廃線レポート 千頭森林鉄道 奥地攻略作戦 第15回

公開日 2018.06.14
探索日 2010.05.05
所在地 静岡県川根本町

35.5km〜36km 千頭森林鉄道、栃沢終点へ迫る!


2010/5/5 10:31

巨大なガレ場から200mほど進んだ地点にて遭遇した、大樽沢以奥では3本目の隧道

この区間は、携行していた探索当時の地形図には破線の道として描かれていたが、隧道は書かれていなかった。だが、あった!

目に見える周辺の地形や、前進に費やした時間などを総合して考えると(当時はGPS未装備だった)、現在位置は右図の通り、大根沢分岐から1.3km付近にある川の蛇行突端付近ではないかと思う。そしてこの読みが正しければ、栃沢停車場まで残り500mへ迫っているはずだった。

さほど長い隧道ではないと思うが、地形的にもし貫通していないと、大変に面倒なことになりそうだった。
頼むぞ……。
今回も、どうか無事に通り抜けさせてくれ!



ぐぬぬ……

これは、どうだ?

まだ、貫通しているのかどうかは分からない。
今回の隧道も、これまでと同様に坑口付近だけ巻き立てがあり、内部は完全な素掘りであった。
そして、その素掘りの部分に落盤が起きていることが見て取れた。
さらに、右へカーブもしている。

坑口に立た時点で出口の光は見通せなかったが、その原因が右カーブだけなのか、落盤閉塞のせいなのか。
ドキドキする……。

いざ、入洞。




セーフ!セーフ!セーフッ!!

生き残った。今回もどうにかやり過ごせた、隧道。
落盤はあったが、貫通していた。
全長50m程度の、短い隧道であった。

今日一発目の隧道だったが、やはり、ヒヤヒヤさせられた。
昨日から、隧道が現われる度に神経がすり減っていく気がする。
大抵の探索なら、想定しない隧道が現われるのは最高に嬉しい展開なのだが、時間も体力もいろいろギリギリである今回ばかりは、嬉しさと怖さが半分ずつだ。
この林鉄の奥地を一歩でも深く究めたい私にとって、橋や隧道の出現は障害になることはあっても、楽になるということはまずないのだから。

しかしともかく、これでラスト500mの区域に突入だ!



10:33〜10:41
いまくぐった隧道の北口を見ながら、小休止。
30分前にも10分間の休憩をしているが、さすがに気力でカバーしきれないレベルで足の疲れが蓄積していて、気が緩むとつい足を止めてしまう。

それにしても、“おでこ”の広い坑門。
空いている広い部分に扁額を取り付けたくなるが、今回も“名無し”である。
こんなに地味な姿だが、これが千頭林鉄の記念すべき“最奥隧道”である可能性も十分にあるから、目とカメラに焼き付けた。
今回の探索計画では、原則的に一度通った軌道跡を二度とは通らないので、あらゆるものが一期一会の覚悟であった。
(おそらく生涯に一度しかここへは来ないという予感もあった)

休憩後、前進再開。
路盤の状況は、悪くない。




10:42
再出発直後に、小さなコンクリート橋を発見。
大根沢以奥2本目の橋だ。
これまでと同じで、橋の上だけはレールと枕木が残されていた。
こんなに小さい橋でも、それは変わらない。徹底している。


小さな橋の上から眺めた寸又川の明るい渓谷風景に、少しだけ癒された。
綺麗だね〜。

そしてふと気付けば、昨日初めて軌道跡に辿り着いてから、もうまるまる24時間が経過していた。
はじめ氏と別れたのが、もう随分と昔のことのように感じられる。彼は今頃、どこで何をしているのか。

昨日の9:51に千頭起点より26km付近の軌道跡に初めてタッチした。
それから24時間51分経過した現在、私は36km地点の栃沢停車場から3〜400m手前まで到達していた。
そして、これまで勾配を意識したことは一度もなかったが、これだけの距離の間には少しずつ上っていて、海抜は900mを越えた。この10kmで200mばかり上昇していた。

10kmも川を遡ったのに、それでもまだまだ寸又川の水量は豊富であった。どこでも自由に徒渉できると思えるような小川には、まだなっていない。
昨日から名前が付いている沢だけでも、大樽沢と小根沢と大根沢を分けてきたのに、まだ寸又川には余裕の奥行きが感じられた。
あまりに月並みな感想だが、南アルプスは本当に恐ろしく深いと思った。
人の足には厳しい世界だ。ここにあった林鉄の有り難みが感じられた。



10:46

ギャー!

