静岡県道288号 大嵐佐久間線 第8回

公開日 2009. 7.17
探索日 2009. 1.24

 第3の崩壊現場 あり得ないトラブル 


2009/1/24 11:42

4分後、汗だくになった私の前には、愛車がスタンドを下ろされ立っていた。
ディレイラーはもちろん、フレームにハンドルやサドル、ペダル、サスペンションなど、目に見える部分に損傷は特に無い。

だが、先ほどちゃんと装着したはずの後輪が、なぜか回転しなかった。
プレーキパッドが衝撃で歪んだのかと思ったが、ブレーキワイヤーを外して完全に緩解させても、やはり車輪は回らなかった。
間違いなく何かが接触している。

再び青ざめて車輪をよく観察すると、なんとフレーム自体にタイヤが接触していたのだ。
これでは回らないワケである。
タイヤか、フレームかのどちらかが、ひどく歪んでいるのだ…。




自転車の車輪というのは、リムとスポークという金属のパーツが骨組みになっている。
スポークの“張り”を一本一本調整することで、リムの形は成形されている。

私のチャリはこのとき、スポークの約半分が極端に堅く張り、残りの半分が外れそうなほどユルかった。
つまり先ほどの墜落で、スポークでの調整を逸するほどにリムが歪んでしまったのだ!!


約20分間、俯いてスポークと格闘した。
だが、目に見えて歪んだリムは、素人に調整できるものではなかった。

車輪が回らないというのは、探索中に考えられる故障症状のなかでも最悪中の最悪で、こんなクソ重い荷物を背負って下山するなどほとんど不可能だ。
もう最後の手段とばかりに、リムを激しく“踏んだり”“蹴ったり”して、タイヤがフレームに当たらないようにした。
ちなみに前輪も後輪ほどではないが歪んでいたので、ブレーキは完全に緩解しなければならなかった。




結論から言うと、ほんの一瞬の不注意により10mほど墜落した愛車は両車輪が歪み、自走困難となった。
だがブレーキを犠牲にしたりいろいろ手を尽くして、なんとかタイヤは回るようになった。

これで自走出来るようになったが、乗り心地はグネグネグネグネ…、タイヤのゆがみが身体に伝わってきた。


  ちくしょう…





12:02

このトラブルでの精神的なダメージは大きく、ノソノソと走り始めた後もしばらく、激しい自己嫌悪に苛まれ続けた。

撮影中の事故であったため、たまたまこの日が初戦であったデジカメは、謂われのない「戦犯」扱いを受けもした。

そのカメラの撮影データは、再出発してすぐに“4箇所目の大崩壊現場”があったことを伝えている。

“チャリころがし”とは比べものにならない大崩壊で、かなり危険でもあったはずだが、全く印象に残っていない。
たぶん、明日からの探索でチャリが使えなくなりそうだという事への憂鬱や、デジカメに次ぐ出費の予感で、頭がいっぱいだったのだろう。


…私の冒険譚なのだからもう少しぐらいヒーロー面しても文句は言われないと思うが、ほんと肝っ玉小さい。




やはり印象には薄いが、谷と谷に挟まれた小さな尾根である。
ここで携帯の電波が2本くらい立ったので、遠く埼玉にあるかかり付けの自転車屋に電話で連絡。
愛車の故障状況を報告し、修理の可能性や値を問い合わせた。
一緒に山を走ったことはないが、いつも親身になってくれる山行がの愛読者のオーナーさんである。
会話をして、一気に気分が晴れた。

こうなったら、このコンディションで愉しむしかできないのである。
この状況も逆に考えれば、もう細かな路面状況の善し悪しに拘泥されなくて済むと言うことだ。
どうせチャリにはロクに乗れないのだから。




今までよりやや長くトラバースして、眼下の沢が道路の高さに登ってきた。

そこには、やはり巨大な瓦礫で埋まったような谷があったが、渡る地点には橋が架かっていた。

山室橋に次ぐ2本目の橋らしい橋である。


憂鬱を吹き飛ばすような発見に期待したい!




