見るからに舗装がボロく、ガードレールも錆々だけど、勾配は緩やかな上段の道と、
車止めはあるものの歩道としては現役で利用されている、激坂の下段の道。
先行き不安な上段の道を選んだ私であったが、そこは若郷集落を俯瞰するには絶好の場所だった。
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キタァー!!
島に二つしかない集落(←ここ重要)の一つ、若郷を発見!!
定期船が通常発着する新島港から9km、本村集落から8kmで辿りつく、「新島本道」の終点である。
まさに一望のもとに、若郷集落がその姿を現わした。
今までは地形的に見通せなかった小さな弧状海岸に、思いのほか沢山の住宅が密集して一集落を形作っていた。
徒歩でも10分あれば一回り出来そうなコンパクトさだが、そのぶん人口密度はとても高そう。
コンクリートの家屋が建ち並ぶ風景は一般的な秘境のイメージにはそぐわないが、島という辺境地の中の辺境であり、岩場に取り囲まれた立地も完全に秘境的!
住んでいるのは東京都民だが、見慣れた集落とは明らかに何かがチガウ、そんな風景だった。
集落がある場所は、まさに “地の果て” のイメージ。
道は全てここで終わる。
“上段の道”は集落を片手に見下ろしつつ、残った落差を克服すべくの蛇行を開始する。
この小さな坂道は「木戸の坂」と呼ばれており、若郷集落の入口…木戸…の位置を占めている。
逆に若郷から本村へ向かうためには、まずは木戸の坂を上り詰め、それから吹上げ坂の長い山坂を越えねばならないのだった。
現在はこの二つの坂道にそれぞれトンネルが建設され、島の交通史に歴然と在り続けたこれらの歴史地名も、過去のものとなりつつあるようだ。
錆びたガードレールから下を覗くと“下段の道”が横たわっていたが、よく見るとその海側に使われていないガードレール(=路肩)があった。
そしてその先端は、海岸線によって無惨に削られていた。
私はこれを見てピンと来た。
今いるこの“上段の道”が本来の旧都道であって、それはかつて九十九折りをもって緩やかに集落へ下っていたのである。
だが、“何らかの事情”でこの旧都道は使用中止となり、代りに急坂道で短絡する“下段の道”と、さらに現都道の「若郷トンネル」が建設されたのだろう。
この時点で、このまま九十九折りを下っていっても集落には辿り着けない事がほぼ確定したが、道がある限りは進んでみよう。
集落を見渡す風光明媚な坂道には、かつて街灯が設置されていたようだ。
無惨に折れた“頭部”だけが転がっていた。
潮風の暴力、恐るべしである。
舗装された路面には、センターラインや路側線に加えて「20」の道路標示も残っていた。(なぜかこの一帯だけはコンクリート舗装でなく、アスファルト舗装がよく使われていたが、理由は不明)
道はこの先で斜面を深く抉り取るような切り返しのカーブになっているが、よく見て頂きたい。
「20」の道路標示のすぐ奥を……。
道路内に山が雪崩れ込んでいる?!