栃沢への到達を確信していたのに、最後にきっついのが来た!
2枚上の“小さな橋”を写した写真の奥の方が白っぽく見えていると思うが、そこに近づいてみたら、こんな風になっていたのだ。
実は嫌な予感がしたから、敢えて渓谷風景の美に逃避していたのに、やっぱり甘えさせてはくれなかったか…。

いったいなにが起きたのか分からないが、滝のような小谷を横断する前後の路盤が、地面ごとごっそり落ちていた。
谷を跨ぐところには小さな橋があったかも知れないが、橋台すらも行方不明だ。地形がまるで変わっていた。

最悪、20mほど下の谷底まで降りれば、河原を迂回して進むことは出来るだろうが、それは最後の手段。体力的にも時間的にも、迂回は必要最小限度に抑えなければならない。
無理は禁物だが、出来ることからも臆病だったら、獲れる成果を取りこぼすこともある。

ここは、正面突破で行こう。 “黄線”のルートを想定した。



今回も、行けるは行けそうだが、結構ぎりぎりの戦いだ。
前にも書いたが、同じ崩壊現場でも、埋もれているのと削れているのとでは、後者が遙かに突破し辛いのだ。
ここは典型的な後者のパターンで、崩れた後に露出した不安定で急峻な地山を横断する必要があった。
ゴツゴツした岩質的に手掛かり足掛かりが豊富なのはいいのだが、乾いた転び石も多く、そこにも気を遣わされた。

写真は、難所の終盤(上の写真の黄線の先端手前)、これをよじ登れば脱出出来そうだという場面だ。
実際の路盤はもっと左下の方だったと思うが、完全に消滅しており、高巻き気味に横断する必要があった。




この難所を横断している最中、横目にちらついたのが、この滝だ。
難所の上部は、どれほどの高さがあるのか分からない、上の見えない滝になっていた。
写真は望遠気味に撮影しているので、結構遠い。
巨大な崩壊地を従えて、清楚で凜とした美しい女王のような滝だと思うが、この秘境の地では名前すら与えられていないのか、それとも名前を伝える術が失われてしまっただけか。

滝に背を向け、岩の小山をよじ登った。

その頂点に辿り着いた私が、見たものは――





隧道発見!

まだあったか! しかも、今度の隧道はいい!

超短いらしく、この時点で出口まで見通せている! 助かる!

貫通が分かっている隧道ならば、何も恐れることはない。嬉しいだけだ。嬉々として、近寄っていった。




10:50 《現在地》

35.7km付近にて、今回新たに探索した大樽沢以奥では4本目の隧道を発見した。
今度こそ、最奥の隧道の可能性が高い。
栃沢から奥にも牛馬道が柴沢まで続いていたとのことで、そこもできる限り探索したいとは思っているが、牛馬道ではこれまでのような隧道の存在する可能性はダウンすると思う。

4本の中では、圧倒的に短い隧道だ。
入口に立つ以前から出口が見通せるのも初めてで、ホッとする。
坑口前にかなりの土砂が堆積してしまっているが、まだまだ大丈夫そうだ。




おおお!
短いせいか、両坑口から始まっている覆工が、洞内の全部を覆っている!
4本目にして初めての完全に覆工された隧道だ。

全長は、せいぜい20mほど。何度も言うが、一番短い。
また、外からは完全な直線かと思ったが、微妙に左へカーブしていた。




1分もかからずに通りぬけた。
写真は、振り返って撮影した北口坑口。

どの坑門も、わずかに笠石的な出っ張りが上部にあるものの、扁額を含めて純粋な飾りといえるようなものは何もないうえ、面としての壁の広さもまちまちだ。
観光客などは毛頭相手にする気のなかったガチガチの奥地林鉄であれば、飾りなどないのは当然だし、坑門の広さに統一感がないのも、地形に合わせて必要と思われる最小の大きさにしたせいだろう。

