廃線レポート 千頭森林鉄道 奥地攻略作戦 第16回

公開日 2018.06.14
探索日 2010.05.05
所在地 静岡県川根本町

36.0km以奥 秘奥の領域、栃沢の先へ!


2010/5/5 11:13

泊まりがけ探索2日目の午前11時という、なんとも中途半端な時刻であるが、千頭森林鉄道探索の新たなステージの幕開けだ。
ここまでは昭和43年に廃止された区間、ここからは昭和20年代には廃止された区間である。状況の大きな変化が予想された。

実は探索の初期計画段階では、この栃沢までを第二次探索として、以奥は日を改めた第三次探索とすることも考えていた。
だが、第三次探索のスタート地点となる栃沢があまりにも里から遠く、そのアプローチだけで各1日を要することや、アプローチに使う左岸林道と栃沢停車場の間の高低差が大きく(250mくらいある)、その行き来だけでも大変な重労働になるだろうということ、さらに、そこまでして辿り着いても栃沢以奥に目立った成果があるかは分からないことなどから、第二次探索に組み込むという、効率重視とも欲張りともとれる決定を下したのだった。

この先に想定される行程を、先に地形図から占っておこう。
右図はこれまでも度々表示している平成17年版の地形図だが、栃沢以奥の軌道跡(牛馬道とも)は一切描かれていない。
このほか、歴代の全ての地形図にも目を通していたが、栃沢から先の軌道跡を描いた地形図は存在していないことが判明している。
戦時中に柴沢まで森林鉄道が通じていたことは、複数の資料にも記述のある事実だが、栃沢から先でどこを通っていたかについては、明らかになっていなかった。
分かっていたのは、栃沢から柴沢まで8355mの距離があったということだけだ。

仮に、現在地から左岸林道を経由して柴沢を目指すと、どう計算しても6.5km以内には収まる。
記録されている距離との間には、2kmほどの差が生じる。
そうでなくても、左岸林道との間には現在、250mもの高度差が存在しており、軌道がこの高度差を克服できたとは思われない。

これまでの区間同様、軌道は寸又川の谷底を通路としていたとみて、間違いないだろう。
図中にオレンジの矢印で示したように、激しく蛇行する寸又川に沿って進むと仮定すると、その距離は釜ノ島まで5.3km、そしてそこで左岸林道と合流し、柴沢までの距離3kmを加えて、合計8.3km(路線図の距離と合致)になるのである。
おそらくこれが、千頭林鉄最深部のルートだと想定された。

目指すは5.3km先の釜ノ島、左岸林道合流地点!

けど、前回も書いたように、限界を感じたらすぐに撤収するぞ!



栃沢の対岸に見えていた、崩れかけの石造橋台へよじ登ってみると、やっぱり酷い。
対岸から見ていた通りの、酷い有様だった。
路盤の存在が、まったく判別の付かない状況。
完全に斜面になってしまっている。
ただ埋もれているだけなら、谷側に路肩の石垣くらいは残っていそうだが、それもないのだ。

そもそも、石垣ではなくてオール木製桟橋だったりしたのだろうか。もしそうだったとしたら、この先、これより少し傾斜が厳しくなっただけで、もう手に負えなくなりそうだ…。

とはいえ、私も素人ではない。
本当は素人だが、ここまで来てしまった、来られてしまったという自負だけはあるから、このくらいでは撤収しない。
まだ行く。まだ行ける。
このくらいの場所は、いくつも超えてきたから、今ここにいるのだ。



11:17
ひりつくようなガレ場斜面との格闘を開始してから、早くも4分が経過。
しかし、まだ終わりが見えない。
栃沢と寸又川の出合が近づいてきたのが景色の唯一の変化で、たいして移動できていない。

この時の私は既に疲労が蓄積していて、どう考えても普段の脚力ではない。そのことを免罪符として使わなければ説明できないくらい、ノロノロと進んでいる。ただ険しいだけが、千頭の厳しさではない。奥になればなるほどそうなのだ。探索者が生身の人間であることを忘れないで欲しい。

既に斜面を歩きすぎたために痛みを感じている疲れた足首で、なおもバランスを取りながら踏ん張らなければならない斜面横断はキツイ。しかし、ここでうっかり捻挫でもしようものなら、それだけで遭難死が現実的になる。そう思いながら歩くのだから、全く気楽ではない。



11:20
さらに3分経過の時点で、やっと路盤らしい緩やかさが、ほんのりと戻ってきた。
眼下にある流れは、既に寸又川に戻っている。
それと同時に、石垣の残骸と見える石積みが現われた。

