16:15 《現在地》
よっしゃ!
これぞ旧岩富隧道に違いない。
姿形は前ほどの旧小浦隧道(の南口)とそっくりで、またしても素掘のアーチ部分は綺麗に整形されていた。
「富山町誌」の古写真はここで撮られたかも知れない。
そして今回の隧道は正真正銘の廃隧道扱いであり、坑口前には二重の柵が張り巡らされていた。
邪魔は邪魔だが、とりあえず開口してくれていることを喜びたい。
広々とした駐車場で旧道を覆い隠した延長上に、隧道跡の埋め戻しあっても不思議ではなかったのだから。
ただ、この段階でまだ出口が見えないのは、少し不気味であった。
振り返れば、廃隧道とは何の関連性も見出せない駐車場がある。
この駐車場が頻繁に利用されているならば、廃隧道の存在ももっとメジャーになっていたかも知れないが、そういう気配はない。
それにしても、奥の方は見晴らしが良さそうだ。
闇に溺れる前に、ちょっと気持のリフレッシュをしておこうかな。
小さな入り江に面した谷間を占める研修施設。
既に敷地の半分くらいが山の影に沈んでいた。
そこは砂浜に面しているわけではないが、地形的な印象から、プライベートビーチという言葉が頭に浮かんだ。
いま私がいる場所にあるのは、あの施設の駐車場の一部らしいが、直接下りていく通路は見あたらず、結構遠そうだ。
そして何より素敵なのは、この場所からの房総西海岸の俯瞰である。
海岸線を見晴らすには絶妙な高度感であり、浦賀水道の思いのほか青く美しい海を見渡す事が出来た。
「浮島」に連なる手前の半島と、背後の鋸山が見せる遠近感の妙。
その前に灰色の雲に隠された首都東京を想うのも、また面白い。
とまれ、あまりぐずぐずしていると、晴のうちに探索を終えられないかも知れないな。
おそらく日没が先に来るとは思うが。
どちらにせよ、先を急がない理由は無さそうだ。
珍しく慎重な行動に出た。
私は自転車を柵の外に置いたまま、
この身一つで廃隧道に潜り込んでいた。
何となく、予感のようなものが有ったのか、
それとももっと単純に、万が一にも自転車を4回柵越しさせる
無駄骨を折ることを、恐れたのだろうか。
今となっては定かではない。
おかしい…。
おかしいぞ。
まだ出口が見えないなんて、おかしい…。
この隧道、長さは100mくらいしかないはずだ。
先で曲がっているのか?
この空気の流れの無さは……。
随分と瓦礫の散乱も目立つ…。
道幅いっぱいに瓦礫が散乱し始めた。
この隧道は、本日既に10本以上目にしてきた房総国道の旧隧道の中で、
唯一
通り抜け出来ないのではないかという気がする…。
明確な廃隧道としては、旧洞口隧道、旧明鐘隧道、旧小浦隧道に続く4本目であるが、これまでの3本とは崩れ方の頻度や度合が全然違う。
この探索のわずか2ヶ月前に、仲間と共に探索した内房線の旧南無谷隧道。
大正12年の関東大震災で大崩壊し、それをきっかけに廃止を余儀なくされた、長大な水没廃隧道。
旧岩富隧道は、現国道の岩富隧道と現JRの南無谷隧道を間に挟みはしているが、同じ峰の並びにある。
この隧道が関東大震災でいかなる被害を受けていたかは、国鉄南無谷隧道の場合と違って記録がなく不明だ。また仮に崩壊があったとしても、その後昭和25年に現道が開通するまで使われ続けている。
このことからも国鉄南無谷隧道ほどの被災はなかったと想像されるが、もし同じ地質なのだとしたら、ダメージの蓄積は相当あったと思われる。
今日はこれまで意外なほどに、廃隧道の通り抜け状況に恵まれていた。
そして内心、「これが房総なのだろう」という合点が生まれつつあった。
危機感がやや薄らいでいた面はあると思う。
そんな中で今回自転車を持ち込まなかった咄嗟の判断は、吉と出たか…。
目測30m前方に、内空全断面を塞ぐ茶の壁が見え始めていた……。
入洞開始3分後、
ワレ、大落盤ニ逢着セリ。
これが定められた決着であったか。
旧国道廃隧道4本目にして、全面落盤に遭遇する…
も!
