2007/3/6 16:36 《現在地》
現国道に戻って300m弱進むと、再び旧道が右に分かれた。
ここが小浜隧道〜南無谷隧道という2本の現道トンネルに対応する旧道の入口である。
この区間も昭和25年に旧道化したものであるが、廃止はされておらず、小浜と石小浦という集落の生活道路になっている。
それでは参ろう。
今度は旧道を300m進むと、小浜集落が見えてきた。
そしてその山手には、現国道の6/10本目の隧道、小浜隧道の“美白”な坑門が見えていた。
そして十字路へ。
直進が旧道の続きで、左へ行けば現国道へ、右は集落道で行き止まりである。
現国道の小浜隧道は全長56m、昭和24年の竣功だ。
おそらく、坑門の壁を覆う化粧板を外せば、英字扁額も残っていると思われる。
坑門の両側に設置された点滅灯が物々しい。
ちなみに、小浜の読みは「こばま」で、扁額の文字は旧字体の「小濱」であった。
さて、旧道へ戻って「十字路」を直進。
そこから約100mで、呆気なく“その時”が来た。
南無谷崎区間では第3番目の(現存)明治隧道との遭遇である。
ガードレールの向こうは海だが、逆光が猛烈に眩しい。
16:39 《現在地》
これが、旧小浜隧道である。
竣工年は、明治31年。
ソースは「富浦町誌」にある次の記述だ。
明治29年には船形境より豊岡久保まで460間。(0.8km)
明治30年には久保より南無谷の豊受神社まで832間。(1.5km)
明治31年には豊受神社より岩井境まで400間。(0.7km)
以上のように開通した(豊浦郷土史)。
そして県道移管となった(安房誌には33年認定とある)。
素掘の明治隧道が、その竣功から110年を生き続けるためには、このくらい“灰色”に染まる必要があったのだろう。
これまでの旧小浦や旧岩富隧道と比較して面白みのある姿とは言えないが、立派に頑張っている。
旧小浜隧道の中央部の山側に、一つの横穴が口を開けていた。
入口は身を屈めてようやく入れる高さしかないが、覗き込んでみると…
そこには、“小部屋”があった。
広さは4畳ほどで、広くはないが、天井は入口より高く、身を寄せ合えば数十人が隠れられそうだった。
この横穴の正体は、近隣集落の人々が作った防空壕とのことだ。
集落の近くに素堀隧道が多い千葉県内では、隧道内防空壕はさほど珍しくないが、私が出会ったのはこの場所が最初だったと記憶している。
もちろん、防空壕は太平洋戦争中に作られたものである。
この隧道が旧道となったのは戦後の昭和25年(ないし24年)であるから、まさに現役国道(特37号国道)の土手っ腹に防空壕を作ったことになる。
今日の道路法の元ではありえない、隧道の構造物としての安全性を侵す添加物工事がなされたわけだが、非常事態ゆえのことである。
再びこのような場所に人が押し込まれるような事態にだけは、なって欲しくないものである。
坑門からは窺い知れない、110年を生きた痕跡が洞内に残っていた事に感心したが、続いて現れた南口も再び完全な灰色一色であった。
そしてこの南口には、南房総のシンボルともいえるフェニックスの木が2本、坑口よりも遙かに大きく育っていた。
軽トラと比較しても、その大きさが分かるだろう。
完全に隧道の存在感を、食っている。
なお、これまでの2本の旧隧道(旧小浦、旧岩富)は、正式な名前や緒元が一切不明であったが、この隧道は現役の市道であるために、道路台帳などに記載されている。
平成16年(富浦町時代である)のものによると、この隧道の名称は「小浜(こばま)トンネル」といい、竣工年は「不明」、全長58m、全幅3.9m、高さ2.6mという緒元であった。
もっとも、データ上の数字より実際の天井は1m以上高く、現地の「高さ制限」標識の表示も3.6mである。
この高さのデータは誤記である可能性が高そうだ。
旧小浜隧道を出るとそこは石小浦集落で、大字は引き続き富浦町南無谷である。
そしてすぐに小さな十字路に出会う。
旧道はこのまま直進して次なる旧南無谷隧道への上り坂となり、左折は現国道へ、右折は海岸線に下りる道である。
迷わず直進した。
ここまで家並みはそれなりにあるが、人や車にはあまり出会っていない。
しかし現国道を行き交う車の音は、ほとんどひっきりなしに聞こえてきた。
既にこの南無谷崎区間最大にして唯一の関門を突破しており、今は安穏たる現役旧道区間の進行となっているので、さくさく進みます。
十字路からやや急な上り坂(そして相変わらず狭い!)を100mばかり進むと、ブラインド・カーブと一緒に今度は「高さ制限2.6m」の標識が現れた。
こんなものが現れれば、カーブの先に何が待っているのかを考えるまでもない。
でも、カーブを曲がる前に、ちょっとだけ右を見てみよう。
綺麗な水平線だ〜。
という眺めだと思ったでしょ?
