廃線レポート 千頭森林鉄道 奥地攻略作戦 机上調査編

公開日 2019.05.20
探索日 2010.05.05
所在地 静岡県川根本町

栃沢〜柴沢 “牛馬道区間” についての新事実


今回の探索の非常に大きな成果は、歴代の地形図には一度も描かれたことがなく、具体的にどこを路線が通っていたのかを知る手掛かりが、路線図に書かれた僅かな地名と距離くらいしか従来なかった、同路線図に“牛馬道”と書かれている栃沢以奥の区間について、左岸林道と重複しない栃沢〜釜ノ島の位置を特定し、どこに何が残っているのかという最も基礎的な遺構の情報を知ることが出来たことである。
はじめて地図上にルートを描くことが出来るようになったのだ。

また、この区間がもとからの牛馬道ではなく、一度はレールが敷かれ、千頭森林鉄道の一部として利用されていた区間だという、『全国森林鉄道』などから読み取れる情報についても、確かそうだろうということが、発見された隧道の構造やレールの残骸から確信できた。これも現地探索の成果であった。


さらに、帰宅後に行った机上調査によっては、現地調査でも分からなかった、次のような新事実が判明した。


【新事実】 大根沢〜栃沢間の林鉄は、一度廃止された後に復活したものであり、栃沢〜柴沢間にも復活計画があった。


この新情報の出所や詳細を解説する前に、従来の情報をまとめておくと、『全国森林鉄道』により明かされていた千頭林鉄の終点の変遷は次の通りであった。右図の地名と照らし合わせながら見て欲しい。

  1. 昭和13(1938)年、電力会社から帝室林野局へ無償譲渡時の終点は、下西河内。
  2. 昭和14(1939)年の終点は、大根沢。
  3. 昭和20(1945)年12月の終点は、柴沢。(これが本線の最長時で全長約44km)
  4. 昭和26(1951)年頃までに、柴沢奥からの伐出終了、大根沢に拠点が移動。
  5. 昭和43(1968)年、千頭林鉄(本線)廃止時の終点は、栃沢。(全長約37km)

このように、栃沢以奥が先行して廃止されたらしいことは窺い知れるが、具体的にいつ廃止されたかは明示されておらず、おそらく拠点が大根沢に移った昭和26年頃だろうと類推できるに留まっている。また、この類推を補強するものとして、これまで何度も引用している路線図の存在がある。この図の作成年ははっきりしないが、栃沢以奥が「牛馬道」として表現されていることが、先行廃止の事実性を物語っていた。

一方、探索後の平成28(2016)年に、千頭営林署OBの谷田部英雄氏が執筆・刊行された『賛歌千頭森林鉄道』は、終点の変遷について、全く別の記述を用いている。

昭和16年4月に下西河内付近から栃沢まで2級線9982mの延長に着手し、さらに栃沢から柴沢まで牛馬道8355mを延長した。これらの延長目的は、寸又川上流における木材資源の開発にあった。(中略)工事の竣工は戦後の昭和20年12月であった。
『賛歌千頭森林鉄道』より

こちらには奥地区間の先行廃止を窺わせる記述はなく、最初から栃沢以奥は牛馬道として建設されたことになっているのが、『全国森林鉄道』との大きな違いである。
なお、柴沢までの竣工年や距離の違いはない。

このように、大根沢以奥のいわゆる奥地については、全線中でも特に情報が少ない区間であり、基本的な改廃の経緯についても諸説があった。
だが今回、先ほど述べた【新事実】を記す、きわめて信憑性の高い資料を入手したので、以下に紹介したい。



『東京林友 第15巻第4号』

その資料とは、東京営林局の部内誌『東京林友』の昭和37年冬号(第15巻第4号)に掲載されていた「斧鉞ものがたり」という記事だ。第6回の「Intermission(2)」で、私が泊まった宿舎の正体を解き明かすのにも使った)
2017年春に農林水産省図書館の閲覧室で複写を入手したこの記事の内容は、千頭営林署内に置かれていた千頭林道事務所(林道事業の実行部隊)へのインタビューである。昭和37年という千頭林鉄晩年(廃止は昭和43年)における関係者の生の声として、その信憑性は極めて高い。

この記事中には、次のように、栃沢以奥の牛馬道区間に関する重大な新事実が述べられている(下線部)。

千頭森林鉄道二級線について
一級線終点(千頭堰堤)よりの延長線で延長は12kmのうち2837mが第二富士電力より譲受けた延長となっています。この先線が御料林の時代名古屋支局の直轄工事で昭和15年度より着工され5ヶ年に亘る継続事業で寸又川本流沿いに両岸を縫って延々18km余り柴沢合流点まで開設しましたが大東亜戦争の影響により事業の縮小となって大根沢奥は廃道となり現在に至りましたが本年度奥地開発計画により局直轄の工事で約1800mが開設されました。
『東京林友 第15巻第4号』より

