国道127号 旧道及び隧道群 南無谷崎編 第3回(3−3)

所在地 千葉県南房総市
公開日 2013.02.09
探索日 2007.03.06

扁額が楽しい、現国道の隧道2本


2007/3/6 15:48 《現在地》

埋め立てられた漁港の周辺を除いては、平地が少しもない小浦集落の山手に沿って旧国道は通じている。
うねうねとカーブしており、道幅も1車線と少ししかない。

そんな道を進んでいくと、また1本の脇道が分岐していた。
脇道の先を見ると、一段高いところを通る現国道に通じているのが見えたので、再び寄り道することにした。
現国道のトンネルも出来るだけ逃さず味わいたいのである。

写真はこの脇道から旧国道を振り返ったもので、小浦集落の向こうには東京湾の入口にあたる浦賀水道の海が広がっている。
安房勝山沖に浮かぶ、浦賀水道最大の自然島である浮島も見えており、私がまだ見ぬ瀬戸内の海とはこのような感じなのではないかという感想を持った。

また、木更津の街を漕ぎ出してからまだ一日も経っていないが、随分と遠くへ来たものだと言う風にも思った。



現国道に出てみると、そこはまさにトンネル好きにとって垂涎のシチュエーション!

←左を見ても、

右を見ても→

古隧道では御座いませんか!

どっちも昭和24年生まれの短小隧道だが、どちらから観察しようかな。



ここは順番通り、左の隧道から見ていこう。
これは前回見た高崎隧道の次番にあたる2/10本目の隧道で、奥ヶ谷隧道という。長さは44mしかなく、洞内照明も持たないが、全長20m台や30m台が決して珍しくない国道127号の隧道の中では、これでも中堅的な規模である。

注目の坑門の意匠については、高崎隧道とそっくりである。
ただし、高崎隧道の北口にあった「英字扁額」や「塗料の文字」は、この奥ヶ谷隧道南口には見あたらない。もしかしたら各隧道の北口にだけ設置されているのかも知れないが、確認し忘れてしまった。

それにしても、坑門の壁面(スパンドレル)のコンクリートの練り方が妙に雑な気がする。
骨材である砂利の分布が不均質で、ダマになっている部分が目立つのだ。
戦後間もない施工で、材料や技術者に恵まれなかったのだろうか。



そして“お楽しみ”の扁額であるが、

おくがやずゐどう

とある。
流麗なひらがなであるが、「お」が見たことのない字体になっている。
また「ずいどう」ではなく「ずゐどう」と旧仮名遣いを用いている。
(しかし、「ずいどう」の「い」が本来「ゐ」と書くべきなのかは未確認)
ちなみにこの隧道が建設される前の昭和21年に内閣は「現代かなづかい」を公布しており、完成当初から既に「古風」なものだった事になる。

なお、高崎隧道は未確認だが、一連の隧道は北口に漢字の銘板を、南口にはひらがなの銘板を設置するルールになっているようだ。
こうした漢字と平仮名の使い分けは橋の親柱に設置されている銘板にも通じるが、隧道の場合は全国的に普及はしておらず、“隧道王国”千葉県内で比較的多く見られるに留まっている。



次は右側にある隧道で、名前は南ヶ谷隧道である。

こちらの坑門は城山隧道よろしく化粧板があてられており、本来の姿は銘板以外分からなくなっている。
従って、英字銘板やペンキの文字があったのかも不明だ。

銘板の文字は高崎隧道の場合と同じくくずし字になっていて、相変わらず「道」の字の簡略ぶりがもの凄い。
またこの隧道の長さは31mしかなく、一連の10本中でも3番目に短い。




寄り道がまた止まらなくなってきているが(苦笑)、この短い南ヶ谷隧道をくぐって南口へ来てみた。

そして振り返ると、これがなかなか良い眺め。
毎日ここを通行する数千ないし数万のドライバーが、この眺めに胸をときめかせているのかと思うと、なんか私まで嬉しくなってきた。(道路に興味がない人だって、この眺めには少しだけ胸がときめくはず。絶対にそうだ。)

ちなみにこの南ヶ谷隧道の南口の銘板も平仮名で「みなみがやずゐどう」と、やや弾むような配置でたくさんの文字を並べていた。




さらに南ヶ谷隧道の海側の路肩に立つと、ご覧のような良い景色を拝むことが出来る。

言うまでもなく、下に並行して見える道路は旧国道である。

小刻みに湾入した内房の海岸線が美しい。

今頃、東京は雨だろうか?




