大千代港整備小史
- 伊豆諸島東京移管百年史 下巻 (東京都島嶼町村会/昭和56年刊)
- 黒潮に生きる東京・伊豆諸島 下巻 (東京都島嶼町村会/昭和59年刊)
- 青ヶ島の生活と文化 (青ヶ島村教育委員会/昭和59年刊)
- 青ヶ島島史 (青ヶ島村/昭和55年刊)
I 大正時代 =大千代浦への最初の築港計画と顛末=
絶海の孤島を地で行く青ヶ島に、人が住み始めた正確な時期は定かではない。しかし、文献にその暮らしぶりが現われる近世には、島の北部にあって集落に最も近い海岸である神子ノ浦が、もっぱら港として使われていたようだ。明治45年の地形図にも、港の記号はこの一箇所にのみ書かれている。もっとも、この当時に運行されていた本土間の定期便はわずか年3回という有様で、当時の内地人のほとんどが、伊豆大島や八丈島の存在は知っていても、青ヶ島のことは知らなかったし、生涯訪れることなどない場所だっただろう。
港とは名ばかりの、地形としてはただの荒磯に過ぎなかった神子ノ浦に替って、小さくとも接岸設備を有する(それも昭和40年代までは艀専用の小さなものだったが)三宝港が、島の南西端に東京府の事業として最初の完成を見たのは、昭和9(1934)年であった。敢えて集落から遠く離れた不便な場所が選ばれたのは、そこに三宝鼻(大三宝、小三宝)という大岩が海岸線に突き出していて、島では貴重な小湾という天与の地形があったことからだった。
昭和10年の地形図では、港の記号は神子ノ浦から三宝港に移動しているのが見て取れる。以来、三宝港は島の港として唯一無二の存在として重要視され、今日に至るまで想像を絶するレベルの増強を受け続けている。その成果として、苦難の艀作業から脱却し、今や500トンクラスの中型客船が直接接岸できる、訪問者の多くが「城塞」をイメージするような島内最大の人工物となった。
我らが大千代港は、この三宝港に次ぐ第2の港(神子ノ浦も入れれば3代目)として計画・実行されたものであるが、大千代浦に港を作ろうという計画の萌芽は相当に古い。少なくとも文献上に築港計画が現われる順序としては三宝港とほぼ同時期であり、しかも実際に工事が行われたことが伝わっている。
上記に出てくる西沢営業所とは、内地に拠点を持つ商社で、大正期の島の産業と非常に深い関わりを有していた。同社は島を一大製糖場にする構想を持っており、島民の大半を契約を結んで甘蔗(サトウキビ)の生産を行ったほか、島内で生産された牛や薪炭を買い上げたりもしている。島への影響力は絶大で、一時は島内で日本円の代わりとなる西沢ペーパーが流通したほどであった。しかし、結果的に青ヶ島の製糖は不成績に終わり、西沢営業所と島の関わりも希薄になっていく。
この西沢営業所が独自事業として島の許可を得て行ったのが、大正5年の大千代(大猪)築港であった。だが、短期間で流失・使用停止となったためか、先ほど掲載した昭和10年の地形図には地名すらでていない。
この同じ頃、青ヶ島村はこの西沢営業所と協力して、さらに本格的な築港計画も進めていた。それは島の南端部、金太ヶ浦への築港計画であった。
避難港築造に関しては、詳細な記録が不明なために具体的なことは分からないが、池之沢と金太ヶ浦との間をつなぐために隧道を掘る計画をし、測量までしている。(中略)
大正6年9月、八丈島島司・小池友徳へ宛てて、西沢吉治より道路新設願いが提出された。その願いは直ぐに許可されたが、実現に至らなかった。それは随分思い切った計画で特に金太ヶ浦からカルデラ池之沢へ通ずる隧道掘鑿は、島始まって以来の大工事計画であった。
『青ヶ島島史』より転載。
なんと、青宝トンネルが誕生する80年近くも前に、島の外輪山を貫いてカルデラと港を短絡するトンネルの計画が存在していた!
