道路レポート 早川渓谷の左岸道路(仮称) 解明編

公開日 2013.10.07
探索日 2011.01.02
所在地 山梨県早川町

 “経験者” 新倉の古老は、かく語りき


廃道から脱出した私は、間もなく路傍の自転車を回収すると、そこから県道を来た時とは反対に駆け下った。
目指すは、朝に車を停めてきた早川町役場の近くで、ここから16km離れていた。
しかし全体的には下り坂なので、往路に較べれば圧倒的に楽な走行であった。
自然に速度も出たのだが、特に新倉集落へは明るいうちに到着したかった。

左岸道路(仮称)の踏破はまだ道半ばだが、今日の探索で得たものは多い。
中でもレールと犬釘は、地形図や遠望だけでは決して窺い知ることの出来ない、踏査した者にだけ与えられた最大級の発見といえた。
これらは、道が「車道」であった事のかなり確かな証拠といえた。
車道の廃道といえば、私にとっては何よりも探索し甲斐のあるものだ。大好物だ。

だが、今日の踏査では解明されなかったことも少なくない。
レールは一箇所で確かに見つかったが、左岸道路の全体が、「発電所の導水路工事に伴って建設された工事用軌道」という私の予想通りであったのだろうか。
そしてそれは、いつから、いつまで、誰によって使われていたのか。
また、現役当時の状況とは、いかなるものだったのか。
アノ青崖にも、ちゃんとした路盤がかつてはあったのだろうか。  ――謎はたくさんある。




2011.1.2 15:33 《現在地》

疲れた身体にムチを打ってまで新倉への帰路を急いだワケは、明るいうちにこの集落で情報の収集をしたかったからだ。
明日はこの集落内にあると思しき「起点」から探索をするつもりだが、早朝の予定なので、そこでの聞き取りは難しいだろう。
正月二日の夕暮れ時という、あまり外出している人の居そうにない時分ではあったが、旅人を導くことに生き甲斐を感じる(はずの)“古老”ならば、或いは……!

そんな希望を持って、このレポートの行程へ雪崩れ込んだのであったが…

案の定、集落内で外にいたのは軒先に繋がれた犬一頭……。

がっかりと思いきや、その終盤に至って正月二日から勤勉に畑を耕す一人の古老を発見! 発見!
「ごめんくださーい」と、失礼ながら頭上より声を掛けたところ、70代半ばくらいの小柄なお爺さんがすぐにこちらを振り返った。そして「イケル!」と確信。
得体の知れない若造に向けられた両の瞳には、柔和さに潜む“話したさ”の「うずうず」が満ちていたのである。
私は、なぜ突然ここに現れたかや挨拶もすっ飛ばし、いきなり本題へと直入する勝負に出た! これがオブ四十八手の「ダイナミック古老聞き取り」である!



しかしよくよく考えてみれば、私が真に恵まれていたと思うのは、この状況でたった一人だけ出会えた住民が、本当の意味での“古老”だったことだろう。
(私の中での“古老”とは、有用な情報ホルダーである。年老いているだけではないし…というか、老いていなくても中年以降は一括りに古老と呼んでいる。)

なにせ私が調べようとしている道は、現在の県道の直接の旧道というわけでも無いようだし、もし工事用軌道などというものであったとしたら、地元でも相当にマイナーな存在であって然るべきだ。まして大正とか戦前なれば。
今までそんなものに興味を持って集落を訪れた人が多くいたとは思えないし、それゆえ住人達の話題になることも滅多にない存在なのではないだろうか。山菜が採れそうな道でもなかったし。
それはもう、彼らにとっても忘却の彼方の存在だとしても、何ら不思議ではないと思っていた。

だからこそ、いきなりでこれだけの生きた情報を入手出来たのは、奇跡的ではないかと思えてくる。


…勿体ぶるのはこのくらいにするが…

なんと、私が偶々出会った古老は、左岸道路の実体験者だった!

やっべー!  へっへっへ。






それでは、「青崖」の画像をバックに、古老の仰天証言集を、お楽しみ下さい!


  1. 新倉から湯島まで、川の東側の高い所にも確かに道があった。

  2. その道の名前というようなものは、特にないと思う。

  3. 私も若い頃(具体的な時期は不明)に歩いたことがある。(何のためかは聞き忘れた)

  4. 当時レールは敷かれていなかった。レールが敷かれていたのは、川の西岸の道。

  5. 車は通れない、歩きの道であった。

  6. この道がいつ頃、どういう目的で開通したのかは知らないが、相当古い。

  7. 途中に隧道が1本だけあったが、中は曲がっていて真っ暗だったので、通行する人たちは棒を手に持って壁との距離を一定に保ったり、燃やした新聞紙を即席の灯りにしたりして歩いた。

  8. 現在でも、「アーチ橋」までは月に一度、東京電力の係員が検査のため歩いているから行けると思うが、その先は崩れていて歩けない。

  9. ????(後述)????