地形に目を向けると、短くとも隧道が必須と思えるような険しさだった。
この崖はほぼ垂直に河床まで続いていて、川が明るいために隧道の周辺も明るい感じだ。



10:51
「最後の隧道を抜けると、一面の平場だった!」
栃沢停車場への接近を予想していた私は、そんな展開を期待していたが、裏切られた。今までと何も変わることのない険しい岩山が続いていた。

大根沢停車場へ近づいた時にも、大根沢に対する意気込みや展望のようなものを述べたので、今度は栃沢停車場について述べたい。
大根沢については、千頭林鉄における奥地開発の拠点として、様々な資料に名前が出ており、古い写真もいくらかはあった。
対して、いま近づいている栃沢停車場は、それよりも遙かに未知性の強い存在だといえた。
旧状だけならある程度判明していた大根沢に較べて、栃沢はほとんど何も分かっていなかった。探索当時判明していたのは、そこが林鉄廃止当時の終点であったということくらいだ。 終点というからには、大根沢に匹敵するような大規模な施設があったのではないかという期待もあるが、そんな情報も皆無だった。

未知性においては、千頭林鉄中でも最も抜きん出た存在だというのが、私の栃沢停車場に対する印象だった。
さらに奥へ続く牛馬道の終点とされる柴沢などは、左岸林道がそこまで伸びており、光岳を目指す一部の登山者の報告によって、どんな場所かおぼろげには知ることができた。だが、栃沢にはそうした登山者の足さえ伸びていなかったのである。あるいは釣り人が来ているのではないかとも思うが、寡聞にして、彼らの報告も私は知らない。




11:00 《現在地》

大根沢分岐を出発してから1時間38分、川の音が前方の二方向から聞こえるようになったと思った矢先に、そのことを裏付けるような展望を得られた。
かなり大きな支流が、今いる左岸側から本流へと流れ込んでいる。
本流の谷は合流地点を境に西へ折れているように見え、これは地形図に描かれている地形の特徴にも合致する。
あそこが栃沢の合流地点とみて、間違いあるまい!

未だ路盤には、長かった道行きの終点を予感させるような劇的な変化はないが、路線図から判明していた各区間の距離に照らしても、この沢の合流地点付近が栃沢停車場であったと思われる。
意外に規模の小さな施設なのだろうか。




来た!
路盤の様子にも、顕著な変化!!

遂に、広場らしき場所が見えて来た。
複線部分か、それとも建物用地か、いずれにせよ、停車場には付き物の広場だと思う。

しかし、その広場の入口付近は上部からの落石が多いようで、全体的に傾斜した斜面になっていて、目に見える路盤は一旦途切れていた。
写真に付した黄色い線は、かつてあったレールの位置を想像して描いたのだが、斜面(緑の線)に呑み込まれていることが分かるだろう。
だが、ピンク枠の部分にだけ、そのレールの一部が残っていたのである。




このように!(→)

斜面の縁から露出した宙ぶらりんのレールと、レールに固定されている枕木の列は、まるでレールが敷かれたままで放置された廃線跡のような心躍る風景であるが、おそらくここにはかつて橋があって、橋の上だけに残されたレールや枕木が、この風景を作ったのだろう。
ここの橋は木製の桟橋だった可能性が高い。

ともあれ、林鉄跡であることを強烈に意識させる場面が、この終盤に至って現われたことに、何か運命的なものを感じたのも事実である。
千頭駅起点から36km、今回の探索はまだ2日目だが、前回と合わせれば延べ4日間を費やして辿りきった先の終着駅が、いま目の前に。

栃沢停車場跡、到着。




36km地点 栃沢停車場跡に開いた、“地獄の入口”


