国道127号 旧道及び隧道群 南無谷崎編 第4回(3−4)

所在地 千葉県南房総市
公開日 2013.02.16
探索日 2007.03.06

房総国道の最長隧道「岩富隧道」 あらわる


2007/3/6 16:07 《現在地》

旧小浦隧道を抜けると弁天鉱泉の建物があり、旧道はその下敷になっていた。
仕方なく並行する現国道を進むことにする。




100mほど進むと国道はくの字にカーブし、その途中に立派なゲートを有する宗教法人関連施設への専用道路が分岐している。
旧道は依然姿を現わさず、現道に近付きすぎた旧道にはありがちな末路といえた。

なお、ここまで写真が2枚とも後ろ向きなのは、太平洋に沈みつつある夕日が烈しい逆光になってしまったからだ。



そしてカーブの先に現れる、第4のトンネル。

これは長い!

第一印象として、これまで見てきた全ての隧道には感じられなかった、国道トンネルとしてのあるべき「長さ」を感じた。
狭い故の中央一列照明も、味わいがある。
また本来の坑門は掘割りの奥だが、そこまで20m以上の長いシェッドが門戸のように被さっていて、一層の迫力を醸していた。

これでこそ、いかにも境界線のトンネルといえる。
今は単なる大字の境に過ぎないが、数年前までは富山町と富浦町の境だったのである。
そういえば、このトンネルの名は岩富隧道というが、これも井村(富山町の旧称)と浦町の頭文字から取ったに違いない。



長いうえに、狭い!

房総国道のように通行量と大型車混入率が高い道にある歩道無しの狭隘トンネルは、自転車で一気に走り抜けられるくらい短ければまだいいが、それ以上に長いと途端に嫌な存在になる。
このトンネルに入ってしまったら最後、背後に迫る轟音に怯え続けることを余儀なくされるのだ。


そうだ!!




俺には、
旧道があるじゃないか?!


そうだよ。

なにも、お車さんたちと一緒に排ガスハァハァしなくたって、この山の向こう側、「南房総市富浦町南無谷」へは、行けるんじゃないか?

この岩富隧道の区間は、一連の10本の現道トンネル群のなかで唯一、旧道が描かれていない区間だったが… この気配…。

旧道はあると見たぞ!




この道は、前述した宗教法人関連施設への道ではなく、地形図にも描かれていない小径だ。

だが、微妙に舗装されていて、道幅も車道であることを捨てていない。

岬のある方向へと、緩やかに続いていた。

期待出来そうだと感じたが、いよいよ行く手に山が迫ってくると、このうらぶれた舗装路面が予想外の変化を見せた。




この場所へは、今の道でしか来ることが出来ないはずだが…。

いきなり整備された空間になった。

簡単なチェーンゲートがあるが、左の案内板には立入禁止とは書かれておらず、「当場内駐車場での事故・〜責任は負えません。 千葉青少年研修センター」とあった。

突然失われた旧道の気配に戸惑うも、進路はここしかあるまいと、改めて行く手を凝視すると…。




穴だ!

あまり使われていなさそうな、コンクリートの上に砂利が浮いた駐車場の向こうに、

ぽっかりと口を開ける、黒い洞窟の姿が見えた。

その大きさは、防空壕にはとても見えない。

明らかに、旧国道の廃隧道を思わせたが……。

ありやがったか!




旧岩富隧道 房総国道旧隧道群の中で、唯一の…


16:15 《現在地》

よっしゃ! 

これぞ旧岩富隧道に違いない。

姿形は前ほどの旧小浦隧道(の南口)とそっくりで、またしても素掘のアーチ部分は綺麗に整形されていた。
「富山町誌」の古写真はここで撮られたかも知れない。

そして今回の隧道は正真正銘の廃隧道扱いであり、坑口前には二重の柵が張り巡らされていた。
邪魔は邪魔だが、とりあえず開口してくれていることを喜びたい。
広々とした駐車場で旧道を覆い隠した延長上に、隧道跡の埋め戻しあっても不思議ではなかったのだから。

ただ、この段階でまだ出口が見えないのは、少し不気味であった。




振り返れば、廃隧道とは何の関連性も見出せない駐車場がある。

この駐車場が頻繁に利用されているならば、廃隧道の存在ももっとメジャーになっていたかも知れないが、そういう気配はない。

それにしても、奥の方は見晴らしが良さそうだ。

闇に溺れる前に、ちょっと気持のリフレッシュをしておこうかな。




小さな入り江に面した谷間を占める研修施設。
既に敷地の半分くらいが山の影に沈んでいた。
そこは砂浜に面しているわけではないが、地形的な印象から、プライベートビーチという言葉が頭に浮かんだ。
いま私がいる場所にあるのは、あの施設の駐車場の一部らしいが、直接下りていく通路は見あたらず、結構遠そうだ。

