廃線レポート 早川(野呂川)森林軌道 奥地攻略作戦 第22回

公開日 2026.01.21
探索日 2017.04.14
所在地 山梨県早川町〜南アルプス市

 “最終章”をはじめよう


2017/4/14 14:41

現時刻を以て、観音経より起点側の探索を終えた。
本日の日没予想時刻は18:22頃なので、あと3時間40分ある。

昭和18年から20年まで早川林鉄の終点が置かれていた深沢尾根は、ここから南アルプス林道を約5km進んだ先にある……とされる。
自転車のない徒歩探索の5kmは、どう考えても短い距離ではないが、基本的にこの区間の軌道跡は鋪装された林道になっている部分が大半とのことで、いままでの区間のように、時間切れで進退に窮する危機はないはずだ。

とはいえ、深沢尾根に寝床が用意されているわけではないから、今日これから歩くべきは5kmではなく往復で10km……だけではなく、ここから夜叉神峠東口の駐車場(車をそこに停めてある)までの2.5kmも加えた12.5kmを歩かねばならない。(もちろん、深沢尾根に行くまでの途中で引き返せば、もっと短くて済むが)

12.5kmを3時間40分で歩くのは、今の私の足の状態や探索すべき遺構のことを考えたら明らかに無理だと思うが、もう帰り道については暗くなっても良いことにしよう。最悪、深沢尾根で日が落ちるのを許容しようと思う。
時間についてはそれで良いとして、いまの足であと12.5kmも歩いたら、これはもう究極的に足がふにゃふにゃになっちまうだろうが、足ふにゃふにゃで直ちに死ぬことはなかろう。

……以上のような諸々の考えから、私はここまで困難すぎる探索を成し遂げてきた良き日、良き流れに乗じて、残り時間と残り体力への不安を抱えつつも、そのまま“最終区間5km”の探索へと突入することにしたのであった。
読者諸兄におかれましても、もう少しだけ、お付き合いいただきたい。



(最終到達目標)
深沢尾根 軌道終点 まで (推定).0km



再び『トワイラ〜』に掲載されている地図を引用させていただいて、なかなかに複雑な現在地、観音経周辺の状況を整理しよう。
まず、この周辺には全部で計4本の軌道由来である廃隧道が確認されている。
これらを区別するために、隧道A〜Dの仮称を与えることにする。

隧道A〜Cはアザミ沢の左岸にあり、現在地から近い側からAは探索済み、Bは目視できるが接近不可能、Cは私は目視もできていないが、平成17(2005)年に秦野氏が西口まで到達している。
これから行うのは右岸の探索で、こちらにはもう1本の隧道Dがある。
この隧道Dについては、『トワイラ〜』の本文に言及があるものの、紙幅の都合上か、写真や詳細な状況(貫通の有無)については記述されていなかったものである。



これはアザミ沢に架かる林道のアザミ沢橋の上で撮影した全天球写真である。
『トワイラ〜』によると、軌道は画像上に黄線で示したルートであったとのことで、確かに現地の地形を見てもその通りだと思うのだが、アザミ沢を渡る橋は跡形もない。
この場所では現在まで繰り返し林道や砂防の工事が行われているので、そのために地形が弄られているところもあって、痕跡を見出しがたい。

なお、写真を撮り忘れたが、橋のすぐ下にも相当深い直瀑があり、アザミ沢は上流へも下流へも行くことができない、散策という意味で全く望みのない地形である。



同じ橋の上から下流方向を撮影した。

激しい逆光のため、両岸の地形が黒つぶれして見えづらいが、そのシルエットだけでも険しさが分かる。というか、険しいこと以外は何も分からないというべきか。
左岸は観音経渓谷の核心部と言うべき大絶壁で、立ち入ろうとした際に漏れなく拒絶される険しさは前回紹介した通りであるし、これからまた対岸から観察する機会がある。
一方、これから向かう右岸については、少しマシだがやはり険しく、道なくしてはどうやっても進めない地形であり、隧道が必須なのも変わらない。



同地点から視線を右にずらすと、林道がトンネルで通過している岩場の崖壁をへつり越えようとする軌道跡を見ることができる。
黒い影になっているところには短い“隧道D”があるのだが、暗くて見えづらい。

このように、林道がトンネルで通過している部分の崖壁に軌道跡が残っているというのが、この先の遺構の基本パターンである。
終点まで繰り返しこういう場面が現われるらしいので、楽しみだ。



14:42

おお! 軌道跡の奥に“隧道D”が見通せる!