2010/5/5 11:01 《現在地》《全体図》《路線図》

不穏な章タイトルを付けた理由は後で分かる。
ともかく、ここが遠かった栃沢停車場の跡地であるらしい。

上下に並ぶ3段の平場があった。
私は最も上の段に立っている。これよりも山側は人工的に削られたものかも知れない極めて切り立った岩場で、さらに上があるようには見えない。
そして、この見える範囲が全貌だとしたら、栃沢停車場は大根沢や小根沢とは比較にならないほどに小さな規模だったといえるだろう。

しかし、小規模であっても、単純ではないかもしれない。
この3段の平場のうち、上の2段はどちらも路盤のように見えるのだが、どちらが正解なのかが分からなかった。
ここに続く直前の路盤が綺麗に斜面化してしまっていたのが痛手で、どちらも路盤だった可能性がある。

今いる最上段の平場は単線分の広さしかないが、逆にこの狭さが、路盤以外の用途を考えにくくさせるようにも思う。
2段目は複線の幅があり、これまでの停車場とされた場所には必ず複線があったので、いかにも路盤らしいといえる。
3段目は路盤の可能性はないだろう。飛び地のようにぽつんと離れていた。



これは2段目の平場の景色だ。
複線が敷かれていた風景を、まぶたの裏に想像することが出来る。
しかし、これまでの全ての停車場がそうであったように、レールや枕木は完全に撤去されていた。

また、ここからだと3段目もよく見えるが、何もない更地である。
周囲を見回してみても、建物らしいものはどこにも見当たらなかった。
最初からそんな探索計画ではなかったが、もしここに小根沢や大根沢にあったような廃屋を期待して野営するつもりで来てしまったとしたら、哀れな野宿になっていただろう。

そして、この1段目から3段目までの全ての平場は、50mほど先で同時に終わっているように見えた。そこには、栃沢の谷が横たわっているようだ。
柴沢へ伸びていたという牛馬道の入口は、どこにあるのだろう?
変なところから始まるようだと、その発見がまず大変そうなんだが……。

想像以上に何もない、正直言えば張合いのない終点の状況に、多少の落胆は禁じ得なかった。



振り返る、平場のほぼ全景。
左上にあるのが、1段目の平場だ。上っていこうとしているようにも見えるが、この直後は栃沢左岸の岩場に阻まれていて、どこにも通じてはいない。

………。
全国屈指の事業規模を誇った、泣く子も黙る千頭林鉄。その廃止当時の終点といわれた栃沢は、こんなにも狭い、何もない場所だった……。
大根沢分岐から先だけを見ても、大きな橋とトンネル2本を穿ってようやく辿り着いた結末が、これか…。
周囲に広大な伐採地や植林地が広がっているようにも、様々な発展可能性のある広さがあるようにも見えぬ、谷の出合の小さな小さな土地だった。

全てが撤収された林鉄の終点は、かくも寂しいものだ。
大根沢くらいに雑然としていれば、かつての栄えを偲ぶ縁もあるが、この栃沢は元来の施設の狭隘さもあって、空虚な更地であった。
釣り人が残したゴミや落書きさえ愛おしいと思えるが、ここにはそれもない。
滴るような緑と、溢れかえる谷の音だけが、永遠に連なっていた。





  • 昭和14(1939)年までに大根沢、昭和16(1941)年4月から20(1945)年12月にかけて柴沢までのばし千頭から延長43kmほどになった。
  • 本線奥も昭和26(1951)年頃までに柴沢奥からの木材輸送が終了し、新たに大根沢方向から伐出することにして…
  • 距離 千頭―栃沢 36.0km  廃止 昭和43(1968)年  
    『全国森林鉄道』より転載

探索時点に私が把握していた千頭林鉄に関するほとんど唯一の情報源であった『全国森林鉄道』に、上記した3つが内容が含まれている。
これらの少ない情報から、ほかに情報源のほとんどない千頭林鉄の最奥や終点の実態を想像し、この探索に臨んでいたのである。

そして私はこれらの記述を総合して、林鉄は戦時中に大根沢から柴沢まで延長されていたが、戦後まもなく栃沢までに短縮され、廃止時まで栃沢が終点だったのだと読み取っていた。
路線図もまた、そのことを裏付ける記述(栃沢〜柴沢間を牛馬道として表示)だった。

