早速2日目の探索と行きたいところだが、これまた少しばかり長くなりそうなので、その前に左岸道路の正体に関する手持ちの情報を全て明かそう。
私は2日目の探索中においても依然として、「こんな所を本当に一般人が日常的に利用していたの? マジで?」という悶々たる疑念を抱いたままだったのであって、帰宅後の机上調査によってようやく「納得」したのだったが、皆様には少しだけフライングをして貰うことにする。
その方が、寧ろ今後を“驚ける”と思うから…。
ずばり、古老の証言は正しかった。
左岸道路は工事用道路でありつつも、生活道路として活躍した時期があった。
机上調査により、「早川町誌」(昭和55年/早川町発行)p.1356に、以下の核心的情報を発見したのだ。一字一句がマジ核心的!
昭和4年版の地形図画像をご覧頂きながら、お読みいただきたい。
西山から新倉に至る道路は、琴路峠路と茂倉に通ずる湯島早川往還があったが、大正十五年水力発電工事の着工により、湯島から早川左岸の山中を導水隧道が開設され、それに伴行して工事用輸送路が岸壁を縫って開削されたので、昭和三年には新倉までの約七キロは自動車の通行も可能になった。
キター!!
この記述により、「左岸道路」は確かに発電所の導水隧道工事に伴う工事用輸送路として建設されていたことが確かめられた。
また、同書の他の部分の記述によると、この工事は東京電灯株式会社(後に東京電力の一部となる)によるもので、建設された発電所の名前は早川第三発電所である。ちなみに現在も東電の元で稼働中である。
ただし、率直に言って後段の記述…自動車云々…は、信じることが出来ない。
或いはこの自動車とは必ずしも四輪のものを指していないのかもしれないが…。
またその一方、軌道が敷設されていたという話は出て来ないわけだが、当時の発電工事用の輸送路と言えば軌道の敷設はほとんど当然に近いものだったので(徒歩では重量物を運搬できない)、やはり工事用輸送路であったとすれば、工事終了時までは軌道が敷設されていたものと考える。
以上をまとめると、左岸道路の着工は大正15年で、工事が完了して工事用輸送路としての利用が終わったのは昭和3年ということであろう。
続いて、この工事用輸送路というのが、どんな道であったかについても記述があった。
しかしこの道路は、湯島からは若干の下り勾配で新倉の水槽まで達し、そこから早川林道までの標高差が約百五十メートルあることと、曲がりくねった隧道が多くて真暗であったことが不便ではあったが、峠道よりも輸送力は増加され便利であった。
うわ〜……便利がっちゃってるよ…(それ以前の道はどんだけオワッてたんだよって話だよ…)
とはいえ、古老も真っ先に語った「曲がりくねった真っ暗な隧道」のくだりなど、この町誌の記述の正確性が窺えるリアルな描写である。
やはり、あのグネグネしまくった隧道は、記憶への印象が殊更強かったようである。
しかしながら、隧道があって、あの「青崖」の難所についての記述が一切無いのは少々不審であって、いったいいつ頃までまともに通行できたのか…。これは未解明問題である。
ともあれ、昭和3年以降一般人が自由に通行出来たことは、これらの記述から間違いないだろう。
続いて、この左岸道路を置き換える存在となる西山林用軌道の出現から、さらにそれが現在の県道へと移り変わっていく経緯を、駆け足で見ていこう
昭和八年九月六日に、三里村新倉を起点とする西山林道の施工が許可され、早川林道と同様に早川に沿った平坦道路が開削され、かつて早川橋〜新倉間の(に敷かれていた)軌条をここに敷設した。この工事は数区間に分けられ、昭和八年に西山温泉まで着工、同九年に軌条敷設、同十六年奈良田まで、同十八年八月には奈良田以北左岸の中腹を野呂川深沢まで全線三十八粁が開通した。(中略)
昭和二十五六年頃最も盛況を呈し、組合員も二十数名に増加し馬も十頭を数えトロは二十数台に達した。
これが西山林用軌道と通称される県営(一時期)や村営(三里西山軌道組合)によって運営された、山梨県でも有数規模を誇った森林鉄道であった。
県営であったごく短期間は機関車が入線したが、管理費の問題からすぐに取りやめられ、従来の馬車軌道に戻ったという。
(なお、引用文中に出てくる「早川林道」とは、こちらのレポートで路面に埋まった当時のレールを見つけた軌道である。)
また別の箇所には、「(西山)温泉浴客の便宜を計って人専用のトロもあり、(中略)温泉客には西山の名物として喜ばれた」
との記述もあるから、西山林道が開通した昭和9年の時点で、左岸道路を生活道路として利用する人はほとんど皆無になったものと考えられる。おそらくそれ以降は発電関係者が巡視目的で通う他、山菜採りなどに利用する村民が少数あった程度で今日に至るのだろう。
左岸道路の生活路線としての活躍は、昭和3年から9年までの極めて短期間だったのだ。
そしてやがて昭和26年頃になると、早川に持ち込まれた文明の近代輸送機関であった馬車軌道も時代遅れとなり、林道の自動車道化が求められることになる。
当初、軌条の撤去および自動車道化の工事は、民間の久菱林業という会社が許可を得て、新倉〜奈良田間を昭和27年に着手、翌年8月に華々しく開通式を行ったが、間の悪いことに翌月の大水害で壊滅的被害を受けて、西山一帯は一時“陸の孤島”に陥った。
しかし県がこれを再改修し、昭和29年4月に復旧したという。
その後も繰り返し自然災害の猛威にさらされ、当時の開通記念碑さえ流出して存在しないそうであるが、昭和33年に至って野呂川までの早川沿い車道全線が県道「奈良田波高島停車場線」に認定された。
そして改修工事はそれからも着々と進められ、現在の主要地方道「南アルプス公園線」へと至っているわけである。
こうした車道化後の改修については、また頁を改めて紹介することもあるだろうと思う。
以上の複雑で長大な早川交通史(のほんの一部分)に照らしても、「左岸道路」などはほんのリリーフに過ぎず、今や忘れられてもやむを得ない存在と思える。
そして、確かに地図の上からは完全に抹消されている。
だが、最も言い逃れがたい“視覚”という点で、現代からの“忘却”を許さないのが、左岸道路の恐ろしさといえる。
現代の県道からも、川の向こうに目を向ければチラチラと見えてしまうのだから、なんとも往生際が悪いと言わねばならない。
恐ろしい。
小憎たらしい。
だからこそ、少しでも多く制覇してやりたい!!
次回、
「え? これが“現役”の巡視路?!」
↑ なんというお定まりのパターン…。