栃沢について、現地調査の内容を少し補足しておきたい。
まずは、地形図との相違についてだ。
これは現地でもなんとなく違和感に気付いていたのだが、レポートをまとめるために自身の記録を見返したことで、ほぼ確信に変わった。
左図は探索当時の地形図(平成17年版)であるが、ここに描かれている徒歩道(破線の道)が栃沢を渡っている地点(橋の記号がある)は、私が現地で見た橋の跡よりも100mほど上流だと思う。【この景色】の上流に、歩道が通じていたようなのだ。
私が見た橋跡は、それほど栃沢に入り込んだところではなく、寸又川が見えるくらいの位置にあった。
橋の袂に複線らしき広場があり、私が見た場所が栃沢停車場の跡だったことは疑っていない。林鉄の路盤を正しく辿った自信はある。だが、地形図に描かれていたこの歩道や歩道橋の実態については未解明に終わった。小規模な吊橋ではないかと想像しているが。
さらに、昭和51(1976)年の航空写真を見たところ、栃沢にも営林署の小屋と思われる建造物が映っていることに気付いた。
その位置は、上記した歩道沿いと思われる。
この建物も私は到達しなかったので現状は不明である。ただ、googleの最新の航空写真では、樹木が生長して隠されたのか、それとも撤去されたのかは分からないが、全く見えなくなっている。
なお、林鉄が現役であった時代から栃沢に小屋が存在していたことは、これから紹介する記事によって明らかだ。
記事のタイトルは、千頭営林署山岳部編「南アルプス光岳より赤石岳縦走」といい、昭和29年12月1日に発行されたものだという。
千頭営林署では、昭和25年から毎年夏に署員有志による南アルプス登山を実施しており、昭和29年の回も6泊7日におよぶ長く苛酷な登山だったらしい。
注目すべきは、その初日の行程である。11名からなる一行は、スタート地点である千頭駅から、通常であれば登山者の便乗が許されていない森林鉄道のモーターカーに揺られて、柴沢の登山口を目指しているのである。その際に栃沢も通過している。
この登山に参加した千頭営林署のOBである谷田部英雄氏(『賛歌千頭森林鉄道』の著者)は、平成20年に自費出版された『千頭山小史』に、彼自身が半世紀前に執筆したこの記事を再掲している。探索当時の私は把握していなかったことが惜しまれるが、昭和29(1954)年8月17日時点における千頭森林鉄道の全線にわたる乗車記録というべき、極めて貴重な記事である。(現役時代の千頭林鉄に乗車したレポートとしては、本編第13回の中でも取り上げた、昭和37(1962)年6月に橋本正夫氏が千頭〜大根沢間の列車に乗車した際のものがあるが(『大井川鐵道井川線 (RM LIBRARY 96)』所収)、橋本氏は大根沢で引き返している。
以下、少し長文になるが、千頭から栃沢までの内容を転載しよう。
第一日(8月17日)千頭貯木場発(モーターカー)柴沢小屋泊。
大村暁一さんの運転するモーターカーで、千頭貯木場を午前6時に出発した。
1時間程で大間集落を通過し、渓谷美の美しい飛龍橋を渡ると間もなく尾崎の大間製品事業所に到着した。小休止の後再び出発。
モーターカーが寸又川最奥の千頭堰堤を通過すると、間もなく上西事業地の天地索道下盤台に到着する。
ここまでは保線作業が行き届いているが、それから先は線路上に落石などがありモーターカーはスピードを一段と落とし、時々停車し落石を取り除きながらの運行だった。
(ヨッキ注:ここから今回の私の探索区間の記述)
そして、大樽沢を通過し諸の沢、小根沢を過ぎると大根沢の出合いである。
本線から分岐している大根沢支線の東俣沢で、戦時中に軍用材を出材していたが終戦後、食料や資材不足により、昭和21年に事業を中断し、そのまま放置していた約600立方米の材は腐朽してしまったと聞いた。
さて、大根沢出合いを出発すると間もなく大きな落石があり、これから奥への運行は出来ないのでモーターカーに別れを告げ歩行することになった。
小休止の後、20分ほどでNO24のトンネルに入る。真っ暗な中を抜けると栃沢小屋である。小屋は荒れ放題で、ヤマメ釣りやシカ猟などの連中が使っているようだった。
この軌道は戦中から昭和21年度まで大根沢、栃沢間を森林鉄道で、栃沢、柴沢間を牛馬道で運材を実行していた。
歩道その跡なので歩き安かった。栃沢小屋付近で昼食を済ませ再び歩行を開始した。
(ヨッキ注:以下略)
いかがだろう。
昭和29年当時のナマの林鉄の状況がリアルに描写されており、初めて読んだ時、私はとても興奮した。
当時は東洋一と謳われた“天地索道”を中心とする上西事業地の最盛期で、戦時中に開設された、それより奥の区間(大樽沢〜大根沢〜栃沢〜柴沢)は、あまり往来されていなかったようだ。こうしたことも、この記事を読まなければ分からなかったことだ。
特に大根沢の先では路盤上に大きな落石が放置されており、一行はそこでモーターカーを降り、以後は柴沢まで歩行したというのである。
さらに、トンネルを抜けると栃沢小屋という記述は、今回の探索で2本のトンネルを抜けた後に栃沢停車場跡の広場に遭遇した状況と合致する。
どうもこの当時は、停車場に隣接して小屋があったようなのだ。
右図は、これも探索後に入手したものだが、「千頭事業区第三次編成事業図」という、実際に現場で使われていた資料だ。昭和42年時点の千頭国有林内の詳細な地図で、林業上の必要な情報が様々に記載されている。
そしてここには、栃沢の森林鉄道終点に隣接して「栃沢造林宿舎」の赤丸が記されているのである。
昭和51年の航空写真に写っていた小屋は図中の“矢印”の位置なので、この図が調製されてからの数年以内に、小屋は栃沢の上流へ100mほど移動したように見受けられるのだ。
現在はほとんど停車場跡らしい遺物がない栃沢だが、林鉄現役時代には、少なくとも宿舎はあったようだ。
以上、空虚な終点、栃沢停車場についての補足である。