だから、この栃沢は確かに千頭林鉄の終点ではあったが、“最奥の終点”とはいえなかった。
もしも柴沢が終点だった時代のことを知らなければ、私はここでなんの躊躇いもなく「ゴール!」を叫び、意気揚々と帰路に就いたことだろう。時間的にもちょうどいい頃合いであったし。
だが、このレポートの「」で既に表明したとおり、この探索の最終目的地は、ここではなかった。
それは、ここからさらに8km以上も奥地という、『全国森林鉄道』曰く“昭和20年当時の終点”であり、『路線図』曰く“牛馬道の終点”である、柴沢を目指していた!

……少なくとも、昨日の早朝には、そういうつもりで入山したのだ。

だが、現状はとても厳しい。
(昨日の到達地を大根沢から小根沢に短縮した影響もあって)既に、当初予定していた行程よりは4時間程度も遅延しているため、柴沢までの完遂は絶望的になっていた。
だが、それでもまだいまはいくばくかの時間はある。
ならば、ここで終わることはない。
せめて、牛馬道区間の実態を掴むことはしたいし、出来るならば、軌道跡と左岸林道の合流が予想される「釜ノ島」(柴沢の約2.5km手前)まで進みたいと考えた。

以上が、この段階における今後の探索に対する意思だ。




11:02

あ、ある!

2段目の平場の一番奥、栃沢の谷に臨むその縁に、明らかに橋台と分かる出っ張りが!

早くも、栃沢停車場跡の平場には外に見て回るようなものがないと判断していた私は、さらなる奥地への足掛かりであろう橋台に、迷うことなく近づいていった。
そして、橋台に立った私を待ち受けていた景色に、息を呑んだ――

こっ これはっ……




明らかに、今までの橋と様子が違う!!!

今までだったら、ほぼ架かっていたこのサイズの橋が、今回は完全に落橋していた。
それどころか、橋桁の部材さえも見当たらない有様だ。

それに、この気持ち悪すぎる橋脚はッ!
もう、見るからに……戦前臭を醸し出している!

やべぇえええええ!

こいつは間違いなく、戦時中に千頭林鉄の延長として建設されるも、戦後まもなく牛馬道へ降格された、栃沢〜柴沢間の遺構だと思う!

そういえば、この橋脚の形や雰囲気には見覚えがある気がする。
こいつは、大根沢橋梁をはじめとするいくつかの橋の下に見つけた、木橋時代の旧橋脚にそっくりじゃないか?!
これほどボロボロになったのは初めて見るが、きっと同年代(戦前)の建造物じゃないか…。



やべぇええぇぇぇ…(涙)

これは………… ひどい。

ひと目見ただけで分かる、この古さ、このヤバさ。 今までの路盤が、高速道路に思えてきやがるレベル(言い過ぎ)。

この先、左岸林道に吸収されるまで、こんな路盤が続くのか……、おそらく4km以上も……?

む、無理じゃねーか…。ただでさえ千頭はやべーのに、戦後まもなく廃止された軌道跡とか、無謀なんじゃ…。



マジで本能的に、この先はやべぇ気がした。

ここは命がいくつあっても足りないんじゃないかという気が。

もう、十分なんじゃないかという気もする。今回遭難したら、はじめさんにも迷惑掛けるしな。


…うん。

そうだな。

そうだ。


少しだけ入ってみて、駄目そうなら早めに切り上げよう。


せっかくここまで来たのだ。
牛馬道区間に一歩も足を踏み入れず、見ただけで怖じ気づいて撤収というのでは、ちょっと悔しい。
せめて、ひと囓りはしてみようじゃないか。毒は食って確かめよう。

そうやって、いつでも引き返していいのだと考えたことで、私の気分は少し楽になった。
この前向きな気持ちが萎えないうちに、行動開始だ。

11:02
“真の最奥区間”(栃沢〜柴沢)への前進開始!

