廃線レポート 千頭森林鉄道 奥地攻略作戦 第18回

公開日 2019.05.05
探索日 2010.05.05
所在地 静岡県川根本町

39.4km付近 千頭大“凶”谷への入り口


2010/5/5 13:37 《現在地》

古タイヤが転がっていた谷を乗り越えて、対岸の路盤にたどり着いた。
そこにはコンクリート製の橋台が、ガレた斜面から半分だけ露出していた。

橋台にある橋桁を載せる部分を調べることで、失われた橋桁の材質や構造を知る手掛かりを得られることがあるが、本橋の場合、トラスではない単純な桁橋だったことは分かるものの、材質の判断は出来なかった。
ただ、架設および廃止の時期を考えると、木橋だった可能性が高いと思う。

千頭林鉄に現存している橋は、大半が鋼プレートガーダーで、一部に鋼アイビーム橋や鋼トラス橋が確認されている。木橋の現存は確認されていない。
いくつかの鋼橋で見つけた製造銘板から、昭和30年代初頭に主だった橋を鋼橋に架け替える改良が行われたとみられている。それ以前は多くの木橋があったと推測されるが、昭和20年代に廃止された栃沢以奥には、もともと木橋しかなかった可能性が高い。したがって、その現存を期待することは難しい。



続きはこれだ。

ここを歩いていかねばならない。

一目瞭然で、状況は良くない。
もともとは結構幅の広い路盤だったと思うが、大量の落石に埋もれていて、平らなところがまるでない。どこを歩いても瓦礫の山で、踏み固められた場所がなく、そのうえ全体が滑りやすい落ち葉にコーティングされている。
実際に歩いてみれば、誰もが面倒さに顔をしかめたくなるだろう、うんざりするような路盤状況だった。
崖のような分かり易い難所!スリル!ではないが、地味に辛い陰険な難しさだ。




13:39
谷を越え橋台に辿り着いた、わずか2分後――

また来やがった。

クレバスのような谷。
さっきの谷よりもさらに険しく見える。水量もやや多く、まるで滝だ!
先へ進むには、滝の中段を越えていくような感じになる。

これは良くない。
ここ自体は、どうにか越せそうに見えたが、展開が不安すぎる。
林道が上部に現われてから(実際に林道を目視したわけではないが間違いあるまい)急激に状況が悪くなったのだが、悪くなり方が度を超してしまっている気がする。



もっとも、実を言えば、こういう悪い状況もあろうかとは思っていた。
千頭山の険悪な地形に、昭和20年代の先行廃止という悪条件が重なれば……、こういう展開が待ち受けていようことは、先行廃止ではない区間を歩いているときから恐れていたのだ。
事実、栃沢を過ぎた直後には、こういう状況が現実に現われたと感じ、これは踏破は無理かも知れないと思ったのだ。
だが、その後はなぜか状況が良くなり、こうして2.5km余りを無事に前進できたのだが……

遂に、とうとう、今度こそ、年貢の納め時ということなのかもしれない……。

とりあえず、水が流れている底へ下りてみた。
正面の岩場をよじ登れば、次の路盤に辿り着ける。
進めないことはないと感じるが、もし同じ所を戻らなければならなくなったら、とても怖そうだ。それに、もし進んだ先もこんな状況が続くなら……、死地に迷い込むというのは、こういうところからかもしれない……。

どうすべきだろう?

引き返すというのは、これ以上の前進を諦めたときに下す最後の決断であり、まずは寸又川の河床に下りて迂回しつつ、この悪場を突破することを検討した。

しかし、滝に入り込んでいる現状では、ここを下りるのも容易ではなさそうだ。
下りてさえしまえば、その下の河床は広く川原も見えるので、問題なく歩けそうだったが…。

試行錯誤と口で言うは容易いが、体力的にも時間的にも、現実でそれをするには限りがある。その限りが、今はとても近くにあると感じられる。ひとことで言えば、余裕がない。この探索の成り行きはは、簡単に触れるべきではない自分の限界というものに、近づいているのだろう。

ここで降りるか、少し戻ってから改めて降りるか、降りずにここをよじ登って進むのか、選択肢は三つ。

どれを選ぶか。




13:42

選んだのは、正面突破!
進める余地があるならば進もうという、いかにも私らしい選択をした。

だが、苦労して路盤に這い上がってみても、状況が好転している様子はなかった。
これまで大概の場所で見られたケモノたちの足跡(だいたいはシカの足跡)さえ見当たらないことにも、ここを道とする一縷の望みが絶たれたような気持ちがした。