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 数え切れない崩壊を越えて… “裸の廃道”


12:13 【現在地:境橋】

銘板や親柱も揃った、橋らしい橋。

地図読みで、佐久間ダムサイトの起点からちょうど10kmという、分かり易い地点でもある。

下を流れる沢の名前は分からないが、たぶん境沢というのだろう。
ここはかつての佐久間町の大字分界で、今は浜松市天竜区佐久間町佐久間と同 奥領家の境になっているのだ。




(←)竣功年は、昭和39年9月。
前の山室橋が昭和33年11月だったから、2.3kmほど工事を進めるのに6年近くもかかった計算になるのだろうか。
随分かかっている印象だ。

ちなみに県道認定は昭和40年だから、この橋も「林道長野静岡線」の一部として作られたことに違いはない。






あ!

そ、 そこにあるものは?!




これは、キロポストでは?!

多分そうに違いない。

福島県なんかで、これと同じカタチをした県道の黄色いキロポストをよく見る。
しかし、これは金属製だ。
色も黄色だったのかどうかは分からない。
また、肝心の数字も上下二段に書かれているようで、意図が分からない。

一応読み取れる数字としては、4.15(ないし3)であるが。
そもそもここは起点からも終点からも、4キロ台ではあり得ない場所だし…。
多分キロポストの類に間違いはないと思うが、正体は不明である。




うん! 立派な橋と謎のキロポストの出現で、またちょっと気が晴れた!(笑)

そもそも、あんなトラブルさえ引き起こさなければ、これは相当に“上等”な廃道だと思う。

だって自動車道の廃道で橋や石垣などの構造物がこれだけしっかり残っていて、しかも藪を掻き分けて進む必要がない。
路傍の風景は十二分に美しいし、廃道区間に入ってからの瓦礫と朽ち葉とのコントラストは、この道の特徴的な美点である。

まだこの先どうなるかは分からないが、今のところは苦労に見合った以上の上質廃道だ。




境橋を渡って少し進むと、再びの小尾根。
もうずいぶん前から、沢と尾根の繰り返しが続いている。
別にトラバース系の山道としては当然なことだが。
そしてこの小尾根の突端のカーブは、やや大きめの広場になっていた。

広場の湖岸寄りにポツンと赤い看板が立っており、そこには佐久間ダムの主である「電源開発株式会社有地」との表示があった。

この看板は初めて見るが、そういえばスタート以来最も湖水に近づいているのが今かも知れない。
その高低差は、おおよそ50mほどだ。




しばらくぶりの、やや直線が続く区間。

大きくは崩れてはいないが、瓦礫の散乱する道が見渡す限り続いている。
仮に廃止から20年でこの量の瓦礫が降り積もったのだとしたら…。
そして、道がもしも廃止されていなかったとしたら…。

さすがにそれは危ない気がする。
走行する車の密度にもよるだろうが、直撃を受ける車が出る可能性も低くなかったのではないか。
半世紀も放置されていたのならばまだ納得だが、この満遍なく降り積もった瓦礫の量は、ただ事ではない。




もうそろそろ、崩壊箇所を数える行為が馬鹿らしくなってきた。
だって、“チャリころがし”こと第三の崩壊場所より明らかにひどく崩れたような場所が、ずっと続いている。
もう、いちいち数えていられない。

とりあえず、進退を考えるほどの場面は現れないし、今さら現れて貰っても困るわけだが…。




再びの広場。

ただ広いだけの場所だが、見晴らしは良い。
もし道が現役だったら、駐車場と公衆トイレくらいは置かれていたかも知れない。





この場面は……

特に「なんだ」というわけではないところだ。

強いて言うならば、こんな景色の場所が延々と続いているというアピール。
仮にチャリが元気でも、乗れない。
第一の崩落箇所以来の廃道における乗車率は、距離ベースでも5パーセントを切る。


そして、大概は路肩側の方が通りやすいので、危険を承知でそのそばを通ることが多かった。
まあ、写真は下を覗き込むためにわざと近づいて撮影したのであるが、チャリが崖側に置かれていることに注目だ(笑)。
「もうお前を墜とさないぞ!!」




キタァー……

橋がまた出た。

今度は山腹に架かった桟橋。
しかし、その高さは過去2本とは比較にならない。

これだけ湖畔に近ければ対岸の県道1号からも見えそうだが、ちょうどこの対岸はトンネルによって迂回される「猿ヶ鼻」の山岳地帯なので、やはりこの橋を“外”から見る術はないかもしれない。