しかもそれは、右のような坑門と内部の設計図面まで残っている。
この手書きの図面を見ると、坑門は立派な扁額(西澤の文字あり)をしつらえた石組みで、内部は素掘りであったようだ。断面の形は珍しい欠円アーチ。断面サイズは全幅12尺(約3.6m)高さ9尺(約2.7m)という、馬車交通に適したものである。全長は不明だが、当時の離島としては非常に先進的な計画であったことがうかがえる。
築港の予定地であった金太ヶ浦海岸は、今日まで実際に築港が行われた記録はないが、外輪山が最も低く薄い場所で、昭和29年の地質調査でも崩れやすい火山砂礫層が島内で一番少ない、逆に言えば最も隧道工事に適するという“お墨付き”を得ている。
八丈島島司の許可も得ていたこの工事が最終的に着手されなかった理由は不明だが、もし隧道と築港が上手くいっていれば、近接する三宝港の整備は進まず、今日でも金太ヶ浦港が島の出入口になっていたかもしれない。(村は大正2年頃から三宝港への築港構想も温めており(当時は上手ノ浦築港と呼ばれていた)、3期に分けた築港計画が村内で決議し、工事に必要なダイナマイトの使用許可を八丈島島司から得るなどもしていた。しかし実際に東京府の許可を得て工事が行われたのは昭和7年頃からである。)
II 昭和38年〜53年 =大千代港開設へ向けた村長の熱意と、その着実=
以上が、大千代港築港計画の前史と呼べる大正時代の出来事である。
その後長らく、大千代港の名前は記録に見えない。
おそらくは、三宝港の改善にひたすら重点が置かれていたためであろう。
そこに新たな港への希求が表に現われてくるのは、昭和38年頃からである。
この頃には、三宝港に初めて機械式の艀引き揚げ装置が整備され、大変な肉体労働を強いていたカグラサン作業が撤廃されたり、艀の曳航船(青宝丸)が就航し、手こぎによる艀作業が撤廃されたりといった進展があった一方で、島の代表的産業であった木炭生産が燃料革命によって壊滅的打撃を受けていた。その結果、過疎化の進行と失業者の増加が顕在化し、島民の受け皿となる公共事業(土木事業)振興による島内開発へと村政は大きく舵を切ったのである。
村が外界へ繋がる唯一の玄関として頼りにしてきた三宝港であったが、この港には立地上の重大な欠点が指摘されていた。
それは島で年間を通じて卓越する南西及び南の風に対し極めて脆弱であることだった。昭和40年の風向きの記録を見ると、多い順から南西風99日、北東風62日、南風55日であり、島の南西海岸に位置する三宝港の不利は明らかである。
昭和50年頃の定期船就航回数は月6回と、依然として気軽な旅行感覚では行けない少なさだったが、そのうえ強い西風が吹く冬期間などは3ヶ月以上も船便が途絶することがあり、そうなると島は完全に孤立、自衛隊のヘリコプターで緊急の生活物資を輸送された年さえあったのだ。
島の後進性の打開には、内地との間の活発な人と物の交流が必要だ。そのためには船の就航回数をどうしても増やしたい。船を良くすることも大切だが、どんな優秀な船でも港が貧弱で接岸できなければ意味がない。せめて、風向に影響されず船を運航させたい。それにはどうすべきか。三宝港の反対側にあたる北東の海岸にも港を築造し、風向きによって使い分ければよいのである。
そこで白羽の矢が立ったのが、大正時代にも短期間ながら桟橋が築造されたことのあった大千代浦だった。古い港である神子ノ浦も北向きの海岸だが、大千代浦には神子ノ浦にはない小さな岬状の岩礁(大千代)が存在していたことが、頑丈な港を短期間で作るうえでの好条件とも見なされたようだ。
昭和50年ついに東京都と国土庁は、青ヶ島東側の港の候補、大千代港建設を認定し、53年1月大千代港工事に着手したのである。
昭和59年に刊行された上記2冊とも、大千代港建設決定という事実を簡潔に述べているだけだが、初陳情以来13年におよぶ経過は決して簡単なものではなかったようだ。『伊豆諸島東京移管百年史 下巻』(昭和56年)に次の記述がある。
“なまやさしくない”経緯の具体的な内容は明かされていないが、日本一小さな自治体(昭和35年の人口402人が、45年には234人まで激減)が、小さな島内に二つ目の地方港を獲得するための道のりが容易でないのは、おそらく当然のことであった。