物理的には、まだ進める。
進めるものの、今のようなペースで難所が現われるようだと、本当にキツい。
もう少しだけ穏やかになってくれと心底願いながら、一様に斜面化してしまった軌道跡を慎重に前進する。もはやペースを上げる余力はあまりなかったから、慎重というか、たらたら進んだというのが正しいような気もするが…。




レールだ。

久々にレールを見つけた。
栃沢を出たすぐあとに見て以来だ。
路盤下の斜面に食い込んだようになっているが、長い一本もので、結構太い。
前回見たものと同じ、8〜9kg/mレールだと思う。
機関車による運材が行われていたのだろう。

先行廃止区間のこんなに奥地にも、まだレールがある。
こんな過酷な地形を制して、あるいは潜り抜けながら、ここまで林鉄が辿り着いていた証しである。
林鉄の有無を疑う余地はないが、それでもレールの現物には励まされた。




13:44 《現在地》


2分後。

何だよこれは。




桟橋が落ちてしまった深いクレバス。

本日3回目、昨日から通算4度目となる、正面突破の出来ない崩壊に行く手を遮られた。

栃沢までは大きな橋の大半が永久橋だったが、その有り難みが今になって痛感される状況だった。

無理。



絶対ヤバい……。

まずは目の前の谷が正面突破不可能だが、その先に見える路盤の行く手も死んでいた。
そこには猛烈な崩壊地に特有の白さと明るさが燦然としていた。
もうこれは当分、路盤への復帰を考えない方が良さそうだ。こんなもの、付き合いきれん!

これから川原へ下りるが、その後は路盤の状況改善が見通せるまで、大人しく川原を歩こうと思った。



来た道を戻る時間は惜しいし、直前の滝を戻りたくない。
ならばと、この路盤末端から振り返ったところにある最も手近な斜面に目星を付けた。
登ってくるのは難しい急傾斜だし、途中に手掛かりとなる草木が少ないのが怖いが、慎重に滑り降りればいけそうだ。

申し訳ないが、もうこの路盤は嫌である。少し距離を置こう。




13:48

最小の迂回で無傷で河床へ降り立つことに成功した。
これ以上落ちようがない、地面に足が付いている安心感に、思わず川原の石に腰を下ろしそうになったが、気安く休んでいる場合ではない。
本当に辛いと感じた時以外は、頑張って、進もう。

1時間ぶりの水辺には、相変わらず活きの良い流れがあった。
川幅は広いが、その分だけ浅いので徒渉はしやすい。
ザブザブと溯行して、上流へ。




川を歩きながら、迂回した落橋の跡を対岸に見上げて撮影した。

だがこのとき、私の心はここにあらずで、次の場面へ移っていた。

血液の沸騰するような興奮が私を支配していた。疲れた身体が湧いていた。

凄い景色が、この隣にあった。

それは、先ほど白く見えた場所だった。



ここからカメラを、左(上流方向)へ向けると――





横切る線は林鉄跡。


千頭林鉄の誰も知らない本線奥地は、こうなっていた。

この凶悪な峡谷は、起点から約40km遡ったところで、私を黙然と待ち構えていたのである。





(↓ この回、過去最悪の300mしか進んでない ↓)

釜ノ島(林道合流推定地点)まで あと2.2km

柴沢(牛馬道終点)まで あと4.7km



39.8km付近 峡壁の傷と化した軌道跡



2010/5/5 13:51 《現在地》

圧巻の大崖壁!

2日間にわたって寸又川を遡ってきたが、これまでで最大の崩壊地だ。

写真は、幅20mくらいある川の対岸に立って、出来るだけ全体像が見えるように撮影した(これ以上は離れられない)。
崩壊地の規模は、幅が100m以上、高さも見えている部分だけで100m以上はありそうだったが、上は霞んでよく見えない。
しかしこんな数字を並べてもピンと来ないだろう。誰が見ても「馬鹿でかい!」という感想以外出てこない景色と評したい。

いかにも硬質そうにゴツゴツしている崖の外見的特徴は、採石場にある人工的に削り取られた崖壁を彷彿とさせた。
崖面を横切るように2本の水平線も、採石場にある犬走りを思い出させ、人工物感に拍車をかけていた。
だが、ここは採石場とは違う。この景色にある人工物は、場違いな2本の水平線だけである。崖は違う。

崖を横切る2本線はこの風景の主役であり、下の線が軌道跡なのだが、もはや道の体を成していないことは一目瞭然だった。
このわずか100m手前まで、私が必死にかじりついてきた路盤の線きが、この絶望的な崩壊地だった。
このときばかりは文句なく、「あそこで降りて良かった」「すぐに上り直さなくて助かった」と、自分の選択に頷いた。