そして何より素敵なのは、この場所からの房総西海岸の俯瞰である。
海岸線を見晴らすには絶妙な高度感であり、浦賀水道の思いのほか青く美しい海を見渡す事が出来た。
「浮島」に連なる手前の半島と、背後の鋸山が見せる遠近感の妙。
その前に灰色の雲に隠された首都東京を想うのも、また面白い。

とまれ、あまりぐずぐずしていると、晴のうちに探索を終えられないかも知れないな。
おそらく日没が先に来るとは思うが。
どちらにせよ、先を急がない理由は無さそうだ。




珍しく慎重な行動に出た。

私は自転車を柵の外に置いたまま、

この身一つで廃隧道に潜り込んでいた。


何となく、予感のようなものが有ったのか、
それとももっと単純に、万が一にも自転車を4回柵越しさせる
無駄骨を折ることを、恐れたのだろうか。

今となっては定かではない。




おかしい…。

おかしいぞ。

まだ出口が見えないなんて、おかしい…。

この隧道、長さは100mくらいしかないはずだ。

先で曲がっているのか? 

この空気の流れの無さは……。

随分と瓦礫の散乱も目立つ…。




道幅いっぱいに瓦礫が散乱し始めた。

この隧道は、本日既に10本以上目にしてきた房総国道の旧隧道の中で、

唯一

通り抜け出来ないのではないかという気がする…。

明確な廃隧道としては、旧洞口隧道旧明鐘隧道旧小浦隧道に続く4本目であるが、これまでの3本とは崩れ方の頻度や度合が全然違う。

この探索のわずか2ヶ月前に、仲間と共に探索した内房線の旧南無谷隧道。
大正12年の関東大震災で大崩壊し、それをきっかけに廃止を余儀なくされた、長大な水没廃隧道。
旧岩富隧道は、現国道の岩富隧道と現JRの南無谷隧道を間に挟みはしているが、同じ峰の並びにある。



この隧道が関東大震災でいかなる被害を受けていたかは、国鉄南無谷隧道の場合と違って記録がなく不明だ。また仮に崩壊があったとしても、その後昭和25年に現道が開通するまで使われ続けている。
このことからも国鉄南無谷隧道ほどの被災はなかったと想像されるが、もし同じ地質なのだとしたら、ダメージの蓄積は相当あったと思われる。

今日はこれまで意外なほどに、廃隧道の通り抜け状況に恵まれていた。
そして内心、「これが房総なのだろう」という合点が生まれつつあった。
危機感がやや薄らいでいた面はあると思う。

そんな中で今回自転車を持ち込まなかった咄嗟の判断は、吉と出たか…。

目測30m前方に、内空全断面を塞ぐ茶の壁が見え始めていた……。





入洞開始3分後、


ワレ、大落盤ニ逢着セリ。


これが定められた決着であったか。

旧国道廃隧道4本目にして、全面落盤に遭遇する…




も!

お約束の展開も、あり!

堆土の山にも活路ありだ。

定番だが、堆土を供給した分だけ天井に“空洞”が生じていた。




そしてこの“空洞”において最も重要な、反対側洞内へと通じる空隙の有無は……


………

……




俺がチキン確定じゃねーか!(苦笑)


迷わず行けよ、行けばわかるさの精神で、チャリも連れてくるべきだった。

時間を無駄にしたくない、急がなきゃと言う焦りの気持ちが、房総廃隧道の“底力”を信じられなくさせてしまったようだ。

貫通していることが確かめられたので(浅はかにも出口の先がどうなっているかは確かめず…笑)速攻、自転車を回収しに戻る事にした。

なんとまあ、本当に生命力の強いことで。
素晴らしいな、房総国道の明治廃隧道は(開削されたもの以外)全員健在だったことになる。




…という感じで、自転車を回収。

一度ここを離れてから数分しか経っていないのに、駐車場の空気は日没後のすっかり冷えたものに変わっていた。



2度目のアタック。

緊張感はだいぶ緩んだが、それでも出口の見えない闇へ自転車を押し進めていく作業は、精神衛生上快適とは言えなかった。
私は黙々と、この土山を貫通する任務に専念した。




しかし、チャリは妙に嬉しそうである。

最大の堆土の山のてっぺんに駐まって制覇面。
挙げ句の果てに「撮ってくれ」のお強請(ねだ)りか。

ふん! それに付き合う私もイイヤツだ。

(この相棒は、今のから見れば3代前か…)




はい、今度こそ貫通!