戦後に一旦林鉄の終点が大根沢まで後退し、大根沢以奥は牛馬道に降格していたが、昭和37年度に奥地開発計画によって大根沢〜栃沢間の林鉄再延伸が行われたということを、この資料は述べている。
これを容れるならば、先ほど掲載した終点位置の変遷には、次の赤文字のような追記・修正が必要である。

  1. 昭和13(1938)年、電力会社から帝室林野局へ無償譲渡時の終点は、下西河内。
  2. 昭和14(1939)年の終点は、大根沢。
  3. 昭和20(1945)年12月の終点は、柴沢。(これが本線の最長時で全長約44km)
  4. 昭和26(1951)年頃までに、柴沢奥からの伐出終了、大根沢に拠点が移動。終点は、大根沢。
  5. 昭和37(1962)年度に、奥地開発計画によって、大根沢から栃沢まで1.8kmが再延伸。終点は、栃沢。
  6. 昭和43(1968)年、千頭林鉄(本線)廃止時の終点は、栃沢。(全長約37km)

おそらくこの再延伸工事は、従来の牛馬道の再整備だったろう。現地を見る限り、別線で整備された形跡はない。
しかし、大根沢より奥は昭和20年代に早々と廃止されたという記述には、現地探索での発見と矛盾する部分があるのも事実だ。
例えば、大根沢分岐点の栃沢側に架かる大根沢を渡る鉄橋には、昭和33(1958)年の銘板が取り付けられていた。これは架設年ではなく建造年なので、昭和33年に建造し、37年に架設したと考えられなくもないが、やや不自然ではある。


それにしても、昭和37年度の千頭営林署は、時ならぬ林鉄の延伸ブームに沸いていたようだ。同資料には次のような記述もある。

(東京営林局)実行で林鉄二級線の延長工事1800m、逆河内支線延長工事1220m、大間川支線延長工事1500mと夏の工事最盛期には爆破の轟音が奥深い山中にこだまし、この建設ブームに多数の労務者で賑わいましたが現在は大部分を完了して最後の追い込みというとこのようです。
(中略)
しかし千頭国有林の理想的な林道網完成までには長年月を要するところで事業の前途は遼遠、多難であると云えましょう。 (おわり)
『東京林友 第15巻第4号』より

まるで、この6年後に迫っていた林鉄全廃を全く予期していないかのような、果敢な延伸の数々であった。

しかし、大間川や逆河内といった支線の後半部は、本線奥地をも上回るほどの険悪地形の連発で、広大な沃林といった感じは全くない。素人目には、何がそこまで林業家を駆り立てたかと不思議に思うような地形なのである。
となるとむしろ逆で、暗い未来を予期するが故に、必死に抗おうとした結果だったのか……。

他の林鉄ではあまり見たことがない、末期の積極的な延伸に不思議さを感じた私は、当時の東京営林局が、千頭国有林に対してどのような長期的計画・構想を持っていたのかを調べてみることにした。
そうして同じく農林水産省図書館で発見したのが、『特定地域としての千頭・気田・水窪国有林と周辺地域開発計画』(以降『特定地域開発計画』)という、東京営林局が昭和37年9月1日に発行した文書だった。

そこに描かれていたのは、私の想像を越える、壮大無比な、理想の林道網計画であった!



『特定地域としての千頭・気田・水窪国有林と周辺地域開発計画』

右図は、『特定地域開発計画』に掲載されていた「千頭団地開発計画位置図」なる図面だ。
ここには昭和37年当時の東京営林局が千頭周辺で計画していた林道や林鉄の全貌が記されている。

斜線で表現された計画区域(千頭・気田・水窪営林署管内の国有林)の中央を南北に貫くように、最も太く目立って描かれているのは、この計画中で「嶺線林道」と名付けられている、幹線的な新設林道である。
これは総延長70kmを越える林道で、海抜2000mを優に越える南アルプスの稜線に沿って、大井川(静岡県)と伊那谷(長野県)を結ぼうとするものだった。
もし実現していれば、本邦有数の観光道路にもなっていただろうものだ。

次に注目したいのは、この嶺線林道の長野県側に接続している破線の道路である。
これは東京営林局の計画する道路ではなく、「中央道予定線」と小さな文字で書かれている。
「中央道」と言えば、皆さん思い浮かべる高速道路があるかと思うが、まさしくこれがそれで、当時の計画では、中央自動車道はこの図面で記されているように、山梨県から長野県へ南ア山脈をほぼまっすぐ貫く予定であり、嶺線林道の終点が予定されていた長野県南信濃村(現飯田市)の木沢(いわゆる遠山谷)にICを設けることになっていた。そこに直接林道を結ぼうという、これは本当に壮大な計画であった。

