2007/3/6 15:39 《現在地》
旧道巡りが今回のテーマだが、分岐地点の近くに口を開けている現道のトンネルもチェックしていこうと思う。
なにせこいつらも、他の場所にあったら十分珍しがられるくらいの古参たちなのである。
これは現道トンネルの1/10番目の高崎隧道だ。
竣功は昭和24年で、全長119m、幅員は6mと記録されている。
まあ、一見したところ、「何の変哲もない」という常套句で一蹴され兼ねないトンネルである。
昭和の“大量生産型トンネル”(←こんな言葉はないが、いいたいことは分かると思う)の姿そのものであり、今日前半に沢山目にしてきたほとんど矩形に近いような無理矢理な断面でもないので、個性が乏しいように感じられる。
だが、このトンネルを侮ってはいけない!
実はこの坑門には、個性的なものが二つもある。
第一の個性。
下手な個性的な文字で書かれた扁額。
ツタが絡みついていて全体的に読みにくいことを差し引いても、現代人の目には(おそらく昭和20年代の通行人の目にも)かなり難解な文字である。
高崎隧道ということを知らなければ、この「高」や「道」は読めなかったと思う。
それにこの扁額には、今までの隧道には見られなかった「贅沢」がある。
何かといえば、隧道名の下に小さな文字で刻まれた、多くの文字である。
「昭和二十四年九月三十日竣功 関東地方建設局」と刻まれている。
竣工年まではそこそこ見られる内容だが、「関東地方建設局」というのは完全に「贅沢」である。
戦時中の隧道工事であれば、おそらくこの部分は許容されなかったのではないかと思う。
地味に“左書き”であることも、戦後の風を感じさせる。
しかし、この隧道に込められた「戦後らしさ」は、これに留まらなかった。
第二の個性。
何かが、スパンドレルに書かれている。
黄色いペンキと白いペンキの文字がある。
□の中に「13」と書いていたのだろうか?
そのように読めるが、昭和24年当時この道にあっただろうトンネルを木更津側からカウントすると、高崎隧道は14番目に相当する。
微妙に数字が近いので、もしかしたら通し番号が振ってあったりしたのであろうか。
うん。
このことも興味深いのであるが、より重要視したいのは、ペンキの数字の左上に取り付けられた小さなプレートである。
TAKASAKI
TUNNEL
おそらく初めて見た、英字による扁額。
これが当初からのものであるという証拠はないが、コンクリートの表面に埋め込まれた金属板にフォントを固定しているのである。
誰かがいたずらで取り付けたものとは考えられない。
また戦時中であれば、敵性語とされた英字をこんな場所に表示することはあり得なかっただろう。
このトンネルを設計(デザイン)した関係者は、戦後を象徴する意図を持ってこの“英字扁額”を取り付けたのだろうか。
それとも当時はGHQの支配下であり(撤収は昭和27年)、その事に絡む何らかの指令を受けたのだろうか。
侮り難し… 高崎隧道。
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高崎隧道には入らず、その脇にあるガードレールで車止めを施された旧国道に入った。
封鎖されているから廃道なのかと思ったのも束の間で、歩行者は普通に通っているらしく、荒れた様子は全くない。
海岸線にあるトンネルの旧道であり、そこを進めば必然的に海の縁へ近付いていく。
浦賀水道の水平線が前方に見えてきた。
読者さまの情報によると、20年ほど前まではこの旧道こそ小浦集落への進入路であったが、高崎隧道の坑口前で現道にぶつかることから危険が大きく、隧道から少し離れた所で分岐する新道に役目を譲って(車道としては)退役したそうだ。
確かにこの旧道の一段下に、まだ新しい2車線の道路が平行していた。
そして最初のカーブを曲がると、慎ましやかな小湾を抱く小浦の集落と漁港が眼前に広がった。
集落の背後の山並みは決して高すぎることは無いが、急峻であることは一目で見て取れた。
こういう地形にこそ、隧道が役立つのだ。
これから始まる隧道連続地帯は、こういう地形だからこそ100年を下らぬ歴史を有するのだと思う。
旧道のアスファルトは前述した“新旧道”に邪魔されて一部剥がされていたが、古い地形図のルートをなぞるように進むと、小浦集落の中を通る旧道の続きへ辿りつく。
小浦集落の旧国道。
道の両側ギリギリまで軒が迫る、いかにも漁港町らしい風景である。屋根も瓦屋根が目立つ。
ここで突然だが、この正面に見えている山を越えてきた、ある旅人の話を挿入したい。
ネタもとは明治4年に相模の人である小川泰堂が記した房総旅行記『観海漫録』(富浦町誌)だ。
明治4年当時は、まだ旧国道も出来ておらず、それどころか木の根峠の隧道も存在しない。