なお、大千代港の生みの親を1人決めるならば、それは昭和38年の初陳情から一貫して村長の立場で事業の推進を訴え続けた奥山治村長が挙げられるだろう。彼の長期にわたる村政を同書は以下のように締め括っている。
大千代港開設こそは奥山治村長の就任以来の悲願であり、島にこのような大規模公共事業を導入することが、彼の大きな目的でもあったと思う。
こうして遂に着工という祝いの日を迎えた大千代港だが、これまで引用を行ってきた全ての文献は、それが完成する以前に刊行されている。そして例外なく、来たるべき工事の難航を“予言”している。
『青ヶ島の生活と文化』と『黒潮に生きる東京・伊豆諸島』(ともに昭和59年刊)および、昭和52年版の『東京都八丈支庁事業概要』にある記述を引用してみよう。
この港の工事は困難を極め、たぶん予想以上の歳月を要するだろう。道路の建設だけでもたいへんだからである。完成のあかつきには、昔からの渡航の悩みが全く解消されるかも知れない。
昭和51年度は、同村の悲願である一島二港制として大千代港築港が予算化し、着工された。同港完成までには、集落との間を結ぶ取付道路が地形上極めて困難な面もあるが、同港の完成は同村の後進性を排するための行政上の第一要件と認められる。
希望に満ちた未来には、試練という枕詞が相応しいとでも言うかのように、こぞって予言されていた難工事。
あるいは島を見続けてきた人なら、誰でも予想できる難工事だったとも思えるが、特にアクセス道路の建設困難を予言するものが多いのが、笑えない……。
これがネタだったら、「分かっててやったんだろwww」とツッコみたくなるところだが…。
……着工から43年を経た現在、残念ながら、この予言は的中したと言わざるを得ない。
未だ本来の目的だった定期船就航が果たされていないからだ。
それどころか、工事途中のまま20年くらいは放置に近い状況にあるというのが、現地を実見した私の悲しい印象なのである。
III 昭和53年〜平成6年 =希少な記録! 在りし日の大千代港踏破記=
『黒潮に生きる東京・伊豆諸島 下巻』より転載。
この頃は、大千代港が最も明るかった時代だろう。
昭和53(1978)年の着工から、平成6(1994)年にアクセス村道が大崩落を起こすまでの約16年間は、人は英知と勇気をもって難工事に立ち向かい、徐々に新たな港が形を現していくという、希望に満ちた創造の期間であったと思う。
残念ながら大千代港の計画図面のようなものは未発見であるため断片的な記録ではあるが、この時期の港の様子を、いくつかの資料から拾ってみようと思う。
右の写真は、正確な撮影時期は不明ながら、昭和59年に刊行された『黒潮に生きる東京・伊豆諸島』に掲載されていたものである。もとは島の全景を東側から撮影した大きな空撮写真だが、そのうち大千代港付近を拡大したものとなる。
上部の村道と大千代港基部の両方に、赤色の巨大なクレーンのようなものが見えている。現在は見当たらない構造物だが、工事用索道の主塔であろうか。盛んに港の築造工事が行われている様子がうかがえる。基部は既にかなり形を現しているが、海上の岸壁はまだなく、原地形である大千代の岩場が、間もなく訪れる空との別れを惜しんでいる。斜面上に目を向ければ、後に大崩壊してしまう村道の在りし姿が見て取れる。険しい海食崖を電光のようなジグザグで下る車道らしいラインは途中までしかなく、その下は階段だろうか、斜面を相当直線的に下るラインがうっすらと見えるに過ぎない。
前述の通り撮影時期は不明だが、おそらく昭和58年頃であろう。
昭和62(1987)年に初版が刊行された三田村信行著『火の島に生きる』の表紙にある空撮写真からも、上記と同程度に進捗した現場の様子が見て取れた(→写真)が、衝撃を受けたのは同じ表紙に使われている別カットの小さな写真である。
それは、上記空撮写真よりもさらに工事が進んだ、大千代港のひとつの完成形を思わせる姿であった。現時点で私が把握している、崩壊前の大千代港を近くから撮影した唯一の空撮ではない写真だ。刮目せよ!
『火の島に生きる』より転載。
あれ?! 完成してね? この港!