一方、軌道跡の上に見える水平線は、恐るべき不可思議の存在だ。

軌道跡より上にある平場といえば、真っ先に左岸林道が思い浮かぶが、地形図は林道を河床から160m付近の高所に描いており、この線はそれよりは遙かに低い位置に見える(低いといっても河床から50mはある)。
また、軌道跡よりも明らかに細い、歩道程度に見える線でしかない(辿れる可能性は軌道跡以上に皆無だ)。
というか、もしこれが左岸林道だったら、それを辿って帰るという私のプランは根本的に破綻している。

この謎の線、偶然そのように見える自然の地形という可能性もあるが、人工物だとしたら、正体は謎に包まれている。
考え得る可能性の一つは、林鉄の開設以前に使われていた古道だが、余りに人里から遠い土地のことで、現実感を持つことが出来ない。この山域は、戦時中の林鉄開削によってはじめて機械力の導入が可能になったはずだ。果たして人力でこのような道を切り開くことが出来るものか。

なお、前述した通り、私にとっては生還ルートとして「絶対にあってもらわねば困る」左岸林道だが、こんなに上まで見通せる場面にあってもなお見えなかった。
存在はしているはずだが、河床からの高さがありすぎるのと、斜面の傾斜の関係で、下からは見えないのだろう。きっと上部の緑っぽい領域を横断していると思う。
(左岸林道が通行不可能だと、“積み”になりかねないが、これについては、探索時の数年前に通過した登山者による「落石しているが柴沢(光岳登山口)まで通れた」という報告を見ていたので、そこまで心配はしていなかった)



真っ正面からのアングルは崖の傾斜が分かりにくいが、斜めからだとこの通り。

マジで半端ない。

いくら戦時中、木材の増産が須要であったにしても、ここを切り開いて奥地へ線路を延ばす仕事を要求された人は、
堪ったものではなかっただろう。実際、誰が工事に当たったのかというような内部の話は、全然伝わっていない。
探索当時は知らなかったが後日知ったというような情報も、これについては皆無で、開設と廃止の年しか分からない。

建設中、ここで何人死んでるんだろう。

こんな雑な言葉で問うべき事柄ではないのは分かるが、語られず忘れられてしまった死がありそうに思った。




13:52
大断崖を上に見送って進むと、路盤がある左岸斜面は樹木を取り戻した。
依然としてかなりの急傾斜ではあるが、よじ登ろうと思えば可能だろう。
ここで私には、早速二つの選択肢があった。
すぐに路盤に復帰するか、このまま河床を歩き続けるか。

これは悩ましい問題だった。
通常の探索中ならば、まず間違いなく前者を選んだはずだ。すぐ路盤へ復帰し、少しでも長く林鉄を歩こうとしただろう。
だが、いまの自分の体力的な疲弊や、復帰してもすぐにまた降りる羽目になった場合のいろいろなロスの大きさを考えると、復帰を選ぶのは勇気が要った。
いまの時点で間違いなく楽に釜ノ島へ近づけそうなのは、平穏な姿を見せてくれているこの広い川をジャブジャブと歩いて行くことだろう。




13:54
私がどちらを選んだかは、画像のとおりだ。

少しでも体力を温存しつつ、かつ時間を節約しつつ、もはや時間的に許されうる最大限の到達地になることが確定しつつあった釜ノ島(左岸林道との合流地点)へ無事に辿り着くべく、ここではいくらかの成果をかなぐり捨ててでも、前進を優先することにしたのだ。

私の普段の探索スタイルを知る人なら分かるはずだが、私がこの選択をするのには大きな葛藤と烈しい悔しさがあった。
時間も、体力も、もっとあって欲しいと思ったが、いまからどうにか出来ることではなかった。




13:55 《現在地》

上の写真の中ほどに、大きな滝があった。
それは幾段にも連なった連瀑で、新緑の山から轟々と落ちてきていた。

これがとても高い滝だろうということは、直前に見た大絶壁の地形や、奥の段の落ち口がここから見えていないことから察せられたが、地形図に描かれている等高線の密さを信じれば、この滝の全高はおそらく500mを下らない。(そんなに高い滝があれば日本一じゃないかと思われるかもしれないが、連瀑ならばこのような滝が各地にあるはずだ。)
とにかく、林道よりも遙かに高い山上からこの無名の沢は落ちてきている。大絶壁のように無草無木であれば、その偉容を一望できただろう。
探索時は知らなかったが、この滝には「三昇の滝」という名前があるようだ。グーグルマップでのみ確認できた。