どう? なかなか出来すぎなくらいの情報の出来じゃない?

地図を見ながら、いま少しこれらの情報を検討してみよう。


まず、何よりも驚いたのは、現在70歳前後と思しき古老自身が、「若い頃」にこの道を歩いたことがあると証言したことだ。
その信憑性は、現在の地図からは抹消された隧道の存在を知っていたことからも窺える。

しかし、全線を通して歩いたわけではないかも知れない。
今回私は、蓬莱橋から青崖までの1.3kmほどの区間だけで、2本の隧道を潜っているのに、古老は「隧道は1本だけだった」と言っていた。

また、私はこの蓬莱橋〜青崖の区間内でレールの残骸と犬釘をそれぞれ見つけているが、古老が通行した当時、既にレールは敷かれておらず、それより以前にレールが敷かれていたという話も聞いたことがないようだった。

しかし、古老が通行したのは推定50年くらい前であって、新倉にある発電所の導水路工事が行われた時期は大正末期、則ち80年以上も昔であるから、この点については古老でさえも、この道の当初の姿の体験者ではあり得ない。
同様の理由からか、古老はこの道がいつからあるのかについてもご存知でなかった。

古老の証言を私なりに解釈すると、彼がかつて歩いた事があると言うのは、新倉集落から中間地点とも言うべき楠木沢辺りまでではないだろうか。
そこはちょうど、私が明日探索しようとしている部分であり、そこに最低1本の隧道があることは、本日の目視と古地形図から判明している。
そして古老が「崩れていて歩けない」と言った部分を、今日一生懸命(途中までだが)歩いたわけである。

また、古老は(楠木沢の)アーチ橋の事もご存知で、そこまでは現在でも定期的に東電職員の通用があると、かなり意外な情報も教えてくれた。

…これには正直、とってもホッとした。
明日は、今日のような目には遭わずに済みそうかな…。


で、先ほど勿体ぶって伏せたのが、9番目の情報だ。
この時点では、「ガセじゃないのか?」と思ったほどに驚かされた最後の証言である。

曰わく――

9. 昔は西山温泉へ向かう浴客がこの道を行き来したそうだ。

古老よりも上の世代から伝聞情報ではあるのだが、これがまるまる真実だとすれば、驚嘆するを禁じ得ない。

だって……それって…… 




←こんな感じの道を…


友情出演:トリさん (浴客イメージ)

こんな感じの人たちが、→

行き来していたかもって、ことなんだろ?






早川町の浴客は、バケモンかよ?!

イイ湯で極楽へ旅立つ前と後に、漏れなく別の極楽へ飛んじまいそうじゃねーか…。




と、まあ浴衣姿はさて置くとしてもだ……、


探索中は、あまりの道の険しさと危険度のため、「これはさすがに工事用道路だろうな」と勝手に思っていた道が、

実際は近隣の住民にとっての生活道路の一つにもなっていたというのが、最大の驚きだったのである。

例えば、あの有名な黒部峡谷の「日電歩道」が、工事用でも登山者用でもなく、実は生活道路だったと聞かされるに近いような驚きがあった。







こうして、初日の探索は最後まで驚き中に終わった。

明日は、この新倉集落の裏山からスタート予定だ。





早速2日目の探索と行きたいところだが、これまた少しばかり長くなりそうなので、その前に左岸道路の正体に関する手持ちの情報を全て明かそう。

私は2日目の探索中においても依然として、「こんな所を本当に一般人が日常的に利用していたの? マジで?」という悶々たる疑念を抱いたままだったのであって、帰宅後の机上調査によってようやく「納得」したのだったが、皆様には少しだけフライングをして貰うことにする。
その方が、寧ろ今後を“驚ける”と思うから…。




ずばり、古老の証言は正しかった。

左岸道路は工事用道路でありつつも、生活道路として活躍した時期があった。

机上調査により、「早川町誌」(昭和55年/早川町発行)p.1356に、以下の核心的情報を発見したのだ。一字一句がマジ核心的!
昭和4年版の地形図画像をご覧頂きながら、お読みいただきたい。


西山から新倉に至る道路は、琴路峠路と茂倉に通ずる湯島早川往還があったが、大正十五年水力発電工事の着工により、湯島から早川左岸の山中を導水隧道が開設され、それに伴行して工事用輸送路が岸壁を縫って開削されたので、昭和三年には新倉までの約七キロは自動車の通行も可能になった。

キター!!