工事関係者の姿も重機も見えないし、少なくともこのフレームの中に作りかけっぽい場所は見当たらない。係留されている船の姿は見当たらないが、この平和な感じは、現状の風景からはちょっと想像できないレベルだ。
今回の探索で私が撮影した写真のうち、同ポジではないものの、近いと思うのが右の写真だ。比較してみよう。
まず、現地では謎の存在だった【塔】だが、案の定、索道の主塔基礎であったようだ。この索道は相当巨大なもので、道を挟むように建てられた2基の基礎に跨がっていたようだが、このうち基部(下段)にあった基礎は完全に撤去されたようで、今は見当たらない。基礎ごと撤去されているということは、工事の進捗に合わせて撤去された工事用索道施設だったのだろうか。
他に目を引くのは、岸壁の突端に存在していた灯台らしき塔である。頑丈そうなコンクリートの基礎に支えられているが、この設備も現在は基礎ごと消滅している。へし折られたとかではなく、意図的に再整備されたようだ。船舶の安全を考えるならば、突堤に灯台というのは理に適っていると思うが、なぜ撤去したのだろう。
この撮影者が立っている場所も、極めて貴重な情報を持っている。
撮影者は相当高い位置から望遠レンズで覗いて撮影していると思うが、手前の斜面にカーブミラーのようなものが写っているのである。
これは、車道がその辺りまでは下っていた証拠といえるだろう。
後ほど解説するが、このカーブミラーがあったのは、おそらく当時の車道末端部付近で、撮影者の立ち位置と共に現在は完全な空中である。
昭和62年刊『火の島に生きる』は、江戸時代に青ヶ島を襲った大噴火と、その後50年以上にわたって繰り広げられた還住にまつわる苦難史を平易な文章でまとめた名著で、青ヶ島の歴史に触れたい人の必携書といえる1冊だが、本文中には取材者が島を訪問したレポートがあり、そこにも大千代港が登場している。次のような文章で。
おおおっ! 私の苦難を先駆けて体験した、貴重な先行者の通行記だ!
大崩落が起きる以前の昭和61年頃における大千代港へのアクセスが、いかなるものであったか、とてもよく分かる。
そして見逃せないのが、昭和61年に港が完成したと明記されていることだ。
完成したならば当然、港として利用者に開放されていた時期があるのだろうか。
これは大いに気になるところだが、この時期の大千代港を訪れたという証言だけでも非常に珍しく、これを港として船の乗り降り(漁船・定期船)に実際に利用したという証言は、残念ながら未発見である。
完成が事実ならば、行政による完成時検査として船舶の接岸試験などは当然行われていると思うが、その写真や記録も発見できていない。(なお、東京都が大千代港を地方港に指定したのは、着工する前の昭和52年3月31日であり、実態としての港の存在とは無関係であることが分かる。道路の路線認定と同じ仕組みである。)
昭和62(1987)年3月に黄色い鉄船青ヶ島丸、8月と昭和63年3月にアルミ船あおがしま丸で上陸し、何度も大千代に降り石鯛釣りしました。その頃から道などなく途中から階段でした。堤防根元に三宝の様な鉄塔が有り、堤防は今より10m位短く、もう一段高い所に丸い鉄柱が有り、それらで今の道路まで吊り上げ方式をとる予定と聞きました。登りは死ぬほどキツかった。
他の読者さまのコメントにもあったが、現在でも私が通ったルートで大千代港の岸壁まで降りて釣りをする人はいるようである。また、同ルート上にあった【仮設階段】について、「足場は被災の時に自衛隊が上陸する時に使用するもの
」という興味深い証言も別の読者さまからいただいている。
大千代港は、昭和61年に一度完成していた。(毎年発行される『八丈支庁事業概要』の年表にも、「昭和61年 大千代港完成」とある)
だが、完全な姿ではなかった。少なくとも、本来の目的だった定期船の就航が果たされた記録はない。
それから数年後、平成4(1992)年3月に青ヶ島村がとりまとめた『青ヶ島総合開発計画基本構想(あおがしま21世紀プラン)』は、村の交通の現状を次のように分析している。