私が目視認識した順序としては通算12本目の隧道。
軌道の路盤は、林道の路面よりもほんの少しだけ高く、かつ林道トンネル(正式名は「2号隧道」だが、この先の林道のトンネルはどれも名称を知る手掛りが現地にはない)の坑門に邪魔をされて、微妙に林道とは地続きでなくなっている。



ん? んんん?!

微妙に怖いなここ(苦笑)。

いや、「苦笑」なんておちゃらけた感じで書いてるけど、バランスを崩したら普通に確死だよこの高さ……。

手前の低いところから奥の路盤へ登る際、狭い縁のどこかに体重を掛けねばならないのだが、いかにも脆そうであり、突然崩れたりしないかという怖さがあった。



ここは時間や体力を消耗する様な場面ではなく、単に、やるかやらないかだったが、やったので、軌道跡へ到達。 ……怖かった。

辿り着くと、いよいよ正面間近に隧道があり、洞内の様子もつぶさに分かった。

辛うじて貫通はしているが、出口側の崩壊が進んでおり、殆ど閉塞状態のようだった。

とはいえ、通り抜け自体は出来そうだと思ったのだが……



甘くねぇ(涙)!

いやぁ〜、こんな小さな亀裂同然の“断絶”で私を引き返させるの、カンベンしてくれませんかねぇ……。

軌道由来のものなのか、林道工事中とかに架け替えられたものなのか定かでないが、いちおう木橋の残骸らしきものが架かっているような、いないような……。
あるいは橋なんて頼らなくても、うまく助走を付けて跳べば辿り着けそうな距離だったが、崩土によって両岸とも複雑な起伏が付いているので、助走が難しい。仮にそうでなくても、踏みきりの瞬間に蔦に足が引っ掛かるんじゃないかとか考えちゃうと、もう無理でした。

素直に迂回しますね……。隣の林道トンネルを使えばいいだけだから…。



14:43

隣にある林道のトンネル(2号隧道)を潜る。
長さ50mほどの短いトンネルである。

出口に近づくと、入口では感じられなかった光の眩しさと、開放感が、待ち受けていた。
そして、出口のシルエットの真ん中には、良い形をした立派な石碑が固定されていた。
とても存在感のある碑である。



トンネルを出るとそこは広場になっており、野呂川の谷に開けた正面に白峰三山の白い頂を眺望する理想的な展望地となっていた。
この場所は、昭和32(1957)年7月8日に天皇皇后両陛下が訪れた記念地であり、石碑はその翌年に建立された「御野立記念碑」である。(『トワイラ〜』は「 林道開通記念碑」としているが誤り)



14:46

しかし私には、この映える景色を堪能するよりも先にやらなければならない宿題がある。
「隧道D」の背撃作戦である。
坑口を振り返ると、坑口右の斜面伝いに締まった崖錐斜面が細長く延びているのが見えた。
とても道の跡と断定できるような姿ではなかったが、立地的にそこしか考えられないので、直ちに道を外れて取付いた。

チェンジ後の画像が、かつては軌道跡であった、いまは斜面の様子だ。
本来の路盤の高さよりも2〜3m高い位置を歩いているはずだ。それだけ堆積が進んでいる。



14:47 《現在地》

地形に沿って行けるところまで行くと、最後は谷へ突き出す鋭い岩の壁に阻まれた。
あるはずの隧道が、相当近づいても現われず、【さっき見た光】はなんだったのかと疑心暗鬼に駆られかけたが、近づくだけでは駄目で、最後に体の向きを変えて探すと、ようやくわずかな開口部を発見した。
これが、“隧道D”の終点側坑口のギリギリの姿である。