お約束の展開も、あり!
堆土の山にも活路ありだ。
定番だが、堆土を供給した分だけ天井に“空洞”が生じていた。
そしてこの“空洞”において最も重要な、反対側洞内へと通じる空隙の有無は……
………
……
俺がチキン確定じゃねーか!(苦笑)
迷わず行けよ、行けばわかるさの精神で、チャリも連れてくるべきだった。
時間を無駄にしたくない、急がなきゃと言う焦りの気持ちが、房総廃隧道の“底力”を信じられなくさせてしまったようだ。
貫通していることが確かめられたので(浅はかにも出口の先がどうなっているかは確かめず…笑)速攻、自転車を回収しに戻る事にした。
なんとまあ、本当に生命力の強いことで。
素晴らしいな、房総国道の明治廃隧道は(開削されたもの以外)全員健在だったことになる。
…という感じで、自転車を回収。
一度ここを離れてから数分しか経っていないのに、駐車場の空気は日没後のすっかり冷えたものに変わっていた。
16:32 《現在地》
この坑口を見ていると、不思議な感覚に陥るのは私だけだろうか。
なんというか、
本当にここは、地上なのか?
…そんな不安を感じる。
答えは確かに地上である。上を見れば、空がある。
夕暮れという状況が大きく作用したのもあるだろうが、深い掘割りの奥に存在する旧岩富隧道南口は、広場に口を開ける北口とは対照的な印象であった。
その落差の大きさは、似た印象をもたらした旧小浦隧道を遙かに凌いでいた。
坑口脇の垂直の法面には、流水溝と思しき凹部があった。
未舗装かつ狭隘な素堀隧道が連なる、現代的視点から見ればどうしょうもないような低規格道路であっても、ちゃんと道路を良い状態で保とうという工夫や努力は存在した。
そういう当たり前の事が伺える、私が好きな種類の“遺構”である。
大迫力で呑まれそうな坑口も、少し離れてみれば、神通力の効果は格段に薄れる。
なにやら頼りなさげな素堀隧道が、掘割りの奥に口を開けているだけだ。
ただ、この掘割りについても、隧道よりだいぶ幅が広いという特徴があった。
しかも掘割りの中心線は隧道の中心線よりだいぶ右に寄っており、左右非対称に拡幅された印象を受ける。
掘り割りの中で、対向車が過ぎるのをじっと待つトラック…。
そんな場面が、昭和25年まで繰り広げられていたのだろうか。
大戦中、日本が勝つために、この狭隘隧道は捨てられるはずだったが、戦後まで持ち越された。
坑口から連なる掘割りをゆくと、その出口の左手に、一棟の掘っ立て小屋があった。
壁が無い一方を覗くと、中に収められていたのは索道機械で、ワイヤが架かったままになっていた。
おそらく現役施設と思われるが、このワイヤの行き先は旧隧道上部のビワか何かの畑だろうか。
そういえば、柑橘のイイ匂いも感じられた。
轍のない旧道は、どんどん明るさを取り戻し、現代社会へ接近していった。
坑口から80m程度で、広場に出会った。
今までは遠くに聞こえる程度だった現国道の喧噪が急に間近になったのは、この広場の脇に岩富隧道の南口が口を開けていたからだった。
ひっきりなしに車を吐きだし、あるいは呑み込み続ける、眼下の岩富隧道南口。
北口はシェッドのために扁額が見えなかったが、こちらはそれを見る事が出来、「いわとみずいどう」という、とても読みやすいひらがな練習帳のような文字が並んでいた。
ちなみに、あれだけ「長い」と感じた岩富隧道も、全長はたった257mであるという。(ちなみに旧隧道は100m程度だったと思う)
これでも房総国道の中では最長トンネルである。
今日は短いトンネルに馴れていたということもあるが、やはり狭さと通行量の多さから来る圧迫感が、その印象を変えたのである。
…まあ、廃隧道を選んだ方が安全かどうかは分からないが…。
16:35
岩富隧道区間では、結局30分も費やしてしまった。
成果としては大満足だったが、いよいよ日が尽きそうになってきた。
次回は、ペースを上げるぞ!