石垣とは、林鉄跡で最も珍しくない種類の遺構であるが、作るのには相当に手間が掛かるものだ。だから、戦時中の突貫工事のようなものであったとしたら、(作業軌道のように)木製桟橋というより簡易なもので代用されていたかもしれないと疑っていた。
しかし、この早い段階で石垣(の跡)が現われた。
このことには、少なからず励まされたのである。
栃沢までのような、しっかりした構造の路盤が、ここにもあった可能性が高まったのだから。

なお、ここで吹き込んだボイスメモによると、先ほどの橋跡から150mは、“全く路盤のない状態”が続いたようだ。
そして、そこを横断する決め手は、シカが歩いた獣道だったと述べていた。
こうしたシカ道(彼らの糞が点々とあるために、それと分かる)の活用は、もちろんここが初めてではなく、これまでのガレ場でも繰り返し行っていた。
シカ達にとっても、なだらかな土地が連続して存在する廃線跡は、絶壁や川の中よりも楽な通路なのだろう。人が全く往来しなくなった廃道が獣道になっているのは、当然のことであった。



11:22 《現在地》
うん! 間違いない! これは森林鉄道の跡だ!

そんなことを言うのは今さら過ぎると思うかも知れないが、この時の私の偽らざる喜びがこれだった。
橋跡から200mほどのところに現われた小さな掘り割りの程度の良さに、ますます自信を取り戻した。

“牛馬道”という得体の知れないところのある文言には、やはり印象を左右されている部分があったのだが、現実に目の前に現われた路盤は、どこからどう見ても私にとってはとても見慣れた、森林鉄道の跡であった。
確かに廃止は早かったのかも知れないが、それが遅かった区間でも、あれだけ荒れ果てていたのだ。
昭和20年代の廃止と昭和40年代の廃止では、約20年の差があるとはいえ、それも今となってしまえば50年前と70年前の違いでしかない。案外、崩れ落ちるようなものはもう全て崩れ落ちていて、頑丈な部分にはさほどの変化が生じないという、安定の時期に入っていることも考えられる。明治時代の廃道だって、綺麗に残っている場面を見るくらいだからな。



おおおお!!(嬉)

橋跡から約250mの地点にあった小さな掘り割りを回り込むと、これまでとは打って変わって、すばらしく歩きやすい路盤が現われた。
栃沢までにも、ときどきこういう場面はあったが、ここも本当に綺麗に残っている。
それも、とりあえず見えている範囲はずっと歩きやすそうである。

栃沢に架かっていた橋の不気味な変貌と、その対岸のインパクトから、一度は弱気の虫に毒されかけた私であったが、意を決して飛び込んでみれば、意外にも状況は悪くない。
まだまだこの区間は始まったばかりだが、案ずるより産むが易しが現実になった可能性が。




11:28
歩きやすい路盤をさらに数分進むと、川越しに進行方向の視界が大きく広がる場面が現われた。よい景色である。

この先の寸又川を地図で見ると、川の源流近くではあまり見られない大きな蛇行になっている。
現在いるあたりが蛇行の始まりで、まず700mくらい南へ向ってから、400mくらい西へ進み、次には800mくらい北へ向うという蛇行である。さらにその最中は、入れ子構造のように小さな蛇行が連なっている。

ここから見通せているのは、そのうち最初の700mの谷間だ。その先は諸沢山の北面に遮られている。
大きな蛇行は、川に沿って早く行き来したい人間にとっては大きな障害で、左岸林道は200m以上も高い位置を通ることで、蛇行を無視することに成功している。
谷底の軌道跡も、長い隧道を用いればショートカットが可能だろうが、おそらくこのまま延々と蛇行に付き合うことだろう。

そして私の目はここで、しばらく見ていなかった種類の“森”を捉えた。
それも、間もなくこの道が突入するだろう位置に広がっている。
青々とした色で単調に広い斜面を染め上げる、あの尖った感じの林影は……、スギ植林地ではないか。



11:31 《現在地》

そこにあったのは、本当にスギの植林地であった。

私はキツネにつままれたような気分になった。

林鉄跡を歩いていて、スギ植林地が現われる。
そこには何の不思議もなさそうだが、これまでの長い長い千頭林鉄の旅を思い返してみれば、スギ植林地は意外な光景ということが分かるはず。
今まで千頭林鉄沿いで、まとまった広さを持つスギ植林地を見た覚えがほとんどない。小根沢に少しあったくらいか)

