【陸上自衛隊による 本村〜若郷間道路開削の背景とは?】
↑第7回に登場した「再びきたりて峻険に挑む」の碑 ↑今回冒頭で紹介した「永遠に幸あれ吹上げの坂」の碑 |
都道若郷新島港線の立ち位置をひと言で表現するならば、新島にあるただ二つの集落を結ぶ唯一の道路だ。
それだけに島民や、島民を支える行政が、この都道の改良に傾けてきた熱意は並大抵ではなかったというのが、今回の探索全体を通じての一番の感想である。
その力の入れようは、わずか9kmの都道の中に7つもの道路関連の碑が建立されていて、しかもそれらの碑の新旧も一様ではない事に現れているが、中でも右に示した2つの碑は別格に印象深い。
この2つの碑に共通しているのは、いずれも陸上自衛隊102建設大隊の委託工事の完成を記念して建立されている事で、前者は若郷集落を、後者は本村集落がある中央平原方面を見晴らす、そんな眺望の第一等地にそれぞれ設けられている。
(いずれも旧道沿いであり、後者は不幸にして廃道区間内にあるが、元地から移設すべき性格の碑ではないという考え方もある)
このことから、新島に本格的な自動車交通を導入し、本土並の生活環境を実現させた都道の開削は、自衛隊の民間協力による偉大な事業であって、それは全ての島民の大きな祝福の元に遂行された印象を持つのである。
しかし、それは間違いであったことが、机上調査により判明した。
新島村史に記録されている、最も象徴的な都道開削の一幕を引用しよう。
これは都道開通の前年、昭和35年春の出来事である。
六月六日、防衛庁建設部隊が上陸用舟艇を使って数か所に上陸したため反対派はこれを阻止することが出来なかった。そして、産研(賛成)派の協力もあって本郷―若郷間の道路を約一か月半で完成させた。また、同じ条件工事である式根島小浜漁港工事に着手しようとした建設隊は反対派の海上封鎖などがあって実力阻止されたりもしている。さらにハバタの試射場予定地に通ずる道路工事に対しても実力阻止がなされたが、この時には逮捕者が出ている。
まるで戦争…。
港が封鎖されているために建設隊は揚陸艇を使って島に上陸し、たった1ヶ月半という短期間に本村(本郷というのは本村の中の海岸付近の地名)と若郷を結ぶ都道を開削していたのである。日の丸の小旗を振る大勢の島民達の歓迎を受けての工事というイメージは、私の幻想であった。
(なお、上記は昭和35年の出来事である。現地に立つ自衛隊建立の石碑は昭和36年のものであったり、「再び来たりて」という碑文があることからも、こうした工事は2年に分けて行なわれていた可能性が高い)
さらに建設部隊は港湾や他の道路の整備も矢継ぎ早に進めたが、いずれも島民を含む反対者からの強力な実力阻止活動を受けている。
一体なぜ、こうした外部からのインフラ整備に対して、これほどまでの反対運動が起きていたのだろうか。
そのキーワードは先の引用文にも現れている。
新島村史より転載。
「ハバタの試射場予定地」。
これが原因だった。
昭和35年前後に新島や式根島の港湾および道路の整備が一挙に進んだのは、当時の新島本村が国のミサイル試射場建設計画を受け入れた見返り(「条件工事」とはこのことを指している)に他ならなかった。
定時制高校に命がけで通う若郷の青年達を救った道路は、少なくとも彼らの汗ほどに純粋な美談の賜物ではなかったのである。
したがって、「再び来たりて」「永遠に幸あれ」といった名句を刻む石碑についても、最終的には確かに道路は島の救いの手となったであろうが、当初はこんなキレイゴトでは覆い隠せない怨嗟の声が木霊していたのだろう。そう考えるとこれらの碑に対する見方が幾らか変ってくるかも知れない。
しかし、この地で自衛隊員が流した汗もまた、島の苦学生のそれと同じく純粋なものであったに違いない。(私の汗もね…笑)
住人自らが鍬(くわ)や畚(もっこ)を使って道路を作る平和な時代は、自動車交通の到来とともに、質、量の両面で終焉を迎えた。
その時に至って、他の離島と同様に決して裕福ではなかった島の行政の現実は、島民を二分するミサイル試射場建設計画への賛否となって現れた。
汚い表現になるが、国はそうしたインフラ未成熟の事情に付け込んで、そこにわが国唯一のミサイル試験場計画を持ち込んだのであったし、結果的にはその思惑通りに建設が進められたのである。
もっとも、こうした国と離島のパワーバランスを背景にしたやり方が必ずしも国の思惑の通りに進まないことは、新島のミサイル試射場建設成功に気をよくした防衛庁が、続いてアメリカ軍の水戸射爆場の移転先を御蔵島に内定した(御蔵島全島を射爆場化し無人島化する計画だったという)際には同島住民の強力な反対運動で頓挫し、続いて新島や利島に移転計画が持ち込まれたがここでも断固反対されて、結局水戸射爆場の閉鎖(米国への返還要求)に至ったという歴史が教えている。
ミサイル試射場は現在、新島南端の同じ場所で
「防衛省技術研究本部 航空装備研究所新島支所」として存続している。
現在客観的に見て、新島のインフラ整備は伊豆諸島の中で比較的恵まれている印象を受ける。
定期船が着岸できる港湾が3箇所もあり、空港も昭和45年という早い時期に誕生している(当初は村営場外離着陸場として開港、お隣の神津島に空港が出来たのは平成4年である)。さらに都道には日本の島嶼で最長の平成新島トンネルがあり、これは実現しなかったが新島と式根島を結ぶ長大橋の建設が検討されたこともあった。
電気は内燃火力発電所が島内にあるし、水道も完備している。ネットも高速だと聞く。
日本最初のミサイル試射場を持つ島は、国の根本の離島振興策である離島振興法(昭和28年制定)だけでは到達し得ないユートピアを目指しているのかもしれない。
とまれ、そのような人間たちのいろいろな思惑とは無関係に、相変わらず新島の山河は飄々としていて美しいのである。
そして現在、その事を一番実感出来る展望地は、不便で危険であるために一線を退いた都道の廃道や旧道であると思う。
そんな幾らか皮肉めいた(と同時にオブローダーとしては幸福な)感想が、今日の島旅の総括だ。
この島は、期待を上回る“オブローダーズ・アイランド”だった!!