まずは、最初の関門として立ちはだかっている、栃沢の落橋を突破しなければならない。
橋は一対の石造橋台と3本のコンクリート橋脚を有していた。
橋台に較べて橋脚の高さが低いのは、現在残っている橋脚上に木製の橋脚を立てていたからだろう。木橋でよく見る構造だ。古色蒼然である。

私はここを“黄線”のようなルートで突破することにした。



「もう少し」という覚悟を決めた私は、橋台の脇から栃沢の谷底へ下り始めた。
そして、その下りの最中、苔生した石造橋台を振り返った。
昨日からずっと歩いてきた千頭林鉄だが、ここから先は時代が違うのだ。そのことを印象づけられる風合いだった。
傍らには、木桁の残骸らしきものも、わずかに残っていた(正体不明)。

ところで、「牛馬道」という昭和30年代の路線図にあった表現は、牛馬が通る道という一般名詞的に考えるべきではない。
第6回に説明したとおり、これは国有林林道の種別としての「牛馬道」であるはずだ。
その定義は明確でないが、「森林鉄道」や「車道」より規格の低い林道で、林道としては最も低規格のものであるから、実質的には歩道同然のものもあったと考えられる。

したがって、戦後まもなく栃沢以奥の軌道が廃止された後は、歩道として維持されていたのだという解釈で、大きく外れてはいないと思う。




右の写真は、上の写真にピンクの枠線で示した範囲の様子だ。
橋台脇の何の変哲もないこの斜面に、見慣れない“人工物”を見つけたのである。

それは、ホーローの板だった。
いわゆるホーロー看板をイメージしてもらいたい。
サイズは街角で見るようなホーロー看板よりも細長く、何やら赤く塗られているようだった。
そういう板が2枚、次の台風でもあればいずこかへ飛び去ってしまいそうに思える状況で、斜面や大木の根元に引っかかっていた。
とはいえ、もともとこの辺りにあったものなのだろう。近くにこのようなものを飛来させる原因になりそうな施設はないと思われる。これは栃沢停車場の数少ない(唯一?)残骸なのだと思う。

で、このホーロー板の正体についてだが……、これがまたまた、ふか〜い謎を呼んだのである……。

見てくれこれを!! ↓↓↓



鉄道」の2文字が、くっきり見える!!

当然、頭に浮かぶのは、「千頭森林鉄道」と書いてあったものの一部じゃないかという想像である。もしそうだったら、激アツなんだが、どうなんだろう?
「鉄道」より前にも何か文字が書いてあったとは思うのだが、錆びてしまっていて読み取れないのである。
また、全ての文字が同じサイズだったとすると、「鉄道」の前には3文字くらいしか入らないように見える。

予想外の発見に興奮し、斜面に這いつくばって看板表面を凝視した私は、最初読み取れないと思っていた“上段”部分にも、ある文字を読み取ることに成功した。↓↓↓



「屋を圣て」

そう読める部分が、看板の上段にあった。
「圣」の字は、おそらく「経」の省略形だろう。昔の看板にはよく見られる省略だ。

さてこの看板、何を言わんとしていたのだろう。
私は、こう想像している。
上段に、「金屋を経て」の文字。下段には、「大井川鉄道」の文字が、それぞれ書かれていたのではないか。

すなわちこれは、静岡県金屋町(現:島田市金谷)に本社を持つ大井川鐵道株式会社が、集客のため、沿線各地に設置していた看板だったのではないか。
大井川鉄道の千頭駅を起点とする千頭森林鉄道に、このような看板があったとしても、不自然ではないだろう。
もっとも、この栃沢まで足を踏み入れるようなディープな人間に、そんな当たり前の宣伝をする効果があったかは謎だが(笑)。

長野県や山梨県から遠大な南アルプス主稜線を延々と縦走し、遂に林鉄の終点である栃沢まで達した超人登山者の目に映れば、まだまだ遙かに遠い人里への接近を最初に予感させる、そんな尊いアイテムだったかも知れない。私はここにも、苛酷でありながら、どこか長閑でもあった古えの登山シーンを想像した。

レポート公開後、複数の読者さまから、この看板を解読するコメントが寄せられた。
その中に、私が「金屋を圣て」と予測した部分は、「釜の島小屋を圣て」が正しいのではないかというコメントが多くあった。
なるほど、おそらくそれが正解だと思う。皆様ありがとうございます!