寄り道はまだ終らない。

同じ地点で国道を横断して今度は山手に目を向けると、そこには「びわ直売所」の建物群が並んでいる。
あまり知られていないかも知れないが、旧富山町や旧富浦町は日本有数のびわの産地であり、南無谷ビワは江戸時代から生産されている、年季の入った特産品である。
ただし今はびわのシーズンではないので、全くの無人であった。

で、このびわ直売所の裏手に潜り込んでみると……(完全に寄り道)。




そこには小川が流れておりまして、小川を跨ぐ内房線の小さなガードが御座います。

ガード下には小川だけでなく、人が通れるスペースも御座いますので、これを辿って道なりに山手へ潜り込みますと…


あら、びっくり!




15:53 《現在地》

怪しげな廃隧道が、
ぽっかりと口を開けているではありませんか!

これは旧国道ですか?

いいえ、違います。

この廃隧道の正体は内房線の旧線で御座いまして、名前は「南無谷隧道」と申します。
廃止されたのは大正15年(当時は国鉄北条線といった)ですが、廃止のきっかけは大正12年の関東大震災による崩壊で、応急的に修復されたものの、抜本的な安全対策として隣接地に現在の岩富隧道が掘り直された経緯があります。
したがって、大正7年に木更津線として開通してから、たった8年で廃止された、もののあはれを感じさせる廃隧道なので御座いますよ。



あれあれ。

これは明らかにワルニャンが、何かをなそうとした痕跡ではありませぬか?

坑口前の土山には、洞内より伸びる一条の溝が、まだ生々しい感じで存在しております。

むむむ。 む?

見えますぞ、なにやらこの場所で土木作業という名のワルニャン活動に勤しむ、4名の男女が見えます。
ト●さん、謎の●自衛官さん、●ぃちゃんさんっぽいですね〜。
カメラを構えているのは、…まあ、誰でも良いではありませぬか?

私が探索するちょうど2ヶ月前に、こんなワルたちに弄ばれた南無谷隧道ですが、内部はというと……。




ワルたちのワル知恵も及ばなかったらしく、相変わらず腰丈以上の水位でどっぷりと水没しておりました。

この隧道は全長が736mもありますが、本来は直線で御座います。
しかし、全く出口の光は見えませぬ。
見えぬにはわけがあるので御座います。

…もちろん、どっぷりと探索をして御座いますが、これについては別に稿をしたためましたるゆえ、『廃線跡の記録2』を読んで下さいまし。

今回はあくまでも「寄り道」&「ご機嫌伺い」であったよし、これにて旧国道に戻りまする。




旧国道に戻って道なりに走ると、やがて現国道に合流した。
合流地点は前述したびわ直売所のすぐ南側である。

これで小浦集落の旧道は終了だが、合流地点からは既に国道の4本目の隧道が見えていた。

ここでは旧道と現道が一つになって、この4本目の隧道を抜けるようだ。




否!

隧道の目前にて、一条の薄暗き小径が、離反する。

その薄暗き行く末に、小さき穴が見えていた!