いちおう、人間も細まれば入れる隙間があるが、その前にアザミ沢の対岸へ目を向けると……。



先ほど途中で引き返した“隧道A”と“隧道B”を繋ぐ片洞門回廊が、樹木の邪魔を受けながらも、結構綺麗に見渡せた。
“×印”の辺りで私は引き返している。
少し見下ろすような感じに見えるのは、彼我の間にある路盤の高低差よりも、足元の坑口を殆ど埋めてしまうほどの堆積が主な原因である。



14:48

開口部から這い入って、“隧道D”内部へ。

この写真、下半身から入っていって、上半身も洞内に収まったタイミングですぐ撮影したものだが、このように極めて短い隧道である。
全長は目測4m程度しかなく、これまで早川林鉄で出会った隧道の中でも最短に属すると思われる。照明不要な短さだった。
また、全体的に崩壊が進んでおり、そのせいで本来の洞床は全く確認できなかった。

先は分かるが、いちおう通り抜ける。



外へ出ても、そこには振り返って坑口を見るだけの余地もなかった。
直ちに、すり鉢状に落ち窪んだ崩壊地があり、その向こう側は数分前に私が引き返した末端だ。
こちら側から見ると、私がここをジャンプで越えようという気持ちにならなかったのが分かると思う。
右の暗いところは数十メートルの絶壁で、アザミ沢の滝壺に落ち込んでいる。

満足して、引き返す。



14:49

御野立所が見える位置まで戻ってきた。
軌道の現役時代には、林道も御野立所ももちろんなかったから、ここにも恐ろしく狭い崖の1本道が続いているばかりだったろうし、よもや十数年後に天皇陛下が訪れようなどとは誰も考えなかったに違いない。
ただ一つ、この場所から見える山々の大展望は、その頃から変わっていないはず。


次回は御野立所から至宝の山岳大展望…… よりも私たちが見たいものを、たっぷり見ます! 見せます!



 御野立所から “絶対不踏領域” を臨む


14:50 《現在地》

「天皇皇后両陛下御野立所」と深く刻まれた石碑。
揮毫者はもちろん、天野久山梨県知事である。

私が崩れかけた“隧道D”へ潜って遊んだこの地が、昭和天皇皇后の行幸啓の地となった歴史上の出来事については、『芦安村誌』が次のように記している。

観音経に立つ昭和天皇ご夫婦(昭和32(1957)年)

3日間の日程で山梨県入りされた昭和天皇・皇后は初日の7月8日、野呂川林道を視察された。あいにくの雨空で、観音経トンネル西口の御野立所からは、南アルプスの雄大な山容も、野呂川の幽寂な谷も展望できなかったので、天皇は天野久知事、矢沢頼忠山梨県林務部長、それに地元の野沢正輝村長らに、天幕の元でいろいろお尋ねになった。特に矢沢林務部長とは、高山植物など展示物の説明を受けた後、岩膚を飛び交う鳥に、あれはイワツバメか、アメツバメか、などの問答をはされた。

天平宝字2(758)年、孝謙天皇が桃ノ木からドノコヤ峠を経て奈良田入りしたことを史実と仮定するならば、ほぼ1200年ぶりに村は、天皇をお迎えしたことになる。昭和天皇ご視察1周辺の翌年7月8日、この地に御野立所跡の記念碑が建てられた。

『芦安村誌』より


そしてこれが、行幸啓の折には厚い雲に隠されて見えなかったとされる、御野立所の真っ正面に広がる南アルプスの麗姿である。
私にとっては、数分前に対岸の絶壁の縁から恐々として眺めた景色の再確認であったが、ちゃんと地に足を付けて眺められる方が良いのは当然だ。
ここなら景色に酔っても、落ちて死ぬ虞はない。