「釜の島」は、栃沢と柴沢の中間付近にある寸又川沿いの地名であり、古くから営林署の小屋が存在していた記録がある。
この解読を採る場合も、大井川鐵道が自社線の利用客になる可能性が高い登山者の利便を図るため、千頭と光岳を結ぶ登山道沿いに案内板を設置していたという推測に変わりはない。
現役当時にこの看板を目にした登山者がいたはずだ。



ドキドキする発見を後に、ひんやりとした谷底へと下った。
この栃沢は、小根沢や大根沢と較べれば遙かに水量の少ない支流であった。

(→)
この上流約500mの位置を、左岸林道が渡っているはずだが、この間の高低差は実に170mくらいあり、極めて急峻である。
そのため、沢沿いを遡る道はまるでないように見えた。

(←チェンジ後の画像)
栃沢の谷底にある大きな岩の上に建つ、第2橋脚(P2)近景。
第一印象が、亡霊のように不気味だった、ボロボロ過ぎる橋脚である。
高確率で戦時中の建造物だと思う。不気味だが、惹かれもした。



栃沢の右岸に建つ第3橋脚(P3)と、その背後にグズグズに崩れかけた姿を晒す、右岸橋台(A2)。

これをよじ登れば、始まってしまう。千頭林鉄の地獄が。


いつでも引き返すからな。



栃沢(軌道終点)まで あと0.0km

釜ノ島(林道合流推定地点)まで あと5.9km

柴沢(牛馬道終点)まで あと8.4km



Intermission(3) 栃沢にも存在していた小屋(未発見)の話


栃沢について、現地調査の内容を少し補足しておきたい。

まずは、地形図との相違についてだ。
これは現地でもなんとなく違和感に気付いていたのだが、レポートをまとめるために自身の記録を見返したことで、ほぼ確信に変わった。
左図は探索当時の地形図(平成17年版)であるが、ここに描かれている徒歩道(破線の道)が栃沢を渡っている地点(橋の記号がある)は、私が現地で見た橋の跡よりも100mほど上流だと思う。【この景色】の上流に、歩道が通じていたようなのだ。
私が見た橋跡は、それほど栃沢に入り込んだところではなく、寸又川が見えるくらいの位置にあった。

橋の袂に複線らしき広場があり、私が見た場所が栃沢停車場の跡だったことは疑っていない。林鉄の路盤を正しく辿った自信はある。だが、地形図に描かれていたこの歩道や歩道橋の実態については未解明に終わった。小規模な吊橋ではないかと想像しているが。




さらに、昭和51(1976)年の航空写真を見たところ、栃沢にも営林署の小屋と思われる建造物が映っていることに気付いた。
その位置は、上記した歩道沿いと思われる。
この建物も私は到達しなかったので現状は不明である。ただ、googleの最新の航空写真では、樹木が生長して隠されたのか、それとも撤去されたのかは分からないが、全く見えなくなっている。

なお、林鉄が現役であった時代から栃沢に小屋が存在していたことは、これから紹介する記事によって明らかだ。
記事のタイトルは、千頭営林署山岳部編「南アルプス光岳より赤石岳縦走」といい、昭和29年12月1日に発行されたものだという。

千頭営林署では、昭和25年から毎年夏に署員有志による南アルプス登山を実施しており、昭和29年の回も6泊7日におよぶ長く苛酷な登山だったらしい。
注目すべきは、その初日の行程である。11名からなる一行は、スタート地点である千頭駅から、通常であれば登山者の便乗が許されていない森林鉄道のモーターカーに揺られて、柴沢の登山口を目指しているのである。その際に栃沢も通過している。