確かにその通りだが、よく見ると、崩れた形のままで人工的に固められている。
つまり、崩れた山を退かさずに、そのまま固めたということになる。
これは「廃道化」を前提とした治山工事の跡と考えられる。
ということは、この廃道の成因も吹上げ坂と同様、
災害によるものである可能性が一挙に高まった。
…それにしても、新島山も宮塚山に負けず劣らず…ガチだ……。
15:37 《現在地》
切り返しのカーブの先に、道は無かった。
覚悟はしていたが、予想より少しだけ早い最後だった。
切り返しの先の“段”は盛り土に埋め立てられ、完全に道の形を失っていたのである。
地中には若郷トンネルが交差しているが、当然見る事は出来ない。
また、奥に電柱が見えているが、あそこを“下段の道”が通っている。
旧都道は通りぬけ出来ないことをこの目で確認し、Uターンする。
今度は“下段の道”へ。
“下段の道”はご覧の通り、いかにもな無理矢理&応急の匂いを感じさせる急勾配の直登(降)路。
あまりに急坂であるため、背景の若郷集落がこちらに向かって傾斜している(奥の方が高くなっている)ように錯覚するが、もちろんそんなことはなく、道だけが傾いている。
…ここを自転車で登るのは嫌だから、帰りは現道を使おう…。
掘割りになった坂道を抜けると、勾配はそのままで海の際へ出る。
そしてほぼ直角に右折するのだが、この急カーブの外側に“例のガードレール”が取り残されている。
旧都道は、山際で崩土に埋もれ、海際では路盤決壊に見舞われたと言うことだ。
これらがもしひとときに発生したとすれば、その原因となるような災害は1種類しか思い付かない。
15:40 《現在地》
勾配7%の洞内上り勾配が予告されている若郷トンネル坑口前へとやって来た。
ここが新旧都道の合流地点である。私は右の道からやって来た。
帰りにも通る事になるが、ちょっと坑口を先に見ておこう。
なんか私の気になるものが、そこに見えている。
若郷トンネルの坑門の両側に石碑が建っていた。
左の碑には、「我が里は 自然のめぐみ 海の幸」という文句が、海をイメージさせる水色の縁取りで力強く刻まれていた。
若郷が歴史的に純漁村として発展してきた経緯を思わせるが、それと同時に、こうした一種の記念碑をトンネルの完成に合せて建立した事実から、若郷(或いは新島)の人々の道路に対する思い入れの深さが感じられた。
人口が少ない割に、新島の都道は随分と多くの言葉を投げかけてくる(=石碑が多い)。
対して右側の碑は、もっと直接的に若郷トンネルの存在理由を語っていた。
そういえば、平成新島トンネルの前にも同じような写真画像付きの石碑があった事を思い出す。
はっきり言って、ほとんど机上調査が要らないくらい新島の道路は雄弁であり、とても助かる。
それでは自ら語って頂きましょう。
若郷トンネルの歴史。
平成12年7月15日、新島近海地震によって若郷地区は甚大な被害を受け、木戸の坂と呼ばれるつづら折りの都道は、大規模な斜面崩壊が発生し通行できない状態が続きました。
そこで、今後同じような大地震が発生しても、安全かつ確実に若郷地区と本村地区を連絡できるように、この「若郷トンネル」を建設しました。
トンネル入口に設置された銘板の文字は、若郷小学校の児童全員が協力して作成してくれたものです。(平成14年度当時)
平成15年12月
東京都大島支庁
案の定、先ほどの廃道やこの若郷トンネルも、平成12年に発生した新島近海地震が生んだものだった。
説明文の内容も平成新島トンネルのそれとそっくりである。
続いて、坑口付近の内壁に掲げられていた工事銘板を見る。
若郷トンネルの竣工年は、平成新島トンネルよりも6ヶ月早い平成15年5月であるが、いずれ地震発生から3年以上の間は旧都道を仮復旧させて利用していた事になる。
つまりそれが先ほどの“下段の道”の正体である。
吹上げ坂は若郷と本村を結ぶ交通の動脈といえるが、木戸の坂はまさしく若郷集落の咽頭である。
ここが通れないと、若郷の人々は一歩も村から出られない事態になる!!
坂の上(例の火口の畑だ)にある畑に行くことはおろか、舟を出すこと(=漁港に行くこと)さえ出来ない!!