それはともかく、天皇御野立所を伝える石碑は明治・大正・昭和にわたって数多あれども、これほど山深く険しい土地は稀である。
この昭和32年の山梨行幸啓は、毎年の定例となっていた全国体育大会や全国植樹祭のついでではない形で、野呂川林道の視察へと赴かれたものである。当時建設中であったこの林道の当年に開通したばかりの末端であった当地まで訪れているというのも凄いことだ。

以前の回にも触れているとおり、この野呂川流域の極めて広大な山林のほぼ全ては、明治末期、大規模な水害に見舞われた山梨県へ皇室から救済として下賜された元御料林という歴史を持つ。かつて皇室が県民の苦難に寄り添い託した山々が、半世紀近い沈黙を破り、林道の開通によっていよいよ“国民の富源”として目覚めようとする――。その新生する姿を直接その目で見届け、地域の行く末を慈しみたいというお心が、陛下をこの峻険な山岳地帯へと向かわせたのかもしれない。



そんなことを真摯に考えながらも、時間の限りがある私の視線は、すぐに正面の展望からは逸れ、向かって左のアザミ沢の際に舞台石の如き大岩が並ぶ一角へ。

この柵の向こうの崖の縁に突出している大岩の上が、私の欲する最良の展望台であることに疑いはなく、恐る恐る登頂する。



私の視線は今から、この地の歴史における最も過酷な“苦闘”の跡が刻まれた、観音経の中枢へ向く。

(この先、対岸の光景ながらも過度の険しさあるため、閲覧注意)




対岸写真 I

人類未踏(人工物だけど)の“隧道B”が、ちょうど真っ正面にあった。

写真の左端が私の限界の地点(2017年)であるが、その先で路盤が明確に途切れている地点の傍までは、『トワイラ〜』の竹内氏(1997年)や『森林鉄道・林用軌道』の秦野氏(2005年)が到達している。
でもその先の路盤が明確に途切れている範囲は、こうして対岸から見ても全く取付く島もなく途切れているので不踏である。

ちなみに、この欠落部を軌道がどうやって通過していたという記録はない。
状況的に、長い桟橋があったか、あるいは片洞門であったところが周囲の岩盤ごと崩壊してしまったかのどちらかだろうが、仮に前者の場合、橋脚をどうやって支えていたのかという疑問もある。いわゆる“蜀の桟道”形式だろうか……。

いずれにしても、この場所の施工は至難を極めたはずで、工事中にどれだけ人が死んだのか想像するだけで恐ろしい。絶対に死んでるだろう。乱暴だけど。



同じ被写体を、高さ感を伝える為の縦画像にした。

観音経渓谷の絶壁の高さだが、この見えているあたりで軌道から谷底まで70〜80m、軌道から上部の樹林帯斜面まで100m前後。
あわせて200mに迫る高さを有する一部オーバーハングした絶壁の中腹を軌道は横切っている。
特に、軌道の30mほど下を横断する長大なオーバーハング帯があり、常人を寄せ付けないどころか、見るだけで、よだつ、毛が。

ちなみに、こんな凄まじき景色に与えられた観音経なる地名の由来はこれに(↓)。

観音経渓谷

アザミ沢付近の渓谷を「観音経渓谷」と呼んでいるが、その名称については、次のような由来が伝えられている。
武田の家臣名取将監長信が、主君武田信玄の忌避にふれ、浪人となって芦安村の大曽利部落に居住し、日頃弓矢を持って狩りをして生計を立てていた。ある日の夕刻アザミ沢の中尾根に大鹿を見つけ、追い廻してついに射止めたが、その時すでに夜となり洞窟の中で一夜を過ごしたが、まんじりともせず夜中観音経を唱えて九死に一生を得たという。それから村人はこの渓谷に入るときは観音経を唱えて難所を通行したことが、「観音経渓谷」の地名の由来という。

『芦安村誌』より

やっぱりお経じゃねーか! もろに死の連想そのものの由来で、草も生えない。
シカを深追いした名取さんが宿った洞窟とやらが、昭和18年に開通した“隧道B”なのかも知れず、あるいはあそこにも午前中に見た隧道みたいに、【寝袋が棄てて】あるやも知れぬ。武田印の寝袋が!(冗談です)
つうか、いくら伝説だとしても、この斜面でシカを追いかけていたって話が既にヤバいんだよ!



