、もう一つ「見慣れたもの」を見つけた。
その「見慣れぶり」は、タイル貼り歩道の比ではなく、これは新島に渡ってくる遙か昔から「見慣れている」ものだ。

それは、東京都道を特徴付ける、青色のキロポストであった。
私が住む日野市にも沢山設置されているものだ。
壁面側に数字が向けられているために、“何キロ”であるかの確認はサボったが、現都道にあるお洒落なコーガ石ガラスのキロポストは、平成12年以降に採用されたものらしい。
おそらく旧道が現役だった時代には、新島でも本土(の都内)と同じキロポストを使っていたのだろう。




歩道が敢えて外部に露出している理由は、これだろう。

この羽伏浦を俯瞰する絶景を、自動車の喧噪と危険から少しだけ離れて堪能して貰いたい。

そんな都道管理者のサービス精神が、素敵な歩道をここに作り出していたに違いない。

この景色が“四重の封鎖”によって日常から切り離されてしまったのは、新道最大の欠点である。



遠景の素晴らしさに目を奪われがちだが、道路が好きならば眼下の景色にも注目したい。

洞門から100mほど離れた下方に2本の道が見えた。
いずれも地形図に描かれている道で、下は羽伏港へ行く村道、上はいま探索している旧都道が被災し使い物にならなくなった後に開設され、平成15年に新道が開通するまで使われた“仮設都道”である。

“仮設都道”と言うネーミングは私が勝手に付けたものであるが(正式名は不明)、新道を通行出来ない歩行者や自転車にとっては、未だに若郷と本村を結ぶ生命線である。
私もこの探索が終ったら、すぐに自転車であの道を走る事になるだろう。

この道について一つだけ思ったことを書いておくと、仮設道路だから仕方がないのだが、ウンザリするような凄まじい急坂なのが見て取れた。
いかにも無理やり作った道であると分かる…。



洞門自体は、至って綺麗なまま放置されていた。
おそらく洞内の照明だけは潮風に侵されもう使えないだろうが、それ以外は全く機能に問題は無さそうだった。
例えば壁面に亀裂があるとか、漏水が激しいとか、そういう老朽感とは無縁であった。

この道自体は昭和33年に開通したとされるが(開通記念碑より)、洞門は明らかに後補のものである。
その時期は不詳ながら(残念ながら工事銘板未設置のため)、おそらく初代「新島トンネル」と同じ世代の構造物であろう。
つまり、平成元年以降のものではなかろうか。

この私の推測が正しければ、誕生から廃止までの時間は、長くとも12年に満たない。




「こんなはずじゃなかったのに!」

って、思ってるだろうな。 作った人も、作られた道路も。

特に洞門は被災していないので、腑に落ちない気持ちがあってもおかしくない。



洞門を抜けても地形的にはまだまだ険しい区間が続くが、新島近海地震による被災箇所は脱したらしい。
したがってそこは、廃道後12年という年月に応じた至って正常な…舗装された…見慣れた廃道である。
普段の廃道と少し違うと言えば、舗装がアスファルトではなくコンクリート舗装である事くらいか。
コンクリート舗装の廃道というのは、珍しいと言えば珍しい。

しかし、コンクリート舗装路が廃道となった後の「耐植生」性能は、アスファルトに勝るのではないだろうか。
生長する木の根は時としてアスファルトさえ穿つが、1枚板であるコンクリート舗装板を貫通するのは困難だろう。
特にアスファルトの簡易舗装などとは比べものにならない強度があるはずだ。

もっとも、コンクリート舗装の弱点は、舗装板の隙間に植生が侵入することであり、ここも隙間いっぱいに雑草が割り込んでいた。




ここまで来てしまえば、自転車があったら便利だったのにと思う。

路面には微かにオレンジのセンターラインが残っていた。
なお、ここの海側の路面に突き刺さっているアンカー群は、この下にある“仮設都道”の落石防止ネットのものだ。
間近に合流地点が迫っていることを予感した。

今になって考えてみると、正直、あの被災地帯の激藪ジャングルをもう少し頑張って自転車同伴で完抜した方が、最終的にはより能率的だったと思う。。




う〜〜ん! 良い景色だ!!