ここに述べられている通り、島と外界を結ぶ交通は、かつてない大革新のときを迎えていた。大千代港の建設が決定した昭和50年当時は月6便だった定期船も、昭和62年には週3便、平成3年には毎日運行となった(これは現在より多い)ほか、平成6年にはこれらに加えて海況の影響を受けない速達の交通手段であるヘリコミューターの運行(週6回)が控えており、ようやく観光客が訪れられる青ヶ島になったといえよう。
『青ヶ島総合開発計画基本構想』より転載。
右図は、この『青ヶ島総合開発計画基本構想』に掲載されている、ちょー詳しい島の地図(元画像(1.6mb))の一部、大千代港付近の拡大図である。
これを見ながら先ほどの訪問記を読むと、平成4年頃の港の風景をより実体的に想像できると思う。
現在は海抜230m付近に【通行止め】があり、その先ですぐに途絶している村道18号線の車道だが、当時はそのさきに5回の切り返しがあって、なんと海抜120m付近まで達していたようだ。現在も大崩落の縁に残っている【断片A〜C】は、その一部である。
海抜120m付近から下は、結局最後まで車道が開通しなかったとみられるエリアで、現在も断片D〜Gとして大崩落の縁に痕跡があるほか、港付近ではよく形を留めた階段歩道として、港へ達していた。
この貧弱なアクセスルートを補佐する存在である索道については、昭和50年代の航空写真には見えた村道の途中と港を結ぶ長大な索道は描かれておらず、それとは別方向のいくらか小規模のものが描かれている。
『火の島に生きる』の写真に見えていて、本文中で「急こうばいの崖の中腹に、荷あげ用のクレーンの鉄塔が、一本の枯木のようにすっくりとたっている
」と表現されたのは、おそらくこちらの索道だろう。鉄索の方向もそれを思わせる。前者は工事用、後者は完成後の荷揚用のものとして、2回建設されたと見て良さそうだ。
間もなく断罪の凶行に走る海食崖の崩壊地「ショカキ」は、地図の中では九十九折りの村道の下部に不気味にスタンバイしている。
なお「ショカキ」という地名は、近世以前にこの海岸で製塩が行われた名残であると、『青ヶ島の生活と文化』は述べている。大千代はそんなに昔から島民生活と関わりの深い土地であったらしい。(もっとも、こんな狭い島に何百年も暮らし続ければ、馴染みのない土地などなくなるかもしれない。この大縮尺の地図の全体に満載されている小地名の異常な多さには、そんなことを思った)
大千代港は、未だ完全な形になってはいない。
だが、着々と完成に近づいている。そんな実感を、島民の多くが希望と共に持っていたことだろう。
そのことを裏付けるような記録が、他にもある。
東京都議会での次のようなやりとりである。
昭和61年に一旦は完成したとされる大千代港だが、この時期にも引き続き工事が行われていたことが分かる。
ここで完成した全長45mの物揚場(水深4.5m未満の岸壁を、それ以上の水深を持つ狭義の岸壁と区別してこう呼ぶ)が、現存する岸壁の姿と見て良いだろう。おそらくだが、突堤の先端部から灯台を撤去して、その分だけ物揚場を拡張したのであろう。
しかし、大千代港が完成までに越えなければならない最大の問題は、アクセスルートの貧弱さである。
これについても、都議会で議論された形跡がある。
大千代港については、物揚げ場延長44メートルを整備してきたところでございます。今後は、3カ年の予定でさらに物揚げ場を6メートル延長いたしまして、「還住丸」が安全に接岸できるよう延長50メートルにする予定でございます。
また、トンネルについてでございますが、このトンネルについては建設局の所管でございます。建設局では、今後、大千代港の就航率の状況を見てから検討するというように考えているようでございますが、当局では、まず港湾の整備を先に進めていきたいと考えております。
でた! やっぱり出てきた! 青ヶ島の“十八番”、外輪山を貫くトンネル構想!
実現に至らなかった大正時代の金太ヶ浦築港計画のトンネル(西沢隧道)と、実現した昭和60年の青宝トンネルに次ぐ、再びの構想だ!