さて、これらの新設「車道」計画とは別に、ちゃっかり森林鉄道の延伸も計画されていることが、本稿の主題である。
当時のこの地域には、千頭営林署の千頭林鉄(図中で赤く着色)だけでなく、水窪や気田営林署に属する森林鉄道もまだ存続しており、それぞれ軌道の記号で描かれているが、いずれの森林鉄道もこの計画の中で廃止されて林道へ置き換えられることにはなっていなかった。今日の左岸林道は、ここには登場していないのである。
それどころか、本線と各支線を全て数キロ単位で延伸させようという、これが本当に昭和30年代後半の計画かと思えるような大盤振る舞いぶりなのである!




『特定地域開発計画』

左図は同資料に掲載されている、昭和36年度の千頭林鉄の現況と、昭和37年度以降の林鉄の延長及び改良の計画である。

まずは現況についてだが、ここに掲載されている「二級線」の延長の数字を、お馴染みの路線図と比較してみると、当時の本線の終点がやはり栃沢であったらしいことが分かる。(先ほどの資料に照らせば、昭和37年に1800m延伸された結果の栃沢終点である)

次に延長及び改良計画を見てみると、なんとこの「二級線」(=本線)を、さらに10kmも「改良」(「新設」ではなく)することになっているのだ!
栃沢から10kmだとすると、なんとこれは昭和20年に辿り着いた柴沢終点よりもさらに1.6kmほど奥ということになってしまうから、改良ではなく新設も行うつもりだったのだろうか。

まあこの辺りの数字の微妙な差を度外視しても、一度廃止された大根沢〜柴沢間を、昭和30年代後半に再び復活させようという計画があったのは間違いない。
そして実際、栃沢までは復活がなされたということだろう。
支線についても、逆河内支線は最終的に3790mまで延伸されており、『全国森林鉄道』には、これが千頭林鉄全体における最後の新設であったとされている。また、大間川支線の終点付近には未成と思しき区間が存在しており、ここでも延伸が最後まで企てられていたことが伺えるのであった。

なお同資料は、前記のように森林鉄道を延伸して引き続き利用する場合と、左岸林道のような林道を新設しトラック輸送へ全面的に置き換える場合の比較も綿密にシミュレートしている。
内容を省略して結論のみ引用する。

以上のように現在の森林鉄道輸送をトラック輸送に切り替えることは運材コストの面で有利とはならない。すなわち今後20年間は森林鉄道によって有利な運材ができることとなる。
しかし、一般に森林鉄道は、現状では有利ではないといわれている。むろん、新たに作設する場合は、トラック道が有利なことは論をまたないが、千頭国有林全体の有利な開発を考えた場合には、この論はあたらないということになる。だから全体をながめたうえで検討すべきものと思う。昭和13年から25年間にわたり利用してきた森林鉄道を早急に廃止することは経営計画の立場から考えられないことであり、全体の林道整備を確立しながらむしろ有利に活用すべきものと考える。
そこで第2次経営計画を編成するにあたっては、森林鉄道はこの計画によるとおり満度に活用して、この既存の機能を十分に発揮するよう運用することとする。しかし森林鉄道では搬出能力の制約をうけることは当然で、このままでは千頭・気田・水窪国有林の開発に大きいマイナスとなることは明らかである。そこで本計画で、千頭・気田・水窪の嶺線地帯に林道を新設して未開発として取り残された嶺線地帯の開発を計画した。
『特定地域開発計画』より

以上のように、東京営林局はこの当時において、千頭林鉄を今後20年程度は利用し続けることを考えていたのである。
そして、林鉄が到底辿り着けない高標高地帯に嶺線林道を開設して開発するという、輸送方法の分担が考えられていた。

もしもこの計画の通りになっていたら、平成時代まで林鉄が存続した可能性があっただろうが、そうはならなかった。
あくまでもこの『特定地域開発計画』は計画であり、結局は、営林局の上級組織である林野庁に認められなかった可能性が高いと思う。
林野庁は昭和34年に『国有林林道合理化要綱』を各営林局に発出し、新たに開設する林道は原則として自動車道とすること、既存の森林鉄道は原則として自動車道に改良することを指示している。このことが全国の森林鉄道を急速に廃止へと導いた決定打となったのだが、東京営林局も当然これに従わなければならない立場であった。

林鉄の継続的な活用のみならず、延伸をも果敢に盛り込んだ『特定地域開発計画』は、大幅な修正を余儀なくされたのだろう。
結果、昭和43年に千頭林鉄は全廃され、これを置き換えるために左岸林道や日向林道が急ピッチに建設された。
嶺線林道については、南赤石幹線林道という名前で昭和50年代中頃までに約40kmが建設されたが、残念ながらこちらも林業縮小や自然保護問題から、長野県までの延長はキャンセルされた。


以上、
【新事実】 大根沢〜栃沢間の林鉄は、一度廃止された後に復活したものであり、栃沢〜柴沢間にも復活計画があった――についておわり。



釜ノ島〜柴沢 “未踏破区間”に隧道はあったか?