“隧道B”不達の西口、遠望写真。

夢の中でのみ何度も私が彷徨っている隧道だが、実際は貫通しているのか不明。

長さは30mくらいだと思う。

坑口付近は天然のオーバーハングと重なっているらしく、凄まじい凹み方をしている。頭がおかしい。ここに路盤を通すとか。




対岸写真 II

視線をそのまま右にずらして、起点方向(西方向)の軌道跡を観察している。

この範囲では、“隧道B”の西口に始まる見事なコの字型の片洞門が、一段と谷底との比高を増やしていく垂崖を真一文字に横断していくが、

途中にはまたしても、巨大な欠落区間が待ち受けている。

そのため、将来万が一起点側からこの場所へ辿り着けるルートが発見されたとしても、やはり“隧道B”までは到達が出来ないと考えられる。

したがって、敢えてこの間を名付けるならば、絶対不踏領域。 ……悔しいが、手も足もでんでん虫。



この画像は、先写真の中央付近の望遠写真だ。

2ヶ所の崩壊地が見えており、中でも左の崩壊地は一見して突破不可能。迂回路も存在しない立地であることが分かる。

右の崩壊地でさえ、いかにも滑りやすそうな草付きしか残っておらず、おそらく目前にしても戦意は奮うまい。



左の崩壊地をさらにズームした画像だが、路盤上にレールが残っていることが分かる。

まあ、午前中の探索に照らしても、ここに残っているのは想定の範囲内だが。

しかしこのレールの破壊的な“切れ方”を見る限り、自重で自然に落ちたというよりは、頭上からの崩落に巻き込まれた公算が大だろう。



対岸写真 I + II

御野立所にある私の立つ岩から一望可能な路盤をパノラマで撮影した。

ここまで惜しくもなく「無理」だと、諦めは付く。

そういう意味では、優しい景色。

この写真の左端から右端までは全て未踏区間であり、この範囲だけで150mくらいある。

そして、ここからは見えていない未踏区間が、この西側(右側)にあと200mくらいあるが、そこを臨むには私が移動する必要がある。



さらに視線を下流へ移して……

“隧道C”の尾根が、あそこに見える。

であるからして、あの尾根の向こう側へ、まだしばし進んだ先が、私のもう一端の“到達地点”である。

私なりには頑張ったつもりではあるが、アザミ沢左岸にはまったく歯が立たなかったというのが実態だ。



14:54

御野立所の“ヨッキお立台”を下りて、こちらもいちおうは同じ軌道跡である林道へ。

対岸ばかり見ていると、勝者が勝者ではなくなってくるような厭な感触がするので、次回は少し踏破もして、成果を上げて、意気を軒昂させたいところ。


14:55 終点目指して再出発!



 林道化しても隠しきれない、軌道の“痕”


14:55 《現在地》

日没時刻の3時間20分前、観音経御野立所跡を終点深沢を目指し出発した。

ここから先はいよいよ、この南アルプス林道(元・野呂川林道)が、軌道跡である。
“道路化した軌道跡”というのは、林鉄探索ではとてもありふれた光景であると共に、探索的な意味での成果の乏しさが予想できる残念な状況といえるものだが、私の早川林鉄探索に限っては、ここまで辿り着く道のりがあまりにも遠大で、困難であったために、このような安全な舗装路を以て終点までの探索を進められることがただただ嬉しく、感激を覚えた。

ここまで辿り着いたことで獲得したこの役得、しっかり行使させていただきますよ!!