なお、軌道の路盤は、ここから見える一番奥の滝の手前に橋を架けて渡っていたようだ。
当然、橋自体は架かっておらず、橋台も下からでは確認できなかったが、左右の山腹にラインが見えた。
本当ならば、よじ登って(失われた)橋の規模や構造を調べたかった。

ここは、たった数年しかなかった現役時代において、沿線有数の美麗車窓だったかもしれないが(睾丸縮みでもあったろう)、経年的に、乗車経験者を探せる可能性はあと数年だろう。



今回の探索では初めてのピンポイントではない連続した渓流歩きが始まったが、正直、その楽さに救命の喜びを覚えた。

これまでの執拗に固執した路盤歩きは、とにかく手摺りのない高所にいることが多く、気の休まる場面が少なすぎた。
また、右か左に傾斜した斜面を歩き続け、落葉によって見えない地面を踏み続けることの、真綿で首を締めるようなストレスからも、ようやく解放された嬉しさがあった。

もっとも、真っ当な道路の歩行に較べれば、渓流歩きも絶望的に負担が大きい。
川原を歩けるうちはマシなのだが、河床全体に対する流路の比率が全体的に大きいため、頻繁に水中へ足を入れねばならないことも、きつかった。
おそらく2時間もこれを続けていれば、今度は反対に路盤が恋しくなるに違いない。




13:57
上の写真の中央に見える岩場の“窪み”も、その上部に右写真のような小規模のスラブ谷を持っており、迂回中の軌道跡が再び森から焼け出されて、危険の熱に焦がされているのが見えた。

こうして下から見るだけでは、実際に踏破出来るかどうかの判断は覚束ない。
とても無理そうに見えても、実際にはいい具合にステップが配置されていて、容易に渡れることもあるし、反対のことももちろんある。

はっきり言えるのは、私はこうして路盤を見上げることに慣れず、悔しさを感じ続けたことだ。
見えれば悔しく、見えなければより悔しかった。なぜなら、そこに隧道が隠されているのではないかと暗鬼が囁くからだ。
そのため、路盤が完全に見えなくなってしまいそうになったら、少しくらい無理をしても復帰しようと思っていた。



14:01
写真ではどれも分かりづらいだろうが、ここまでは辛うじて路盤の位置を目視で追い続けることが出来ている。
探索時期が良く、木々の緑が若葉であったことに助けられた。夏場なら、崩壊地以外のほとんどの場所で、路盤は見えなかっただろう。

「完全に見えなくなりそうなら、登ろう。」
これを合言葉のように、あるいは免罪符のようにして、私はなおも河床を進んだ。




これは同じ位置から撮影した進行方向。
巨大な岩がごろごろしていて、それを乗り越えながら進むのでペースはなかなか上がらないが、目を楽しませる程度に変化に富みつつ、歩行を拒絶するような難関からは遠い感じの河況に、癒された。
谷底の河況について言えば、小根沢から大根沢までの間がもっとも険悪だったように思う。
向かって右側の山腹で戦い続けているはずの路盤には相変わらず後ろめたさを感じていたが、この谷を歩く時間は楽しいと感じていた。

150mくらい先に、モミの大木がよい目印の尾根が見える。この目印は何度か登場する。



14:03
(←)しばらく右岸を歩いていたが、狭い河床のなかで流路がうねり始めたために、水勢の強い本流を渡りながら進まねばならなくなった。
昨日の寸又川と較べれば、水量も半減しているはずだが、谷も狭まっているので水の勢いは相変わらず強いし深い。
したがって、徒渉はどこでもというわけには行かず、少し余計に距離を歩かねばならなくなってきた。

(→)軌道跡に目を向ければ、かなり凶悪な相の涸れ谷によって再び寸断されているところだった。
もし路盤を歩行していたとして、これを横断できたかどうかは五分五分といった印象だ。
本当に険しいなぁ。 この区間……。




大モミのある尾根が近づいてきた。
尾根は、河床と路盤を行き来するのに適した地形である。
そのことを念頭に、私はこの尾根を見ていた。

そして、いまいるこの場所……

右を向くと、またしても強烈な風景が待ち構えていた。




14:03 《現在地》

続出! 凶悪なる涸れ谷のクレバス。

私がこの区間に入ってすぐに洗礼を受け、2発までは耐えたが、3発目で断念したクレバスのとびきり大きなヤツだ。

これで何発目だ。わずか5〜600mの区間にこのような谷が最低5回は現われているはず。
おそらく現役時代には全ての谷に木橋が架かっていたのだろうが、このような橋の頻度も沿線随一だろう。
地形図からは読み取れなかったが、この区間の軌道跡の険しさは最悪級なのだった。
ここを地形が許す限り全て辿ろうとしたら、何度上り下りを要求されることになったろう。