それは間違いないのだが、

常に背景の一番いい場所を占める羽伏浦の“完成された美”の存在感が大きすぎて、
振り返るたびに、前景である廃道という日陰者とのいかんともしがたい不釣り合いが、気になり始めた。
これは良し悪しの問題ではないし、紛れもない島のリアルな風景なのだが…

この探索の最後の方では、「羽伏浦は少し自重」とさえ思うようになった(笑)。



「地形図から抹消された被災区間」の終わりに辿りついたことを、久々に出現した有刺鉄線のバリケードが教えてくれた。

そしてそのフェンスの向こうには、ほんのりと見覚えのあるコンクリートの巨大な壁…この位置からは壁としか見えなかったが、その正体は先代の新島トンネルの坑門…が見えた。

ちなみに「見覚えがある」と言ったのは、この旧道に入ってすぐの辺りで、一度望見していたからだ。
その段階では、よもや彼我の間に廃洞門1本を含む災害廃道が潜んでいるとは、全く想像していなかったが。

ともかくこのトンネルまで辿りついたことで、都道211号の旧道探索は第一章を終えたと言ったところだろう。
ここで面倒だが、一度自転車を回収しに戻らないといけないな…。




13:42 《現在地》

引き返す前に、バリケードのフェンスにぴったり寄って、その奥の景色を確かめる。
その気になればこのバリケードをすり抜けて新島トンネルへ進むことは可能だが、どうせこの後で“仮設都道”経由で行く場所だ。
トンネルはもう少しだけ楽しみにとっておくことにしよう。

フェンスおよび雑草という障害物越しであっても、巨大な坑口が湛える“闇”の片鱗が見えた。
トンネルは無事、開口している。
そこまで分かれば、今は十分である。

また会おう! 新島トンネル!!




もう一つ、バリケードの脇からのぞき見た光景。


新島トンネルが平成元年に開通したことでいち早く役目を終えた、昭和33年開通の旧旧都道。
その廃道状態となった道が、新島トンネル外周の山腹に存在するのである。

こっちは見るからにやばい感じ……。

旧トンネルとはいえ、新島トンネルもかなり長い。
ここに見えているだけでも旧旧道は500m以上ありそうだが、それを1本で回避しているのだから。

実際に近付いてみないと路面の状態は分からない。その事は直前の廃道探索でも体験したが、廃止されてからの時間が段違いに長いだけに、今までの区間より楽ということは、おそらく期待薄だろう。





13:53〜14:01 《現在地》

ほんと勘弁して欲しい感じ…。

探索の成否がこんな判断ミスで左右されたら、タマラナイ。
そう思って必死で頑張ったが、来るときは安易に自転車を降ろしてしまったこの段差。
案の定、戻りに躓いた。

こんな場所で引っ張るのもなんなんで結果だけ言うと、自転車と一緒にちゃんと脱出しましたよ。
擁壁が低くなっている所で上に登り、それから激藪の海を数十メートルも自転車と一緒に泳いでね…。
生産性や探索性が皆無のこの作業に、約8分もの貴重な島での滞在時間と、膨大なエネルギーを費やした…。
馬鹿と鋏もなんとやらというが、自転車という道具もその最たる例だと心得ないと…。




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羽伏港 と “仮設都道”  


廃道から“生還”した自転車に跨り、しかしデカリュックは引き続き置き去りにしたまま(若郷へ行ったら最後は戻ってくるのでまだ回収する必要はない)、「都道開設碑」の分岐地点を今度は右折して下る。

その道は本来、都道から分かれ羽伏港へ行くだけの道だったが、平成12年の新島近海地震による都道の被災を受けて、一部が“仮設都道”として利用された。

ところで、現在地の海抜が約70mで、「新島トンネル」は約110mの高さにある。本来の都道は緩やかに山腹をトラバースする至って素直なルートだったが、崩壊現場の回避を目的とした“仮設都道”は、酷く無理矢理な線形となった。

私に強烈なインパクトを与えたその姿を、ご覧頂こう!