そうだ、これが軌道跡だ。

何の変哲もない……などとはとても言えない、日本屈指の壮絶なる難工事を克服して完成した林道である。
この林道の難工事ぶりについては、後ほどまた語る機会は設けるが、その一部区間には前身となった軌道が存在した事実は、あまり知られていないし、語られていない。もちろん、その軌道というのが、たった3年しか存続しなかった早川林鉄だ。

例えばこの写真の場面だって、軌道だった時代はどれほど狭く、細く、危機に満ちていただろうかと考えてしまう。なにせ私の見る目は、いまや軌道基準である。
先ほどまでの純然たる軌道跡なら、このような場所を通過するときにどれほど恐ろしかったかを、よく知っている。

基本的に林道化区間の軌道跡は、林道の路面や擁壁や法面によって上書きされて跡形がなくなっている。
だがそれでも、軌道跡であることを常に物語る、目立たないが、確固たる名残がある。 道路の勾配 である。
次の図を見て欲しい。


この図は、旧野呂川林道のうち夜叉神峠登山口(今朝の出発地点)から終点広河原まで約14kmの勾配表である。

距離の長さや地形の険しさの割にアップダウンは控えめだが、このうち観音経から深沢尾根までの約5kmだけは、1kmで30mというほぼ一定のペースで登り続ける。この区間こそが早川林鉄の跡である!
手押し軌道であったがゆえに、終点から起点にむかって安定した下り勾配を必要としていたことの名残が、この区間の安定した3%勾配となって、勾配図上に鮮明な“軌道跡らしさ”を描き出しているのは、とても面白いと思う。



対岸写真 III

さて、話を対岸に移す。
同地点の路肩からは、御野立所跡からは見えなかった“隧道C”の東口付近が正面に遠望可能だ。
この隧道は、私自身では未だ視認できていないが、存在自体は『トワイラ〜』や秦野氏のレポートで認識していたものなので、通算13本目とカウントしよう。

ちょうどこの“隧道C”のある尾根は、樹木が見られないレベルで異常に切り立っている観音経核心部の西端であり、尾根の東側はそれなりに樹木がある……、私などは歩けないほどに険しくともまだ穏当な地形である。
したがって“隧道C”こそは、この最凶の不踏領域へ常人が辿り着きうる唯一の出入口になっていたはずだが……、残念なことに、平成17(2005)年の時点で完全に内部が閉塞していることを秦野氏が報告している。



さらに同地点から視線を西へ向けると、ようやく、私が歩いたことのある場所が見えた。

私が越えた、カレイ沢とアザミ沢の分水尾根が、見えている。
あの尾根を、こちら側へ越えて、ほんの少し歩いたところが、私の最終到達地点である。
道は見えないが、だいたいあの辺だろうという場所は、ここからも分かる。

数字としてはたかだか350mほどの未踏破区間だが、その間にあるものをつぶさに見れば見るほどに、完全踏破がどれほどの無理ゲーであるかが分かる。



さて今度はズーム撮影だ。
前の写真の“×印”の辺りをズームして撮った。

見ての通り、ここも酷く崩れている。
前回の対岸写真 IIに写っていたのとはまた別の崩壊地である。
やはりレールが垂れており、どうにもならない地形である。
何らかの手段で“隧道C”を突破出来ても、ここを越えることはできないだろう。



こちらは、“隧道C”の東口附近のズームである。

秦野氏が西口から洞内へと探索を進めたこの隧道であるが、内部で閉塞していたというのも道理で、東口があったとみられる場所は、ご覧のように物凄い規模のガレ場によって埋没している。
このガレ場は、尾根から谷底まで落差200mを越える規模があり、隧道にとっては致命的……。

この地の自然は、人が作り上げた労作にどれほどの無体を強いるのものかと、嘆息を禁じえない。
が、実際は不運や不条理といえるようなことは全くなく、そもそもの挑戦に無茶があったのだろう。
観音経の核心部を、短い数本の隧道と片洞門だけで通過しようという計画は、無理がありすぎた。
野呂川林道がそうしたように、長いトンネルで完全スルーを決め込むのが鉄則だったと思う。