南口(南無谷口)の迫力が、
ぱねぇ…!


洞内ではイキがってたチャリが、

まるで隧道から「いらね」と排出されたゴミのようだ。

端から見れば、この堆土の坑口からもそもそ出て来た私自身も、
ゴミだろう。




16:32 《現在地》

この坑口を見ていると、不思議な感覚に陥るのは私だけだろうか。

なんというか、


本当にここは、地上なのか?


…そんな不安を感じる。

答えは確かに地上である。上を見れば、空がある。

夕暮れという状況が大きく作用したのもあるだろうが、深い掘割りの奥に存在する旧岩富隧道南口は、広場に口を開ける北口とは対照的な印象であった。
その落差の大きさは、似た印象をもたらした旧小浦隧道を遙かに凌いでいた。




坑口脇の垂直の法面には、流水溝と思しき凹部があった。

未舗装かつ狭隘な素堀隧道が連なる、現代的視点から見ればどうしょうもないような低規格道路であっても、ちゃんと道路を良い状態で保とうという工夫や努力は存在した。
そういう当たり前の事が伺える、私が好きな種類の“遺構”である。


大迫力で呑まれそうな坑口も、少し離れてみれば、神通力の効果は格段に薄れる。
なにやら頼りなさげな素堀隧道が、掘割りの奥に口を開けているだけだ。

ただ、この掘割りについても、隧道よりだいぶ幅が広いという特徴があった。
しかも掘割りの中心線は隧道の中心線よりだいぶ右に寄っており、左右非対称に拡幅された印象を受ける。

掘り割りの中で、対向車が過ぎるのをじっと待つトラック…。
そんな場面が、昭和25年まで繰り広げられていたのだろうか。
大戦中、日本が勝つために、この狭隘隧道は捨てられるはずだったが、戦後まで持ち越された。



坑口から連なる掘割りをゆくと、その出口の左手に、一棟の掘っ立て小屋があった。

壁が無い一方を覗くと、中に収められていたのは索道機械で、ワイヤが架かったままになっていた。
おそらく現役施設と思われるが、このワイヤの行き先は旧隧道上部のビワか何かの畑だろうか。
そういえば、柑橘のイイ匂いも感じられた。




轍のない旧道は、どんどん明るさを取り戻し、現代社会へ接近していった。

坑口から80m程度で、広場に出会った。

今までは遠くに聞こえる程度だった現国道の喧噪が急に間近になったのは、この広場の脇に岩富隧道の南口が口を開けていたからだった。




ひっきりなしに車を吐きだし、あるいは呑み込み続ける、眼下の岩富隧道南口。

北口はシェッドのために扁額が見えなかったが、こちらはそれを見る事が出来、「いわとみずいどう」という、とても読みやすいひらがな練習帳のような文字が並んでいた。

ちなみに、あれだけ「長い」と感じた岩富隧道も、全長はたった257mであるという。(ちなみに旧隧道は100m程度だったと思う)
これでも房総国道の中では最長トンネルである。
今日は短いトンネルに馴れていたということもあるが、やはり狭さと通行量の多さから来る圧迫感が、その印象を変えたのである。

…まあ、廃隧道を選んだ方が安全かどうかは分からないが…。



16:35

岩富隧道区間では、結局30分も費やしてしまった。

成果としては大満足だったが、いよいよ日が尽きそうになってきた。

次回は、ペースを上げるぞ!





今回は旧小浦隧道から旧岩富隧道までの旧道を紹介したが、明治36年版の地形図以来、現国道に切り替えられるまでの全ての版で、旧小浦隧道と旧岩富隧道の間にもう1本の隧道が表記されている。

また「富山町誌」も南無谷新道の隧道の本数を5本と表記しており、“地形図の隧道”が実在した事は間違いなさそうだ。

その位置は…




この辺り(→)だったはずだが、見ての通り、隧道はおろか尾根も無い。

残念ながら隧道は尾根ごと撤去されてしまったようだ。

この幻の隧道は、対応する現道トンネルが無いために、仮称さえ付けがたい哀れさだ。
何か情報をお持ちの方がいたら、ご一報を戴きたいモノである。