房総西街道は内陸を大きく迂回するのが本道であり、小川泰堂は何を思ったか、急がば回れを忘れて最短距離の南無谷道を通ろうとした。しかも南無谷の村長宅で酒をかっ食らっている。
旅の順路は私とは反対なのだが、正面の山にあった古道を這々の体で乗り越え小浦へと下りてくる場面が、大変傑作だ。
坂にもあらず。路にもあらず。ただに水なき滝筋を下るが如し。かけ崩れたる角ある大小の石、磊砢磊砢(がらがらごろごろ)として、足の踏処もなく、其の難苦一方ならず。われ声高に、「此の海岸の村々を見るに、石垣を高くし、家蔵を白壁にして、いかめしく門戸を立てたるもの多し。何ぞ其の家作の費えの半を分ちて、此の途を造らざるや。」
あまりの悪路に彼は辟易し、大声で放言をしたのである。家構えに費やすお金の半分でもいいから道路を整備したらいいのに、と。
だが、彼の放言を聞いている者がいた。
散々に罵り罵り下るに、我が後より苅麦を背負いたる村婦の下り来て、「客衆よ、さ宣うな(そうおっしゃるな)。此の浦々には村の隔(さかい)にかかる坂ある故に、昔より盗人の憂なく、家に戸鎖(とざし)なく、錠鍵を用いず。枕を高くして眠ること、ただ此の坂の庇蔭(おかげ)なり。かかる山坂も馴れては平地に変る事なし。初めて通り給はん者は、さこそ難儀なるべけれ。ゆるやかに下り給へ。」と言いたしなめて行き過ぎたり。
旅人の放言は、これより20余年の後に、時代の趨勢のもとで現実の景色となる。
しかしそれは、果してこの村人にとっても幸せであったのかどうか。
そういうことを考えさせられる、古くて新しい物語りだと思ったので、少々脱線したが長い引用を行なってみた。
さて、“戸鎖ある”街角を進もう。
さきほどから、集落の背後にただならぬ存在感のあるカベが見えている。
津波対策の防潮堤にしてはいくら何でも大袈裟だし、カベのこちら側に集落があっては本末転倒だ。
よくよく目を凝らしてその正体を知ったとき、私は二度驚いた。
あれは国道と鉄道が並んで通る、巨大築堤か!
鉄道が築堤の“てっぺん”を通り、“中腹”を国道が通っている。
良い具合にシェアしているが、同時に施工されたものではない。
内房線のこの辺りは大正7年に木更津線として開業しており、現国道が戦後の昭和25年頃に開通するだいぶ前から存在している。
全国的にあまりこういう築堤のシェアを見ない気がするのは、どうしてだろうか。
ともかく小浦集落は巨大築堤に見下ろされている。
地形図には描かれていない脇道へ、ちょっと寄り道してみた。
集落内で旧国道から左へ分かれる道を取ると、すぐに私が期待したものが現れた。
件の巨大築堤をくぐる地下道である。
つか、見た目はもうまるでトンネルだ。
一応は車の通行も出来るようだが(軽トラサイズの轍有り)、普通車だと曲がりきれるか? あの坑口前のカーブ。
ワクワクしながら、坑口前へ。 一歩前へ!
15:43 《現在地》
こっ、コイツはッ!
地下道っていうか、隧道だろ!
いや、地下道なのは間違いないんだが、半端なく長い。
そして、暗くて低くて狭い。
こうした築堤をくぐる地下道といえば、四角い断面のボックスカルバートが用いられるのが常であるが、ここは土被りが並のトンネル同然に大きいせいか、地圧に対して堅牢なアーチ断面の地下道となっている。
予想外に凄いものを、見た。
自転車でも、頭頂部がむず痒くなるくらい、天井は近くにある。
地図で計ってみたら、この地下道の長さは80〜90mくらいある。
房総ではいっぱしのトンネルとして恥ずかしくない長さである。
さら〜に!
煉瓦った〜!!
あんまり綺麗なもんだから、一瞬「飾りのタイル煉瓦?」かと疑ったが、
これはガチモンの煉瓦だったから、嬉しいじゃあーりませんか。
ちょうど地下道の鉄道側が煉瓦造りなのも、築堤や地下道が
国道の開通によって延伸されている事を物語っているように思う。
内房線の多くの隧道は、現在も煉瓦造りの姿を留めている。
1枚巻きか!
(ん?! よく見りゃ2枚巻きか? )
しかも微妙にアーチリングが歪んでいる気が…。
ちなみに、側壁は場所打ちコンクリートであったが、
これは後補のものかも知れない。
どちらにせよ、煉瓦道路トンネルごちそうさまでした!
これが、築堤?!
間違いなくこの上には内房線の線路が敷かれている。地図もそう描いている。
異常に急傾斜なうえ、美観もへったくれもないコンクリート吹付けの圧迫感が、半端ない。
現代だったら、集落を分断(といっても、こちら側にはあまり家はないが)するような築堤には住民が反対し、
長い橋を架けて横断するか、あるいは集落を迂回するように作られると思うが…。
やっぱり昔の道路や鉄道は、強権的であったと思う。
旧国道へ戻って、先を急ぐ。
いよいよ道が狭くなってきたが、イケルよね?
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