2010/5/5 16:29 《現在地》
第22回の最後の地点で撤退を開始してから3分後、100mほど戻った所にいた。
私が2日間をかけて溯行し、これからまた丸1日かけて下らねばならない寸又川の大峡谷が、
幾重にも折り重なる山並みという形で、私をひどく孤立させていることを物語っていた。
この林道を最初の人里(大間)まで辿ろうとすれば、34km以上も走らなければらないのだ。
これほどの隔絶は、私のこれまでの山歩きでは体験したことがなかった。
この遠さだけでも、驚異だった。
3分後、前方の一段高いところに、横に広い釜ノ島小屋が見えてきた。
背後に聳えるのは海抜2000m近い稜線であり、実に900mもの比高がある。
その巨大な全山が、まるで釜ノ島小屋だけの裏山のように見えるのが、圧巻だった。
かつて、この千頭山を名実ともに支配していた、そんな林業の拠点に相応しい姿だと思った。
16:37 《現在地》
釜ノ島小屋前の分岐地点まで戻ってきた。
ここから左に、写真の道へ進むと、釜ノ島小屋へ行くことができる。
往路では素通りしたが、せっかくなので少しだけ覗いてみることにした。
このような寄り道をしている暇はないとも思ったが、次いつここに来られるかは分からないし、来たときには完全に崩壊してしまっているかも知れない。私がここまで辿り着いた記念として、かつての千頭国有林の拠点を目に焼き付けて帰ろうと思った。
まず目に付いたのは、入口通路の脇にポツンと置かれた、赤さび色の見慣れない金属製タンクだった。
タンクの正体は、東京機器工業株式会社という(現在はない)メーカーが製造したガソリン計量機であった。
ジャンルとしては、今日我々がガソリンスタンドで目にする給油機に可搬性を持たせたもので、現代でも製品が出ているようだが、ハンドルを手動で回して給油するこのような旧式機械は、マニアがいるレトロなアイテムになっているようだ。
銘板にある製造年月は昭和28年12月を示しており、まさに林鉄時代を生きた骨董品だった。
したがって導入当初には実際に森林鉄道用機関車(ガソリンを燃料とする内燃機関車が用いられていた)へ給油を行っていた可能性がある。
林鉄の廃止後はここに置かれて、林道を走行する各種自動車への給油を行っていたのだろう。
で、この短い坂道を登り切ると……
16:38
ドーンと、全貌が。
右手に見えるのは、おそらく車庫だ。だが1台の車も残されてはいなかった。
そして、正面のさらに一段高い所には、平屋の建物が何棟も並んでいた。いかにも宿舎の佇まい。
小根沢にも大根沢にも複数の廃屋があったが、それらを上回る規模だとすぐに分かった。
周囲の森、そして背後の山に、満開のヤマザクラが点綴していて、
既に日が落ち、曇りの暗さになっている一帯に、清楚を超えた、幽玄を感じさせる彩りを加えていた。
さらに1段、自動車も通れる広いスロープを上がると、宿舎群の前に辿り着く。
土地は段々に造成されており、格段に細長い平屋が建ち並んでいるようだ。
外壁はプレハブで、純粋な木造建築だった小根沢や大根沢など軌道跡沿いの建物と一線を画している。
明らかに、より新しい時代の建物である。林鉄に代わって林道がこの地に通じた昭和40年代に建設された建物なのだろう。
右は、建物の前にあった、(遊具の)鉄棒らしきものだ。
長期間の山泊で働いた屈強な林業従事者を慰めるには少々物足りない印象だが、果たして愛用されていたものだろうか。
建物は大きいが、玄関は古い民家のような普通の木戸だった。
閉ざされているが、当然、人の居る気配はない。
建物の周囲に電線が張られていて、かつて自家発電による文明の灯りが、この山中に煌々と灯っていたことを想像させた。
今はこの半径十数キロに、一つの灯りもないはずだ。
そして、玄関前の壁に見つけたホーロー看板には、興奮を禁じ得なかった。
激しく錆びが回っており、描かれていたイラストは半分以上失われていたが、それでも私の目には、はっきりと見て取ることが出来たから。
大勢の作業服の男たちが一箇所に集まって、始業前の準備体操に勤しんでいる……、そんな山の賑わっていた当時の姿を!
賑わいの消えた玄関に、手をかけた。
正直いって、廃屋の探索を始める時刻じゃないとも思ったが、選ぶ余地なしだ。
ガラガラガラ……
ごめん下さ〜い……
引き戸の扉は難なく開いて、私を受け入れた。
中に入ると、まずは小学校を思い出させるようなたくさんの下駄箱が目に飛び込んできた。
大勢がここで寝泊まりしていたことを改めて確信させられる光景だ。また、意外に暗くないのでホッとした。
消えた彼らの靴の代わりに棚を疎らに埋めていたのは、どこかの釣り人が残していったらしき靴や網、
それに現代的な携帯ガスボンベと、あとは大きな鍋、蚊取り線香などのアイテムだった。
得体が知れる気がして、さらにホッとした。
外見もそうだったが、中は十分に寝泊まりできそうなくらい綺麗だった。
昨日泊まった小根沢の小屋は“あばら家”と評すべき状態だったと思うが、
ここはそれよりも遙かに上等でである。居心地が良さそうだ。
それだけに、200mほど先の林道に置き去りにしてあるデカリュックを連れてきて、
そのままここで一晩を明かしてしまいたいという、そんな“楽の道”がチラついた。
だがそれをしてしまうと、明日がとてもとても辛くなるのだ。行程の長さ的に。
そもそも、まだ明るい時間にここで寝てしまうなら、その時間を使って柴沢へ行けたじゃんという、
そんな後悔にも繋がりかねないだろう。
だめだ。まだ明るいのだから、ここで寝るのはダメ!