おそらく島民の意識としても、長年の悲願だった三宝港と池之沢カルデラを結ぶ青宝トンネルの完成直後であり、その利便の威力をまじまじと感じていただろうから、三宝港と地形の条件が酷似する大千代港も、トンネルによるアクセスが期待されたのだろう。
右図は大千代港付近の立体的な地図だが、外輪山を抜くトンネルがいかに有効であるかは、私のような素人目にも一目瞭然である。
ちなみに、青宝トンネルと同じようにカルデラ底の端から最短の直線トンネルを海抜20m付近へ抜くとすると、全長約600m、高低差約80mとなる。このままだと青宝トンネル(全長505m、勾配9%)を少し上回る急勾配トンネルになりそうだが、数字だけなら不可能とは思われない。
WADA-blogさま提供画像(著者加工)
村も相当現実的にこのトンネルのことを考えていたようで、WADA-blogに掲載されている「<青ヶ島2泊3日ひとり旅>ダイジェスト版」の記事の最上段に登場する、古ぼけた「青ヶ島レリーフマップ」(右画像)にも、このトンネルがまるで実在のもののように描かれている。
ブログ著者の和田氏によると、このレリーフマップは「マツミ荘という、平成元(1989)年から平成13年にかけて村長をつとめた、佐々木宏氏が営む民宿の食堂に置かれていて、「伊豆諸島東京都移管100年祭の記念」とあったので、昭和53(1978)年のものと思われます
」とのことだ。この証言を裏付けるように、昭和56〜57年の災害を契機に具体化し昭和60年に完成した青宝トンネルは、計画線さえ描かれておらず、今は完全に廃道となった旧道が、はっきり描かれている。
昭和53年、すなわち大千代港着工の年に村が見据えていた現実の将来が、このレリーフマップには描かれている。
そしてその内容は、青宝トンネルよりも大千代のトンネルを現実に近いものと見ていたし、大千代港はトンネルによるアクセスこそ最終的な姿であると考えていたということなのだろう。(このレリーフマップの他に、しれっと大千代トンネルを描いた地図を、どこかで見た記憶があるのだが思い出せない。)
しかし、先ほどの都議会の答弁でも分かる通り、都はまず大千代港に定期船を就航させ、その活用度合いを見てからトンネルの計画を進めたいとの考えであった。(となると、都は【あの階段】とかを、島を訪れる観光客にも使わせるつもりだったのかな……)
そして迎えた、平成6年9月27日。
都議会の内容通りであれば、この日も岸壁の延長工事は行われていたであろう。
私が最初に“上陸した”無骨な【工事用プラットフォーム】も、その姿に相応しい喧騒に包まれていたことだろう。
IV 平成6年9月27日〜現在 =大崩壊の発生と、復旧の試み=
1994年9月27日(平成6年) 青ヶ島村村道18号線(大千代港線)
被害の程度
人的被害 死者 2人 行方不明 1人
道路被害 延長25m・幅員約3mが崩落。流出土砂量2000立方m
【災害状況】
村道18号線は、島の東側に位置しており都道236号線から枝分かれした村道で、切り立った外輪山の中腹に沿って続き、大千代港に通ずる道路(延長1,500m・幅員2.8m)であり、途中からは徒歩にて大千代港にたどりつくことになる。原因としては、砂質土の乾燥化による突然の道路崩落と推測される。なお、3人の住民等は、自動車で通行中に、この道路崩落に巻き込まれた可能性が強いと思われる。
八丈支庁の事業概要に掲載されている災害の内容は上記の通りである。人命が失われていることから、報道もされただろうが、そちらは調べていない。
台風や長雨の最中なら、誰もが警戒をして近づかなかったかも知れないが、「原因としては、砂質土の乾燥化による突然の道路崩落と推測される
」とあるように、晴天時の前兆なき崩壊であったようだ。恐ろしい不運であったと言うよりないかもしれない。
だが、提示された数字を冷静に見てみると、今日の実態に相応しい規模の崩壊ではない。
崩壊土砂量の2000立方メートルとは、1辺10mの立方体2つ分の体積であり、道路の被害延長25mというのも、現状とは比べものにならない“小規模”なのである。
要するに、この平成6年の村道崩壊事故を皮切りに、その後も崩壊は進行し続けた結果が現状だということなのだろう。