千頭林鉄沿いは、日本三大美林に数えられる“天竜スギ”の中心産地から山を一つを隔てただけだが、植林地はなぜか多くない。
その理由はおそらく、植林して継続的に育林するのには不向きな急峻な地形と、交通の不便さのせいだろうと思う。
実際、全国屈指の事業規模を誇った千頭営林署の主産物は、天然材であったことが記録されている。
仮に林鉄の敷設と同時に杉を植林したとしても、その生長には50年からの時間が必要なわけで、これは千頭林鉄の“生涯”より長い時間なのである。明治時代から林鉄が存在していた秋田のような地域とは根本的に違っている。



本当に不思議な気分だ〜。

最後の人里(大間集落)から、徒歩で丸1日以上かかる(そしてそれ以外の交通手段は既に無い)奥地に来て、それまでほとんど見ることのなかった、こんな平凡なスギ林に出会うとは。
スギ植林地というのは没個性だから、これがどこにあろうとも、人里の裏山に見えてくる。なんかその辺から長閑な紫煙が上がっていそうな気がしてくる。ひょっこり誰かが現われそう。

私に木を見る目はないので、ここに植えられているスギがどれだけ齢を経ているのかは分からない。林鉄があった時代に、苗を運んできて植えたのだろうか。
植えられてからずっと放置されていたようではない。完璧ではないが、下枝は払われていたし、比較的近年まで手入れがされていたようにも見えた。
しかし、最近に人が入った痕跡……例えば真新しい鉈目とか、ピンクテープとか、空き缶、吸い殻、そういうものはまったく見当たらなかった。

探索当時……平成22(2010)年……においても、実はこの辺りの山は完全に林業者から見捨てられていた。
国有林経営の実行者である千頭営林署は既に解体され、この地での林業活動は完全に終焉していた。

だから、不思議さがあった。狐狸か仙人が人知れずに山の手入れでもしているのではないかと、そんな幻想さえ抱かせた。
そして、励まされて、癒された。
こうした森は歩きやすいし安全だし、何より寂しさを緩和してくれた。

そしてさらに、こんなものまで…。



レール、発見!!

見たところ、6kgレールではなさそうだ。おそらくは8kgか9kgレールだ。千頭林鉄では8〜12kgレールを用いていた記録があるので、末端区間であるこの辺りは、8kgだった可能性が高い。

にしても、レール発見である。
栃沢までの区間でも何度もレールを目にしているが、大半は橋の上に意図的に残されたものだったから、このように路傍に捨てられたようなレールは珍しかった。

しかも珍しいのはそれだけでなく、ここが牛馬道に降格する以前、すなわち、昭和20年に柴沢まで林鉄が延伸された当初に敷かれたレールである可能性が高い!

鉄が何よりも貴重とされた時代に、鉄の中でも最高級とされる鋼鉄製のレールが、この僻地極まる山峡に運び込まれて使われていたのだ。
地方の不要不急とされたローカル線のレールが剥がされる一方で、人ではなく木を運ぶことに使われていた(同じレールではないとしても)。

このことは夢見がちな私の妄想ではないはずだ。千頭山から大量の軍用材が伐り出されたという話を実際に聞いたことがあるし、戦前から戦時中の千頭山は国有林ではなく、皇室の財産である御料林であったから、林業実行者も東京営林局ではなく帝室林野局だった。これほど国策に対して純な林業組織は他になかっただろう。
戦時中に林鉄が10km以上も延伸されたという事実は、ただ事ではなかった。
そして私はいま、そのただ事ではない現場の真っ只中にいるのだ。



11:48
スギ林は5分ほどで通り抜け、再び従来のような自然林となった。
路盤の状況も、あまり良くはない部分と、歩きやすい部分が半々くらいで、特筆するような場面はない。
この写真の場面は、悪い方だな。
淡々と、距離を伸ばしていった。
しかし、いま辿っている川の蛇行は本当に規模が大きく、未だその前半の前半に過ぎなかった。


11:51 《現在地》

再びの植林地登場!