12:28 【現在地:紅葉橋】

橋の名前は「紅葉橋」だった。

地図で見ても、ここは名のありそうな谷でも何でもないし、命名には苦しんだのではないかと思う。
しかし敢えて「○○2号橋」とはにせず、「紅葉」を持ってきたところには、この道が当初から単なる林道ではなく、風光明媚な湖畔を通る観光道路としても目論見れていたことを感じさせた。



そして谷側の銘板には例によって竣功年が刻まれていたのであるが…、

昭和34年11月竣功。

前の「境橋」よりもだいぶ古いではないか。
ちょうど全線の中間付近にあった境橋のほうが新しいならば、工事はやはり南北両面から進められたことになる。




ということは、境橋の開通によって佐久間ダムと大嵐を結ぶ左岸林道が開通した可能性は高い。
昭和40年に県道指定されたことは分かっていたが、その前の林道としての開通時期が分からなかった。
それが昭和39年と特定できるなら、全線開通を待って県道指定したという“筋道”が見えてくる。

そして、このことの方が私を奮えさせたのだが…、

対岸にある今の県道1号が(県道287号として)佐久間ダム〜大嵐対岸の区間を開通させたのは、昭和45年なのである。

つまり、昭和39年〜45年の期間、湖畔の県道はこの288号のみが通じていたと推定できる。

“日陰”の道も、かつて短期間だが、“日なた”にあったのかもしれない…!




眼下の湖面まで死角無く見通せる場面も久々かもしれない。

やはり気になるのは飯田線旧線の存在である。

「もうそろそろ…?」

そんな期待を抱きながら繰り返し覗き込んできたのであるが、ここまでは全て外してきた。
そして今回も、駄目だ。
痕跡らしきものは全く見あたらない。
もっと低いのだろう… たぶん。

県道踏破はさておき…、
旧線の方は、期待するほどの成果を得られないかも知れない……。




橋を渡った先は、落石が積み上がった山がふたコブ、みコブと出来ていた。

その上に登って振り返って撮影したのがこの写真である。
まさに廃道のお手本のような風景。

たしか『鉄道廃線跡を歩く』だと思うが、険しい交通事情を表現するくだりで「このような厳しい輸送条件下で…」という表現がされていて、今でも心に残っている。

この道などは、まさに「厳しい輸送条件」下で建設され、使われていた道なのだろう。






ここに来て、遂に極まってきたか。

道路の荒廃が凄いことになっている。

今まで色々な廃道を巡ってきたつもりだが、この廃道の“荒れ方”というのは独特だ。

大概は、道が放棄されて路上に土が被さるとそこに草が生えてきて、一面緑の草藪廃道になる。
次に草藪を苗床に灌木のような植物が育ってきてマント群落を作り、やがては樹木が主体の廃道になる。
こういう流れが基本だと思うが、この廃道にはほとんど草藪がないし、路外にも草がまとまって生えているようなところがない。
これは季節的なことではなく、この岩混じりというか岩だらけの地質がそうさせているのだと思う。

まさに荒々しさばかりを前面に押し出した、筋骨隆々、裸の廃道である。

藪を掻き分けて歩くのは好きじゃないけど、荒れた廃道はどんと来い。
そんな私を含めた大多数のオブローダーにとっては、都合の良い廃道かも知れない。
そこにネックがあるとすれば、落ちている瓦礫の数だけ危険もあるということだが…。




また橋だ!

今度はちゃんと水の流れ落ちる沢に、山側は低くて谷側は結構高い、短い橋が架かっている。

4本目の橋だ。




12:35 《現在地》

拍子抜け。
今度の橋には親柱が無かった。もちろん銘板も。
だから、橋の名前が分からない。

谷底の飯田線旧線はこのあたりに「第一〜第三立隧道」を設けているので、「立石沢」という仮称は適当かも知れない。






無名の橋を渡り、

やや落ち着きを取り戻した廃道を行くこと、


すこし









向こうを向いた標識と、

撓んだチェーンがかかったままの、簡易なゲートが現れた。




2時間前にも、ほとんど同じ景色を見た。

しかし、ここにはもちろん私を怯えさせるイヌの吠え声はない。


越えたのだ。

約3km続いたゲートアウトの廃道区間を、越えた。



やったッ!!!

 やったッ!!!!





廃道クリアー!!





大嵐駅起点まで あと.0km