遂に旧道の隧道が、出現した。




ちょっと待って。
ここでも現隧道を先にチェックしておこう。

掘割りの奥にある4本目の隧道は、小浦隧道であった。
坑門が全体的に苔むしており、緑がかって見える。
また、写真だとまるでアーチリングがあるように見えると思うが、これは意匠ではなく、後補の防護ネットである。
黒い網目のあるプラスチックのネットが、坑口から内壁に向けてぐるりと設置されていた。

記録によると、小浦隧道の竣功は昭和25年で、全長はぴったり100mである。
また現地では意識しなかったが、写真を見返してみると、この小浦隧道の北口にも高崎隧道北口で見たものと同じ英字銘板が存在しており、「KOURA TUNNEL」と読めた。





旧小浦隧道



16:01 《現在地》

旧明鐘隧道以来、約1時間半(約10km)ぶりに遭遇する国道127号の旧隧道である。

そして南無谷崎区間にある旧隧道群の筆頭を飾る存在だ。

例によって正式な名称は分からないので旧小浦隧道ということにするが、
外見的にはこれまで何度も見てきた泥岩質の岩盤を穿つ素堀隧道である。
意匠と呼べるようなものは全く見られない。



自転車に跨って洞内に侵入する(封鎖されてはいない)と、奇妙な光景に出会った。

洞床に杉の丸太で橋のようなものが築かれていたのである。

洞床は凸凹しており、以前は水没していたのかも知れない。
だとすれば、この丸太橋は水没隧道を通るための人道橋という事なのか。
敢えてそこまでして通りたいと思った、その心境に迫りたいところだが、水没云々は想像であり、何とも言えない。
ここにも水没廃隧道に挑んだワルニャンがいたのだろうか。




この隧道が廃隧道であるかどうかは、微妙なところである。
道路としてはもう一部の愛好者が通っているだけだと思うが、生きた電線が通じているのである。
従ってまだ役目を終えた隧道とは言い切れない。

これまで見てきた旧隧道の中では最長クラスに長く、おそらく80mくらあると思われる。
また、鉄道の隧道のように天井が高いのも特徴で、これまで出会った旧隧道の多くが天井の低い四角い形をしていたのとは違いが見られる。
明治30年頃に貫通したことが明らかになっているが、当初からこのサイズであったとすれば、少々不思議である。




洞奥付近の天井は、このようにとても手が届かない高さである。5mはあるだろう。

また、そこには人が鑿で削ったような痕跡が全く見られない。

高すぎる天井の正体は、自然に天井から崩れ落ちてきた土砂を片付けているうちに、次第に天井が高くなってしまったのではないかと思ったが、全てがそうというわけではなく、元々縦に長い断面だったとは思う。




なぜなら、辿りついた南口の断面は明らかに人の手で整形されたであろう美しいアーチ型をしているのに、天井の高さは相変わらずだったからである。

この隧道には、何か背の高い荷を運ぶ特別な用途があったのか。
例えば祭のミコシが通ったとか…。

歴史ある国道の旧隧道でありながら、国道127号の場合はその数が多すぎるせいか、個々の隧道の建設譚のようなものがあまり聞こえてこない。
時代が古すぎる事もあるかも知れないが、今後の新情報の発掘に期待したい。




16:05 《現在地》

思いがけなかったのは、旧小浦隧道を出た先が現役の道路だったことだ。
そこには弁天鉱泉という保養施設があり、その敷地の一角に出て来たのである。

そして振り返れば、素掘にしては異常にアーチが美しい坑門。

皆様は見覚えがないだろうか?




『富山町誌』より転載。

これと似ている。→

右の写真は『富山町誌』に「明治31年の富浦・岩井新道」として掲載されていたものである。

こんなに綺麗なアーチ型の素掘断面の隧道は珍しいと思う。

だが、よくよく見ると、ここではないという気もする。
隧道の左右の地形が、符合しない感じがする。
右の写真は左山右谷の地形を思わせるが、左の写真は右側に山の法面がある。

やはりここではないのか。
だとすれば、一連の旧隧道群にはこのような綺麗なアーチ型に整形された素堀隧道が、複数存在していたという事になる。

また、天井の高さも左右の隧道で符合しない。
しかしこれについては、後年に路盤を掘り下げたという可能性があり、隧道同定の決め手にはならない。
だがこの考察も無駄ではなく、一連の旧隧道群の天井の高さは、当初はもっと低かったという可能性を示唆している。




弁天鉱泉の敷地に取り込まれてしまった旧道から一旦現国道に迂回して、

国道127号最長(自専道区間除く)を誇る「岩富隧道」に舞台を移そう!