この予想は、現地に大崩壊から逃れようとするような【付け替え村道】が短距離ながら存在していることや、現に大崩壊の縁に呑み込まれつつある【仮設階段】の存在などからも、断言して良いだろう。
右図は、崩壊前後の航空写真を比較したものである。
航空写真は厳密に直上から撮影していないため、重ねて比較すると、立体ゆえのずれがどうしても発生してしまうが、それを度外視してみても、昭和53年と平成11年の風景は豹変を通り越して激変している。
後者では、かつての村道が25mどころではなく数百メートルも消失し、早くもその村道の付け替え工事が進んでいることが見て取れるのである。
さらに【平成22年の航空写真】(表示されない場合はこちら)も重ねると、留まらない崩壊範囲の拡大と、それに抗って進められた付け替え村道の周囲の治山施工が、一目瞭然だ。
M.Harada氏撮影
『黒潮に生きる東京・伊豆諸島 下巻』より転載
探索でも大いに活用させていただいたM.Harada氏の空撮写真と、先ほど掲載した『黒潮に生きる東京・伊豆諸島 下巻』の空撮写真を比較してみても、この崩壊の規模の凄まじさがよく分かる。
とてもじゃないが2000立方メートルどころの騒ぎではない。おそらく100万立方メートルはイってるだろう。
果たして、この展開を工事中に予想できた関係者はいたのだろうか。
それは私には分からない。最初の村道崩壊の時点で、その後の崩壊の道筋はもう抗えないところまで進んでいた可能性もある。
どこでならば防げたのかは、とても素人の私には想像もつかないことである。
一ついえることは、島の玄関である三宝港が着実に整備されていくなか、定期船は近づくことのない裏側の東海岸では、このようなとんでもない事態が進展していたということだ。
翌平成7(1995)年。
当初の計画通りなら、この年には大千代港に全長50mの物揚場は完成したはずだった。そうすれば、この50mの長さを接岸の条件としていた八丈島間の定期村営船「還住丸」が、本港へ就航を始めていた可能性がある。
またこの年には、八丈支庁が策定する10年間の長期計画である『エイトブルー構想』が公表された。
だが、「島まるごとエコ・ミュージアム」を標榜する約70ページからなる華々しい計画書のどこにも、大千代港をどうするかという具体的な話が見つからない。
辛うじて「大千代」の名前が見られたのは、「道路網の整備」に関する事業項目として、「今後10年程度内に想定される新規事業」であることを示す印と共に「大千代トンネル」と7文字あるだけだった。
肝心の「港湾施設の整備促進」に関する事業項目には、「三宝港防波堤延長工事」だけがあり、大千代港そのものをどうするのかは分からない。
とりあえず、トンネルを作ることは、既定路線になっていたようだが…。
そして、この10年計画の期間内に、大千代トンネルの整備が始まった様子はなく、次にやってきた平成16(2004)年策定の長期計画『新エイトブルー構想』に、その名はない。
現在はさらにその次の長期計画『エイト・ブルービジョン』(平成25〜34年度)の期間内であり、こちら(pdf)で見ることができるが、やはり大千代港や大千代トンネルの話は、全く出ていない。
平成6年以降から現在に至るまでの大千代港は、唯一のアクセスルートとともに、将来の活用に関する大局的計画や見通しを失ったまま、制度として半自動的に進められた災害復旧事業によって、今回私も探索している【途中までの車道】や、【途中までの階段】などが作られたとみられる。
しかし、この災害復旧事業については詳細な記録を見たことがなく、分からないことも多い。現在も港へのアクセスは断たれたままなので、本来的な意味での復旧は完了していないし、この事業の一環で作られただろう【仮設階段】などは、さらなる崩壊に呑み込まれて元の木阿弥となっている。
正直、どのような着地点を目指して災害復旧が進められているのかがよく分からないというのが、私の率直な感想だが、平成25年度の事業概要には、一連の災害復旧についてこう書かれている。
ここでは「復旧に向けた本格的な調査」という、いかにも期待感を持続させるような表現になっているものの――
同書の別のところにはこうも書いてあり、これが実態ではないかと思う。
八丈支庁としても、長年手を加えてきた我が子のような大千代港を忘れたわけではないけれど、その復活は技術的にも(事業の意義的にも)困難だと認めているように思う。