私もそう思ったわけだが、よく目を凝らすと、もっと色々見えていた。
で、水平線に関しては、実は少しも見えていなかったのだ。
浦賀水道の向こう側の陸地が、幾重にも層をなして水面を限っていた。
晴れているに違いない相模湾沖(太平洋)と、きっと雨が降っている関東地方の陸地とのグラデーションは、見ようによって「夕方に立って遠くの夜を眺める」ような、本来地表にあって決して見る事が出来ない眺めを疑似体験させてくれた。
それにしても、富士山の高さは海を抜いて際立っていた。
(ここから富士山頂までの水平距離は、直線で105kmである)
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16:43 《現在地》
海を背に、この区間4本目の旧隧道に出会う。
旧南無谷隧道と呼ぶ事にするが、これも市道であり、正式名は単に「南無谷(なむや)トンネル」である。
緒元については、竣工年「不明」(実際は明治31年と見られる)、全長191m、全幅3.9m、高さは3.4mである。
しかし坑門付近の天井は、この数字よりも遙かに高いと感じられる。
南無谷崎へと連なる尾根をくぐる旧南無谷隧道の特徴は、何と言ってもこの長さである。
明治31年竣功の隧道としては全国的に見ても長いものであり、村境にあった旧岩富隧道よりも遙かに長い。
これより先の明治19年に開通した「木の根通」の峠の隧道が約200mであり、それには少しだけ及ばないが、同じ房総西街道の局部的区間に、わずか十数年の隔たりで2本の並列する新道が建設されたというのは、当時この地に旺盛な土木熱の存在した事を伺わせる。
そして最終的には、この海岸沿いの「南無谷通」に軍配が上がり、今日まで本道として活躍を続けているのである。
(最近開通した国道127号の自動車専用道路である「富津館山道路」は、ふたたび木の根峠を選び、そこに全長1400mを越える「とみやまトンネル」を穿ったが)
長いから照明が点いており、かつ程よく薄暗くて雰囲気が良い。
これで煉瓦隧道だったら……なんて贅沢は止そう。
洞奥に差し掛かると、天井の高さは一つ前の旧小浜隧道と同じくらいになった。
なんで2本の隧道で「高さ制限」標識の数字が違うのかは、結局分からなかった。
ところで話は変わるが、このおそらく日本中で唯一だろう「南無谷」という変わった地名は、「角川日本地名辞典」によると、かつては和泉沢と称したが、建長5年日蓮がこの地に妙福寺を開いたことにちなみ南無妙法谷と呼ばれるようになり、のちに南無谷となったという
とある。
日本中に日蓮や空海(弘法大師)などの高僧に因む地名譚が残されているが、相当数は後年附会されたものと言われる。
しかし房総半島には日蓮ゆかりの地が多く、鴨川市の誕生寺は生誕の地とされる。
なむやの音に「南無」谷という、多くの日本人にとって特別な意味を持った字をあてることが出来たのは、これが真の命名譚である証拠ではないだろうか。
南無谷隧道の南口に到着。
こちらは海に面しておらず、深い掘割りの中に居し、現国道の喧噪が近い。
すぐ目の前に、現国道の南無谷隧道南口が待ち受けていたのだ。
夕のラッシュが始まっていると思われる、現国道の南無谷隧道。
この隧道は長さが247mあり、岩富隧道より10m短いだけで、房総国道中第2位の長さを持っている。
今回の小浜隧道〜南無谷隧道間は、自転車旅ならば迷わず旧道を選ぶべきだろう。
そんな旧道は、南無谷隧道前という危険な場所で、横断歩道もなしに、
現国道を斜めに横断していた。ここは車が切れるのを待ってから横断した。
ここは旧道が珍しく現国道より山寄りを通る区間である。
再び現国道に合流するまでの長さは約300mで、橋やトンネルがあるわけでもない地味な区間だが、明治道らしい道幅の狭さや、箱庭のような里山風景は、長時間の旅の終わりを慰める眺めであった。
この写真の地点の先で小さな掘割りを越え、南無谷集落の中心地へ下りてゆく。
集落入口の左手に神社があるが、それが先ほど名前の出た豊受神社で、集落内は明治30年に新道が開通した区間となる。
次回は南無谷集落で再び現国道と一つになった先に現れる、ラスト3本の隧道を紹介しようと思う。
房総国道旧道巡りの旅のゴールは、もう間近。
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