この記述により、「左岸道路」は確かに発電所の導水隧道工事に伴う工事用輸送路として建設されていたことが確かめられた。
また、同書の他の部分の記述によると、この工事は東京電灯株式会社(後に東京電力の一部となる)によるもので、建設された発電所の名前は早川第三発電所である。ちなみに現在も東電の元で稼働中である。

ただし、率直に言って後段の記述…自動車云々…は、信じることが出来ない。
或いはこの自動車とは必ずしも四輪のものを指していないのかもしれないが…。

またその一方、軌道が敷設されていたという話は出て来ないわけだが、当時の発電工事用の輸送路と言えば軌道の敷設はほとんど当然に近いものだったので(徒歩では重量物を運搬できない)、やはり工事用輸送路であったとすれば、工事終了時までは軌道が敷設されていたものと考える。

以上をまとめると、左岸道路の着工は大正15年で、工事が完了して工事用輸送路としての利用が終わったのは昭和3年ということであろう。


続いて、この工事用輸送路というのが、どんな道であったかについても記述があった。

しかしこの道路は、湯島からは若干の下り勾配で新倉の水槽まで達し、そこから早川林道までの標高差が約百五十メートルあることと、曲がりくねった隧道が多くて真暗であったことが不便ではあったが、峠道よりも輸送力は増加され便利であった。

うわ〜……便利がっちゃってるよ…(それ以前の道はどんだけオワッてたんだよって話だよ…)

とはいえ、古老も真っ先に語った「曲がりくねった真っ暗な隧道」のくだりなど、この町誌の記述の正確性が窺えるリアルな描写である。
やはり、あのグネグネしまくった隧道は、記憶への印象が殊更強かったようである。
しかしながら、隧道があって、あの「青崖」の難所についての記述が一切無いのは少々不審であって、いったいいつ頃までまともに通行できたのか…。これは未解明問題である。

ともあれ、昭和3年以降一般人が自由に通行出来たことは、これらの記述から間違いないだろう。


続いて、この左岸道路を置き換える存在となる西山林用軌道の出現から、さらにそれが現在の県道へと移り変わっていく経緯を、駆け足で見ていこう


昭和八年九月六日に、三里村新倉を起点とする西山林道の施工が許可され、早川林道と同様に早川に沿った平坦道路が開削され、かつて早川橋〜新倉間の(に敷かれていた)軌条をここに敷設した。この工事は数区間に分けられ、昭和八年に西山温泉まで着工、同九年に軌条敷設、同十六年奈良田まで、同十八年八月には奈良田以北左岸の中腹を野呂川深沢まで全線三十八粁が開通した。(中略)
昭和二十五六年頃最も盛況を呈し、組合員も二十数名に増加し馬も十頭を数えトロは二十数台に達した。

これが西山林用軌道と通称される県営(一時期)や村営(三里西山軌道組合)によって運営された、山梨県でも有数規模を誇った森林鉄道であった。
県営であったごく短期間は機関車が入線したが、管理費の問題からすぐに取りやめられ、従来の馬車軌道に戻ったという。
(なお、引用文中に出てくる「早川林道」とは、こちらのレポートで路面に埋まった当時のレールを見つけた軌道である。)

また別の箇所には、「(西山)温泉浴客の便宜を計って人専用のトロもあり、(中略)温泉客には西山の名物として喜ばれた」との記述もあるから、西山林道が開通した昭和9年の時点で、左岸道路を生活道路として利用する人はほとんど皆無になったものと考えられる。おそらくそれ以降は発電関係者が巡視目的で通う他、山菜採りなどに利用する村民が少数あった程度で今日に至るのだろう。
左岸道路の生活路線としての活躍は、昭和3年から9年までの極めて短期間だったのだ。


そしてやがて昭和26年頃になると、早川に持ち込まれた文明の近代輸送機関であった馬車軌道も時代遅れとなり、林道の自動車道化が求められることになる。
当初、軌条の撤去および自動車道化の工事は、民間の久菱林業という会社が許可を得て、新倉〜奈良田間を昭和27年に着手、翌年8月に華々しく開通式を行ったが、間の悪いことに翌月の大水害で壊滅的被害を受けて、西山一帯は一時“陸の孤島”に陥った。
しかし県がこれを再改修し、昭和29年4月に復旧したという。

その後も繰り返し自然災害の猛威にさらされ、当時の開通記念碑さえ流出して存在しないそうであるが、昭和33年に至って野呂川までの早川沿い車道全線が県道「奈良田波高島停車場線」に認定された。
そして改修工事はそれからも着々と進められ、現在の主要地方道「南アルプス公園線」へと至っているわけである。
こうした車道化後の改修については、また頁を改めて紹介することもあるだろうと思う。




以上の複雑で長大な早川交通史(のほんの一部分)に照らしても、「左岸道路」などはほんのリリーフに過ぎず、今や忘れられてもやむを得ない存在と思える。
そして、確かに地図の上からは完全に抹消されている。

だが、最も言い逃れがたい“視覚”という点で、現代からの“忘却”を許さないのが、左岸道路の恐ろしさといえる。
現代の県道からも、川の向こうに目を向ければチラチラと見えてしまうのだから、なんとも往生際が悪いと言わねばならない。

恐ろしい。


小憎たらしい。



だからこそ、少しでも多く制覇してやりたい!!





次回、

「え? これが“現役”の巡視路?!」

↑ なんというお定まりのパターン…。