半島のような大きな蛇行の中ほどにあるくびれた部分が、スギ林になっていた。
前回のスギ林も、同じような地形的な特徴があった。
闇雲に植林地を設定したのではなく、育ちやすい場所を選定していることが伺える。
だが、前回のスギ林より全体的に林相が荒れていて、より放置の色が濃く感じられる気がした。
左岸林道から離れたせいかもしれない。この辺りへのアクセスは、林道からはかなり不便そうだ。林鉄を頼りに設定された植林地なのかも知れない。



11:55
この2度目の植林地は規模も小さく、わずか3分足らずで通り抜けた。
そしてその出口には、久々に“難所”を感じる場面が待っていた。

平時は水のない涸れ谷が路盤を横断しているのだが、この谷がかなり厳しく切り立っており、しかも橋がないと来ている。
栃沢以前であれば、コンクリートや金属の橋が設けられていたと思える場面だが、この区間にそれを求めるのは酷か。

ここは斜面を下巻き気味にトラバースして、突破した。
チェンジ後の画像は、突破して路盤へ復帰する直前に撮影した。
苔生し方が凄まじいが、かなり規模の大きな石垣が築造されており、嬉しくなる。
実際の廃止は早かったが、最初から数年で廃止する前提で作られたものではないのだろうという気がした。

その後また、良くも悪くもない状況の路盤跡が始まり、10分ほど黙々と前進したところで、この区間で3本目のボイスメモ代わり動画を撮影する場面があった。
たまには動画のまま見ていただこう。(↓)



12:05 無人の山中で私が体験したのは、淡雪のような白い桜吹雪だった。

とても幻想的で、花より団子な私が思わず興奮してカメラを回したくらいだったのだが、
当時のカメラ性能の限界か、脳裏に焼き付いているような鮮やかなシーンは記録できていなかった。
しかしそれでも(お化け話みたいになるのが恥ずかしいが)、私は確かに見たのである。
桜吹雪と呼べるくらいの沢山のサクラの花びらが、はらはらと、
どこからとも知れず、舞い降りて、渓谷の風に流されていく様を。

千頭の山々にはヤマザクラが多く自生していることは確かである。
古き山人たちの愛した風流に触れたのだろうと、私は喜んだのだ。




12:09 《現在地》

栃沢出発からほぼ1時間、3度目のスギ植林地があるこの場所は、どうやら寸又川の大蛇行の南東角にあたる突端らしい。
栃沢から約1km地点で、釜の島までの5分の1を終えたところだ。

順調である。すこぶる。

本当に、探索というのは先が読めないものだと思った。
栃沢で不気味な橋脚を目の当たりにした時点では、これまでで一番劣悪な状況を覚悟したが、現実はまるで逆で、平均したら里山を彷彿とさせるくらいの歩きやすさだった。
このようなスギ林が繰返し現われる景色も里山然としていたし、仕舞いには桜吹雪が舞い始める有様だった。
これはもしかして、入っているのか?

「ウィニング・ラン」というやつに。

私はこの千頭林鉄の千頭から大間、大間から千頭堰堤、千頭堰堤から大樽沢大樽沢から栃沢までを、それぞれ根気よく踏破した。そのことを祝するための爽快なプロムナードとして、栃沢以奥が用意されていたのだろうか。
ただ歩いているだけでも徐々に疲労は蓄積していくので言うほど楽ではないにしても、気持ちのよい探索が出来ていたことは本当に予想以上だった。



12:11
大蛇行の中盤戦は、西へと向う約400mの区間であるが、入り込むなり即座に峡谷が狭まり、溢れ出る渓声が俄然大きくなった。
路盤の荒廃度は再び増大し、古い石垣は半ば以上も崩れ落ちていたが、そんなところにもシカ道がしっかりと刻まれていて私を導いてくれた。
狭いシカ道を横断する最中には、大抵いつも真下に青々としたゴルジュが横たわっていて、それが恐ろしくも美しかった。
四つ足のケモノと同等の踏破力をヒトが持てるかは分からないが、その一員になった気持ちがした。



12:17 《現在地》

ひりつく場面も長くは続かず、険しさは通算4度目となるスギの植林地によって、大らかに覆い隠された。
しかも今度の植林地は歩き続けてもすぐには抜け出ることがなかった。
今までで一番規模が大きいと思う。

この辺りは大蛇行による半島の突端で、左岸林道からは最も遠く離れた場所である。
私が歩いているこの道が育んだ森なのだと思う。
しかし、太く育ったスギと若い痩せたスギが混在しているのは、長年放置されて自然更新に任されているからなのだろうか。
この森に再び手入れがされることはなさそうだと思えてしまうのが、なんとも悲しい…。

12:24
結局、この森の通過には7分を要し、明るい出口が見えて来た。
暗い森から抜け出して、まだ誰も知らない光の向こうへ。





12:26

隧道を発見した!!

牛馬道区間にも隧道があった!




釜ノ島(林道合流推定地点)まで あと4.6km

柴沢(牛馬道終点)まで あと7.1km