この登山に参加した千頭営林署のOBである谷田部英雄氏(『賛歌千頭森林鉄道』の著者)は、平成20年に自費出版された『千頭山小史』に、彼自身が半世紀前に執筆したこの記事を再掲している。探索当時の私は把握していなかったことが惜しまれるが、昭和29(1954)年8月17日時点における千頭森林鉄道の全線にわたる乗車記録というべき、極めて貴重な記事である。(現役時代の千頭林鉄に乗車したレポートとしては、本編第13回の中でも取り上げた、昭和37(1962)年6月に橋本正夫氏が千頭〜大根沢間の列車に乗車した際のものがあるが(『大井川鐵道井川線 (RM LIBRARY 96)』所収)、橋本氏は大根沢で引き返している。
以下、少し長文になるが、千頭から栃沢までの内容を転載しよう。

   光岳から赤石岳まで(抜粋)   谷田部英雄
 第一日(8月17日)千頭貯木場発(モーターカー)柴沢小屋泊。

 大村暁一さんの運転するモーターカーで、千頭貯木場を午前6時に出発した。
1時間程で大間集落を通過し、渓谷美の美しい飛龍橋を渡ると間もなく尾崎の大間製品事業所に到着した。小休止の後再び出発。
モーターカーが寸又川最奥の千頭堰堤を通過すると、間もなく上西事業地の天地索道下盤台に到着する。
 ここまでは保線作業が行き届いているが、それから先は線路上に落石などがありモーターカーはスピードを一段と落とし、時々停車し落石を取り除きながらの運行だった。
 (ヨッキ注:ここから今回の私の探索区間の記述)
 そして、大樽沢を通過し諸の沢、小根沢を過ぎると大根沢の出合いである。
本線から分岐している大根沢支線の東俣沢で、戦時中に軍用材を出材していたが終戦後、食料や資材不足により、昭和21年に事業を中断し、そのまま放置していた約600立方米の材は腐朽してしまったと聞いた。
 さて、大根沢出合いを出発すると間もなく大きな落石があり、これから奥への運行は出来ないのでモーターカーに別れを告げ歩行することになった。
 小休止の後、20分ほどでNO24のトンネルに入る。真っ暗な中を抜けると栃沢小屋である。小屋は荒れ放題で、ヤマメ釣りやシカ猟などの連中が使っているようだった。
 この軌道は戦中から昭和21年度まで大根沢、栃沢間を森林鉄道で、栃沢、柴沢間を牛馬道で運材を実行していた。
 歩道その跡なので歩き安かった。栃沢小屋付近で昼食を済ませ再び歩行を開始した。
 (ヨッキ注:以下略)
千頭営林署山岳部編「南アルプス光岳より赤石岳縦走」の一部(『千頭山小史』所収)を転載。

いかがだろう。
昭和29年当時のナマの林鉄の状況がリアルに描写されており、初めて読んだ時、私はとても興奮した。

当時は東洋一と謳われた“天地索道”を中心とする上西事業地の最盛期で、戦時中に開設された、それより奥の区間(大樽沢〜大根沢〜栃沢〜柴沢)は、あまり往来されていなかったようだ。こうしたことも、この記事を読まなければ分からなかったことだ。
特に大根沢の先では路盤上に大きな落石が放置されており、一行はそこでモーターカーを降り、以後は柴沢まで歩行したというのである。
さらに、トンネルを抜けると栃沢小屋という記述は、今回の探索で2本のトンネルを抜けた後に栃沢停車場跡の広場に遭遇した状況と合致する。
どうもこの当時は、停車場に隣接して小屋があったようなのだ。

右図は、これも探索後に入手したものだが、「千頭事業区第三次編成事業図」という、実際に現場で使われていた資料だ。昭和42年時点の千頭国有林内の詳細な地図で、林業上の必要な情報が様々に記載されている。
そしてここには、栃沢の森林鉄道終点に隣接して「栃沢造林宿舎」の赤丸が記されているのである。
昭和51年の航空写真に写っていた小屋は図中の“矢印”の位置なので、この図が調製されてからの数年以内に、小屋は栃沢の上流へ100mほど移動したように見受けられるのだ。

現在はほとんど停車場跡らしい遺物がない栃沢だが、林鉄現役時代には、少なくとも宿舎はあったようだ。
以上、空虚な終点、栃沢停車場についての補足である。