上記の記述から分かるように、村は近年も港の復旧を完全には諦めてはいないようだが、それは大千代トンネルの建設を前提としているようにとれる。
村としても、階段でしか往来できないような港には、新たに整備するほどの魅力を感じないということかも知れないし、村民の犠牲を繰り返さないための強い意志の現われかもしれない。
現実的にも、漁船の避難港程度ならばまだしも、当初の目論見のように定期船が停泊港として大千代港を完成させるには、とてつもなくハードルは高いと思う。
というのも、大千代港が足踏みをしている間に三宝港の整備が着々と進み、平成26年には念願の中型客船(460t)の就航が実現したことで、昭和50年代に100tほどの小型船を相手に計画された大千代港の岸壁は、あまりにも前時代的な代物になってしまった。
大千代港は、これまで私が取り上げてきたいくつかの未成道のように、既に完全に計画が消滅していて荒廃に任される存在ではない。
だが、その境地に限りなく近いところにある。
最果てを強く意識させる島の窓口のひとつが、自ら最果てのありさまを体現している姿は、ハードボイルドの極みである。
それに、少しばかり訪問のハードルは高いが、もし辿り着ければ、ほぼ貸し切り&独り占めの心境を味わえる現役の地方港が存在するなんて、雁字搦めの現代社会に対する相当楽しいアンチテーゼじゃないか。
青ヶ島の希有なる楽園性は、この行き止まりの港において究極的に鮮やかだ。
挑んで良かった、大千代港。
かつて、噴火によって同胞の三分の一と全ての土地を失った青ヶ島の人々は、当時の名主を初めとする優れた指導者の下に団結し、実に半世紀をかけた還住を成功させた。そんな歴史ゆえか、この島の人々が持つ、自らのより住みよい形へと島の姿を変えていこうとする積極性や行動力には、感嘆すべきものがあるように思う。三宝港や大千代港は、現在の結果において表裏の関係になってはいるが、いずれもこの力の発露したものであるといえるだろう。
そして、これも実現を見なかったものではあるが、今日ではほとんど語られていない壮大な計画が存在したことを、今回の机上調査の中で私は偶然に知てしまったので、触れないわけには行かないと思った。それは、昭和56(1981)年に刊行された山田常道著『還住青ヶ島 火の島のうた』の「あとがき」に出てくる。
産業振興が無論第一主眼だが、特に、次の世代に引揚げ不安が残らないような基盤作りにねらいを置いた。
海の産業については港で決まる。現在構築中の貨客船接岸を目標にした突き出しの港では本格的漁業を興すには無理があり、我が島の明治の名主佐々木初太郎が目論んだ――外輪山に穴を穿ち中のカルデラに湾を掘り込む――避難港誘致をその最大眼目とした。
著者の山田常道氏は、大千代港の父ともいえる奥山治氏の次の村長である。
この時期、既に大千代港は着工していたはずだが、その完成程度ではまだ足りないから、外輪山に穴を穿ち中のカルデラに湾を掘り込む避難港誘致を構想したというのである。
明治の名主佐々木初太郎の目論見を踏襲したとも書いているが、これはまさに、本編で述べた金太ヶ浦の隧道を含む築港計画に他なるまい。
想像を絶している。
仮に外輪山が最も薄い金太ヶ浦で実行したとしても、船が出入りするトンネルの長さは200mを下らず、なによりもカルデラ底まで海面を引き入れるとなると、100m近くも地盤を掘り下げる必要がある。未だに地熱を孕む火口原であるカルデラを100mも掘り下げるとは。あるいは、運河のように多数の閘門を設置することで、海面の側を高くするのだろうか。…それにしてもカルデラ内に海を引き入れるとは、人工衛星から見た島の形を変えてしまうほどの大改造ではないか!
そして私がこの話を目にしたとき、真っ先に思い出したのは、青ヶ島とは全く違った風土にある、ある村のことだった。
その村は北陸地方の雪深い山村で、広大な面積に少ない人口を抱えていた。そこに名村長がいて、ことあるごとに県や国の窓口に出向いては、村の交通事情を変革する大計画を陳情して回った。その結果、彼はついに誇大妄想狂の誹りを受けた。小さな村に、その抱いた野望の大きさは、あまりに相応しくないというのであろう。
利賀村を、私は思い出したのだ。
青ヶ島村は、海に浮かぶ利賀村ではないか。
辺境に生きる指導者とは、かくもしたたかで、強くあらねばならないらしい。