自転車が転げ落ちるような…と表現したくなるような急坂を100mほど下って行くと、

散り際のサクラの向こうに、とんでもない道が見えてきた…



14:03 《現在地》

強引だな(笑)

とにかく、なんとしてでも新島トンネルの坑口に繋ぎたかったと言う気持ちが、ありありと見て取れる。
しかも、出来るだけ宮塚山の険しい山腹から離したいという気持ちも伝わってくる。

これぞまさしく“仮設道”の姿である。



と  い  う  か  さ。


それよりも。


私には道が封鎖されてるように見えるんだが…。



え? え?!



まさか、自転車や歩行者が若郷へ行く方法は、公式には用意されてないの?!


え……?


……オブローダー専用………?




「まさか!」は、とりあえず置いておくとして…

この強引な仮設道路の姿は必見である。

左上の山腹には、ほぼ無傷のまま放棄されてしまった「吹上げ洞門」が見える。
徐々に見慣れてきたとはいえ、宮塚山の山容の険しさは全く手心が感じられない。
そしてその山腹に点在する、旧都道、洞門、トンネル、羽伏港、そして“仮設都道”。
ここから見渡せるそれらの箱庭的配置が、とても面白い。



時間に余裕がないので寄り道は最小限度にしなければならないが、島に3つある「定期船発着港」はチェックしたかったので、分岐地点で村道を直進して羽伏港へ下った。

もともと新島で定期船の発着港といえば、私が上陸した黒根港(一般的には「新島港」と言えば黒根港を指す。都道の路線名の「新島港」も同じ)だけであった。
黒根港は目前の洋上に式根島や地内島が浮かんでいる関係から比較的風波に対し安定した港ではあったが、それでも冬期間など強烈な西風が吹くと接岸が困難となり、せっかく港の近くまで船が来ても、入港できずに「欠航」になることが珍しくなかった。

伊豆諸島の島々共通の課題であった就航率の向上を目指す行政の取り組みとして、各港に第2、あるいは第3の定期船発着港を設ける事が近年進められてきた。
そしてその新島における成果が、渡浮根港(若郷港)と羽伏港だった。




14:06 《現在地》

まだ羽伏港は完全に整備が終っていないのか、進入路が最後は未舗装になっていた。
地味な遭遇だが、今回初めて新島東海岸に迫った場面である。

また、港には立派な漁船溜まりの他、大型客船が接岸できる巨大な真新しい埠頭があるものの、辺りには乗船券を購入する窓口施設はおろか、待合所さえもない。
いやいや、それどころか人家一軒、自動販売機一台、公衆電話機一台、バス停一つないのである。

確かに東海岸にも港を設けたことで就航率は向上したであろうが、もしもはじめて新島を訪れる島外者が、この港に案内も無く放り出されたとしたら…。 ブルブル……。



羽伏港が背負う宮塚山。 これも島の忘れがたい眺めだ。

緑の樹海も隠し切れない、上下数列に分岐した道路の列が見える。

山が怒った数だけ、この列は増え続けた。
今や目に見えぬ地中へ移ったが、確かに存在する。
島の“唯二”の人里を結ぶ道は、地形的にどうしても、
この斜面の他選びようがなかったのである。

人も必死なのだ。




クレーンのフックの辺りに、新島トンネル(平成元年開通)の南口が見えている。
そしてそれが3世代の旧道の結節点になっている。

坑門の左側に見えるのが旧都道(昭和33年開通、平成12年廃止)。
その下に仮設都道(平成12年開通、15年廃止?)。
そして右側に旧旧都道(昭和33年開通、平成元年廃止)が孤高の道形を刻んでいる。

この全てがオブローダーの戦場。





宮塚山があんまり厳しく“しごく”から、

遂に地表を通る道は、1本もいなくなりましたよ…。


ちなみに、この写真には「旧旧旧道」(都道ではない)らしき道形も見えている。
今回は滞在時間の都合で探索していないが、いずれ新島再訪のテーマになるだろう。




次回、
「まさか、新島の北側に自転車で行けない?!」
の巻。