『RM LIBRARY96 大井川鐵道井川線』より

平成19(2007)年に出版された『RM LIBRARY96 大井川鐵道井川線』に、右の表が掲載されている。

右下欄外にあるとおり、出典は昭和27(1952)年に発行された『林業機械化情報』という専門誌とのことで、農林水産省図書館で確認したところ、これは昭和26年時点のデータであることが分かっている。また、転記の際に誤謬したと思える箇所を右図では青字で訂正している。

この現況表の凄いところは、末期の栃沢終点時代ではなく、最も本線が長かった柴沢終点時代の記録だということだ。

「延長」欄を見ると分かるが、千頭堰堤から先の「本線2級線」の全長が20.9kmとなっており、これは後の路線図での2級線の全長12582mと牛馬道の全長8355mを足した20937mと一致するから、柴沢終点時代のものだと分かる。
いまのところ、この現況表以外に柴沢終点時代の路線データは見たことがないので、非常に貴重なものである。

そしてもう一つ、この現況表には凄いところがある。
橋や隧道といった土木構造物の総数や総距離が区間ごとに記されていることだ。
私としては、特に隧道の本数に注目したい!

昭和26年当時の千頭林鉄には、本線・支線および中部電力社線(千頭〜沢間)を合わせて、合計36本の隧道があったらしいのである!
当然、この数字と比較すべきは、自身の探索の成果である。
私はこの一連の探索で、36本全ての隧道を見つけることが出来ていたのか?

……これは、自身の探索の達成度を数字で測られる……まるで試験前のような気分……。

この重大な確認の前にもう一件、比較すべきデータを持っているので、そちらを先に紹介しよう。




『RM LIBRARY96 大井川鐵道井川線』より

右図もまた、『RM LIBRARY96 大井川鐵道井川線』に掲載されている表で、昭和37(1962)年6月調の路線概要である。
こちらは、橋本正夫氏が昭和37年6月に千頭林鉄のほぼ全線である千頭〜大根沢間を乗車往復した際の貴重なレポートである「千頭森林鉄道を行く」に掲載されているものだ。

橋本氏が調べたとみられるこの路線概要だと、終点は大根沢だと書かれているが、全長の数字は栃沢終点を示唆しており(大根沢が終点ならば12.6kmにはならない)、おそらく正しくは栃沢が終点であったかと思う。
そしてここでも注目したいのは、トンネルの合計本数が書かれていることだ。
全線(千頭〜おそらく栃沢)で23本となっている。

これら昭和26年と37年のトンネル本数を記した2つのデータと、私の2010年の探索成果を、出来るだけ区間ごとに比較してみたのが、次の図だ。
いざ、採点の時!



こうして比較してみると、私の発見した隧道の総数は、『林業機械化情報』よりも4本足りない。

この足りない分は、私が探索した区間外、つまり釜ノ島〜柴沢間にあったのか。
はたまた、探索した区間内にあったが、たまたま迂回などによって見逃したのか。
それとも、林鉄が廃止されるまでの時点で撤去されるなどして、いち早く失われていたのか。
いろいろな可能性があり、断定は出来ない。

31本中27本の痕跡以上を確認したというのは、まあ及第点以上ではあろうが、満点ではない。

この件に関して最後にもう一点。
谷田部英雄氏の『千頭山小史』に掲載されている、彼自身が昭和29(1954)年8月17日に柴沢を訪れた時の記事中の、「小休止の後、20分ほどでNO24のトンネルに入る。真っ暗な中を抜けると栃沢小屋である」という記述についてだ。

ここに出てくる「NO24のトンネル」が栃沢の直前であったという内容を、私の今回の探索と比較すると、ピタリと数が一致するのである。
これは橋本正夫氏のデータと較べても1本足りないだけで、沢間〜大間間で見つけた側壁だけが残る隧道が、この時点で既に失われていたと仮定すると、栃沢までの隧道本数は24となってやはり一致する。

このように栃沢までの隧道本数が24であったという説を採ると、栃沢以奥に7本もの隧道があったことになり、私が見つけていないものがまだ4本もあることになる。
しかし、起点寄りの多くの区間でも、私の調査と『林業機械化情報』の隧道の本数にはずれがあり、その原因が不明であるから、なかなか一筋縄ではいかない印象だ。
隧道本数問題については、今後さらに詳しい区間ごとの本数が分かる地図などが発見されることに期待している。

とりあえず、31分の27まで発見済みということで、いまは引き下がるしかない。