なお、このトンネルは平成新島トンネルよりも1.25m幅が広く、歩道を完備している。
そのため自転車や歩行者も普通に通行できるのだった。
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15:40 《現在地》
新島へ上陸して3時間36分、遂に若郷集落へ到着した。
今日はこれまでに何度、「遂に」という言葉を使ってきたか分からないくらいだが、
そのくらい、ここまで来るためのハードルは、大小織り交ぜ予想外に沢山あった。
しかしそんな「遂に」も、“多分あと1回だけ” だ。
トンネルを出ると、そこは直ちに若郷集落のメインストリートであった。(もっとも、今回私はトンネルを使わず来たが)
なおも幾らか下りが残るが、それも集落の中ほどで完全に底を打ち、最後は平坦になって終るようだ。
俯瞰では家々の隙間に多くの濃い緑が見られた集落内であるが、メインストリートに立って見ると、随分と灰色な景色である
まずはコンクリート家屋の灰色、そして舗装路の灰色、さらには集落の背後の山肌の灰色、加えて空の灰色。
今日が快晴でなかったことは、若郷の印象にとって決して不利に働いてはいない。むしろ良い意味で印象深い。
青い海と白い砂浜がトレードマークの新島で、このくすんだ集落の風合いは、これこそ作られたイメージではない、
昔から少しずつゆっくりと変化してきた、本来の島の風景であるような気がしたからだ。
晴れは全てを美化してしまうが、それだけが全てではない。
なお、集落内は都道も狭く、2車線は完全に軽自動車を前提とした2車線であった。
私にとって、この灰色の景色が若郷の印象のほとんど全てだが(滞在時間は僅か14分)、
中でも日本中の他の集落と比較して決定的な「灰色」は、背景の山にある。
全山灰色と言っても過言ではないような山…断崖…が、集落後背の三方を画している。
残る一方は外海に直接面する海であるが、時間の都合上、立ち寄らなかった。
広い平地の中に比較的自由なイメージで集落の範囲を画している本村と較べると、
この若郷集落の地形的な窮屈さは如何にも対照的である。だからこそ隠れ里っぽいと思ったが、
新島の地形をつぶさに観察してみると、海岸に面する平地は意外に少ない事が分かる。
本村がある島の中央部を除くと、この若郷がほとんど唯一のようである。
若郷の人々は代々、狭くとも貴重な安住の地に、軒を寄せ合って暮してきたのだろう。
これは振り返りの画像。
ゾクゾクきた…。
圧倒的高度感で聳え立つ宮塚山山頂の裏側に、村役場が置かれた本村集落がある。
直接越えるのは険しすぎるから迂回したいが、ここから見る宮塚山の幅がそのまま島の幅である。
既に見てきたから分かるとおり、吹上げ坂という険阻な山坂で海抜150m以上の高所を経由しなければ行き来が出来ない。
自動車が通行できる都道が昭和36年に開通するまでは、同じ島内の集落とはとはいえ気安く往来できる状況ではなかったのだ。
そのため、都道建設の計画が現れる昭和29年まで、若郷村は小規模ながらも独立した一村であった。
伊豆諸島の中で新島は、支庁所在地である大きな三島(大島、三宅島、八丈島)を除けば唯一、
島内に複数の自治体を擁する島であったのだが、その最大の理由が交通の不便であった。
(そして一度は都道によって結ばれた両村が、地震によって再び分けられてしまった。
少なくとも自動車を持たない住民にとっては、現状はそういうことになる…)
ところで、上の画像の向かって左のコンクリート家屋に注目!
絶壁を背負った、郵便局の跡!
郵便局と言えば、赤と白のおめでたい配色のイメージが強いが、
この若郷では灰色の濃淡で描かれた無骨な「〒」が、その役を担っていたらしい。
しかし、集落内で唯一と思われる立派な手摺り付きの“屋上”を有するこの建物は、
島と外界を結ぶ情報の灯台であった、そんな特別な雰囲気を醸し出している。
私はこの建物の佇まいが若郷集落で一番印象に残っている。
南北に細長い若郷集落の終わりが見えてきた。
その長さは約450mで、東西幅150mの約3倍である。
道の正面に新島山の絶壁が迫ってきて、左は見えないけれども海。逃げ場がない。
しかしそんな閉塞的な眺めの傍らで、一際大きな枝振りの良い松の木が、なけなしの彩りを与えている。
そしてその下には、道の終点と集落の終端を象徴するような、白い鳥居が見えていた。
15:46 《現在地》
奥の白い鳥居が、新島の全ての車道の北端である。
だが、都道の起点は、それよりもほんの少しだけ手前に置かれていた。
遂に、
東京都道211号若郷新島港線「新島本道」の両端を極めた!
これが私の生涯における初の「島嶼都道府県道の征服」であり、初島旅の折り返し地点である。
澄んだガラスの距離標は、新島港のお洒落タイル舗装路にこそ似合っていたが、
若郷の灰色の風景の中では、少々浮き気味に見えた。
寧ろ萌えたのは、お洒落のカケラもない「ここから」の補助標識の方で、
こんなありきたりなモノに興奮したのは、これが初めてだったかも…。
次回は、若郷集落観察の後半と、
道途に置いてきた“最大の難関”への回帰。
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