15:01 《現在地》

御野立所から200m弱進むと、アザミ沢の支流を渡る大きな橋が現われた。夫婦橋という。
この橋は明らかに軌道時代のものではないが、それどころか野呂川林道としても初代の橋ではない。これは2代目の林道橋である。



同橋から橋の名前になっている滝を眺めると、同時に1本の廃橋が見える。
滝の手前に架かるこのコンクリート橋が、初代の林道橋である。
軌道跡をなぞっていたのは、この林道の旧道である。
見たところ、やはり林道化によって軌道の痕跡は失われているようである。

本来なら旧道を辿ってみたかったが、ここは時間と体力の残りを考え、現道からの観察だけで終了とした。
どうにか明るい時間内に終点を確かめたいのだ。こんなに頑張ったのに、終点だけ暗くて撮影出来ないとか目も当てられないだろう。
いずれ再訪してちゃんと確認するかも知れないが、今日は許してくれ!



15:03

夫婦橋を渡り終えると、直ちに旧林道、すなわち軌道跡とも合流し、その先にはすぐに、トンネルが待ち受けている。
野呂川林道時代に3号隧道と呼ばれていたものだと思うが、現地には銘板などがないために、正確なところは不明である。

そしてこのトンネルの外に……



軌道跡再び!

しかし、驚かされたのは、その高さだ。

林道の路面と同じ高さにあるものと思っていたら、違っていた。

林道より3m以上は高い位置にあるではないか!!



この現状から少し前の場面を振り返って見ると、林道トンネル前にある片洞門の天井の一部は、明らかに軌道時代の片洞門に由来したものだったことが分かる。

チェンジ後の画像はさらに引いたアングルであるが、軌道の路盤の高さは“点線の位置”にあったはずだ。
ここでは既に3m近い高低差があるが、【350mくらい前】では1m弱だったし、【400mくらい前】では同一高度にあった。
この間、軌道は林道よりも少しだけハイペースで登り続けていたことが分かる。



改めて、3号隧道の起点側坑口であるが、ここから軌道跡へのアプローチは困難だ。
坑口脇の岩場を素手で攀じ登るのは大変そうである。
いったんトンネルを潜り、反対側から回り込むことにした。

なお、この隧道の坑門には扁額を嵌める凹みがあるが、扁額はない。
脱落してしまったのか、設計に反して扁額を設置しなかったのかは定かではない。



全長50mほどの3号隧道の内部は直線だが、明らかにそれまでの地上の道よりも急坂である。軌道跡に少しでも追いつこうとしているのが分かって、なんだか可愛かった。
そしてこのトンネルを出た先には、同じ直線上により短い4号隧道が待ち受けている。

だが、4号隧道へ行く前に、さっき見送った軌道跡を背撃する。

そしてその結果、想定外の凄まじい景色に出会う!



15:05

おそらく周辺の法面と共に後年の改築を受けている3号隧道の終点側坑口。
トンネルの外周斜面を回り込んできた軌道跡の平場が、やはり路面よりも3mほど上に見えたので、攀じ登って突入した。
幸い、こちら側から攀じ登るのは難しくない。

実際に踏み込んでも、イマイチ痕跡が乏しく、レールなどもないため半信半疑になりかけたが、信じて進んでいくと……。



ほんの2時間前まで散々に歩いた憶えのある、崖際の細々とした平場が現れ始め……

それは間もなく、この2日間を通じて最も美しい、“アレ”になった。




最も美しい“片洞門”。


少なくとも、遠望ではなく辿り着けたものでは、ここが最も整っていたと思う。


単純にコの字型の形が綺麗だと言うだけでなくて……




この軌道が、長き旅の果てに自力で辿り着いた、真の絶景と共にあった。


ここは、林道化によって失われてしまった、おそらく最も風光に恵まれていたであろう終盤の軌道風景がどのようなものであったかを体験させてくれる、奇跡のような場面だと私は感じた。

ありがとう。

この場面を想像に終わらせないでくれて、本当に、うれしい。