いかにも宿舎らしく、同じ造りの6畳間が廊下の片側にいくつも並んでいた。
扉はぜんぶ襖で、開いたままの部屋と閉じた部屋があった。
面倒なのと、気持ち悪いのとで、閉じた部屋を全て覗くことはしなかった。
最初は綺麗だと思ったが、このように中には天井が抜け落ちてしまっている部屋もあった。
当然、そんな部屋は酷く荒れ果てているが、屋根が無事な隣の部屋は何事もなく綺麗だったりして、
一つの建物の中なのにまるで経年が違うようなものを見せつけられて不思議な気分になった。
ここから先は、簡単に紹介していこう。
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こんなプラスチック製の意外に現代的な装飾品を見ると、ここが“昨日の宿”とは時代が違うことを実感した。しかし、両方の宿を体験した“ベテラン”も当時は大勢居たことだろう。
| ここはとても綺麗な部屋だ。インベーダーと化した釣り人も目ざとくここに宿り、そのまま寝袋やタオルなどを残していった模様。また来るつもりがあってのことだろうが、もう厳しいんじゃないかな…。
| ここもかなり綺麗な部屋だ。一升瓶や蚊取り線香があった。“昨日の宿”と較べると、ちょっと部屋が多すぎて、一人で泊まるのは逆に怖い感じがした。全部の部屋を先に確かめたくなるよねこれ…。
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矢印のところに張ってあった紙きれ。いつのものかは分からないが、無線連絡網を知らせる内容だった。「ネミズ」と「お立ち台」の2箇所に緊急時用のヘリポートがあったことも分かる。また、おそらくこの場所が「釜ノ島製品作業場」と呼ばれていたことも判明した。
| これはちょっと閲覧注意か。遅いけど。この部屋はコウモリたちの巣窟になっていたようで、もの凄い量の糞が堆積していた。別の部屋に、「戸を開けたら必ず閉めること!コウモリが入ります!」という走り書きを見つけたが、廃墟化後の侵入者は釣り人だけではなかったのだ。
| ああ、これもとても珍しいものだろうなぁ。博物館とかでしか見ることが出来なさそうな、古い壁掛け電話機(こういうの)をベル部分だけにしたようなアイテム。絶対に故障していないと断言できるほど、見た目の程度が良い。非常ベルだったのかなぁ。
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階段を上るが、この先は2階というわけではなく、段々になった地形に合わせて伸びる上段の平屋への渡り廊下である。2階じゃないので踏み抜きの不安はないし、床もまだまだしっかりしている。
| 上の段の建物も同じような宿舎だが、廊下と区切られていない少し大きな部屋があった。そこは板の間で、神棚が祀られているのが特徴だった。共用スペースだったんだろうな。
| 神棚には3枚のお札が祀られていた。まん中の1枚は隠れていて文字が読めなかったが、左右はそれぞれ「大井神社御守護」と「秋葉神社火災鎮護」のお札だった。色鮮やかな昇り鯉の陶飾りもあった。
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神棚の部屋には、各種車両のキーボックスもあった。当時使われていた車両の種類がこれで分かる。「大型ユニック」「大型バス」「軽四輪」「フォクローダー」「フォークリフト」「林道トラック」「ブルドーザー」 …こんな多彩な車が入っていたのだ。
| ここは炊事場。山男たちの巨大な胃袋を満たす大切な戦場であったはず。何か食べ物の匂いに釣られて野獣でも突進してきたのか、扉が蹴破られたように壊れていた。私はそこから外へ出た。
| 上段の敷地から見下ろす下段の建物。低く地に伏せて軒を寄せ合うようなようなその姿は、巨大な深山のただ中で、夜の闇の恐怖から人類を守る、建物の原始的効用の真剣さに満ちていた。
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便所は建物の中にも大きなものがあったが、なぜか外にも離れとして存在していた。(そういえば、風呂場を見なかったが、どこかにはあったのだろう)
| 山を背にした離れにある、傾いた小便所。なんかコントのセットみたいで可愛らしい。連れションできるのがいいよね。だが背後の斜面は直に2000m級の稜線まで駆け上がる。
| 玄関から帰還すべく、もう一度建物の中へ入った。寝床となるような小部屋はおそらく20室くらいもあって、いちいち全てを覗いてみなかったが、偶々この帰り道で扉を開けて覗いた部屋で、私は遂に、住人との出会いを果たす。
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隧道ぬこ、
お前だったのか〜!
お前たち、本当に全国の俺の行く先々で待ち伏せしているな。
ぬっこりしやがって!
神棚に手を合わせてから、玄関をくぐって外へ出た。
これ以上暗さが近づいてくる前に、私の宿を探さなくては。
それにしても、“彼ら”との遭遇は、私に思いがけない印象を残した。
ハクビシン(隧道ぬこ)たちは、ここで生まれて、ここで老いて、ここで死ぬのだろうか。
彼らは、人が作り出した建物を住処としながら、一度も人を見ずに、生涯を終える可能性が高かったのだ。
彼らにとってこの建物は、失われた古代文明の遺跡のようなもので、とても不思議な存在に見えただろう。
なぜこんなに住み心地の良い場所を作る力を持ちながら、彼らは“絶滅”、したのだろうかと。
そのくらいに人は、この地への介入を、完全に断ってしまっている。
それも、自然保護を目的とするような自制ではなく、経済社会の変容が、人と文明をここから遠ざけてしまった。