なお、ここには橋台と石垣が残っていた。どちらも遠望する私に強烈な印象を与えたのだが、
その位置から推定された雄大な橋の姿を、チェンジ後の画像には書き加えている。
橋の構造は想像の域を出ないが、この地形では中央に橋脚を下ろすことは現実的でなく、
おそらくこのような方杖木橋を渡していたと思う。 現役時代にワープして見てぇー!!



これは、久々に河床からはっきり見えた路盤の石垣。
前述した巨大橋跡の手前、橋台の直前に存在している。
写真だと分かりづらいが、相当広い範囲に石垣のつぶつぶが見えるはず。
高さ10mはありそうな空積み石垣が、ほぼ崩れずに残っているようで、歩かない決断をした自分を責めたくなるが――



!!!

石垣に接続しているこの橋台の非現実感さえ漂う立地を見ると、

現状の体力でこれに挑むのは危険だったかも知れないと、自分を慰められる気がした。

(でも、もしも再訪があるなら、ここはもう一度チェックしたいところだ)

…………本当に、よくこんな所に軌道を通したものだ……。 凄すぎる……。




14:05
大モミのある尾根が間近に迫った。

景色と地形図と照合すると、この大モミの尾根の先で再び寸又川の蛇行が始まるようで、約500m続いたこれまでのような直線的な流れではなくなる。
写真奥に見える1154mピークがある尾根が、その蛇行の芯で、あれを南に膨らみながら約2kmかけて回り込んだ所に、釜ノ島がある。

ここまで17分ほど続けた河床歩き(迂回)によって、約400m進むことが出来た。
精細な踏査を妥協して歩いただけあって、良好な前進の成果を得られた。
このまま河床を歩き続けるならば、いまから2時間以内には間違いなく釜ノ島に辿り着けるだろう。釜ノ島の林道沿いに営林署の大規模な宿舎があるという情報を得ており、この時点では今晩泊地の第2候補(第1候補は別にあった)だったから、明るいうちにそこまで着ければ良いと考えた。

こうしたことを思案した末に、私は一つの決断を下した。



路盤へ復帰しよう!

重大な決断である。
河床を行くにしても、路盤を行くにしても、出来るだけ直進し続けるべきなのだ。
相互に行き来するための上り下りは、前進という意味では全く無駄でしかないし、危険だし、体力と時間の消耗が最も激しい行動だ。
どちらかを行くと決めたら、そこを長く辿り続けるのがベターなはず。

もっとも、このまま最後まで河床を行くのが必ずしも安牌な選択とはいえない。
今までも、ゴルジュになっているなどで、河床をとても進めない場面を路盤から見下ろすことは度々あり、この先にそれが現われる可能性も小さくないのだ。

迂回により一定の前進成果を得られたいま、少しだけ手に入れた気持ちと時間の余裕を武器に、やり残したという悔しい気持ちをこれ以上膨らませないためにも、路盤へ復帰する決断を下した。



大モミの尾根の直前にあるガレ場(上写真)から路盤がよく見えたが、急峻で大岩が散乱しているそこを登るのは骨が折れそうだったので、尾根筋の緩斜面を利用して復帰することにした。

(←)蛇行しながら見えない領域へ消えていく川とサヨナラして、(チェンジ後の画像)いくらか緩やかな尾根へ取付いた。

この登り、きっと大したものではないのだが、太腿に両手をあてて何度も休み休み登ったことをボイスメモに吹き込んでいた。
やはり、大荷物を背負って登るのは負担が半端ない。私の身体が登攀という動作には慣れていないのもあるだろうが、この辛さの印象で、上り下りを最小限にしたいと改めて思わされた。



14:19 《現在地》

ただいま!

約450mぶりに路盤へ復帰した!

尾根上だけあって、状態は悪くない感じだ。
しばらくは酷くこじらせていた路盤の“機嫌”が、ここからまた前回の大蛇行中のように良くなることを期待したい。
私は、河床と路盤を自由に選べるならば絶対に路盤を歩きたい気持ちが強いんだから、この愛と期待に応えてくれ! 頼むぜー路盤!!




(いよいよ、釜ノ島への最終ステージが始まる)

釜ノ島(林道合流推定地点)まで あと1.8km

柴沢(牛馬道終点)まで あと4.3km