廃線レポート 千頭森林鉄道 奥地攻略作戦 帰還編 第2回

公開日 2019.07.06
探索日 2010.05.05
所在地 静岡県川根本町


さあ、いよいよ帰り始めるぞ!


左図は、このレポートの冒頭でも使った千頭林鉄の全体図であるが、これからの帰路である寸又川左岸林道を強調して描いている。

左岸林道は、大間の起点から、柴沢奥の終点まで、おおよそ43kmもある、本邦有数の規模を有する行き止まりの林道で、現在地は約34km地点の釜ノ島だ。
今日の残りの時間と、明日いっぱいを使って、最終的には大間へ帰る必要があるが、半分以上はこの林道のお世話になる予定である。
そしてとりあえず、今日はこの林道を大根沢辺りまで戻る計画だった。


上図は左岸林道の標高グラフで、起点から柴沢(36km地点)までの区間を描いた。
これを見れば分かるように、左岸林道は一般的な谷沿いの林道と異なり、単純な片勾配にはなっていない。
起点から20km付近までは延々と上り続けるが(自転車に不慣れだったはじめ氏をノックアウトしたのが、この上り坂だった)、そこからは一度大きく下り、後はアップダウンを繰り返すような形になっている。

谷底に縛られていた林鉄が典型的な片勾配であったこととはだいぶ違った印象で、自動車林道の機動力が活かされている。
ただ、支流の谷に沿って山腹の起伏を大きく迂回するために、距離は林鉄よりもだいぶ長くなっている。
大間から釜ノ島まで林鉄が28〜9kmであったのに対し、左岸林道は約34kmだから、2割近く長いのである。

ともかく、今日これから戻る区間には、上り下りがあるということを念頭に進んでいく。
まあ、自転車ではないので、あまり影響はないと思うが。
むしろ重要なのは、どのくらい荒れているのかということだろう。

釜ノ島小屋、出発!



左岸林道33.0km付近 林道の現状を目の当たりにする


2010/5/5 17:00 《現在地》

宿舎前の左岸林道へ降りてきた。
ここから左折して、まずは置き去りにしてあるデカリュックを目指す。
軌道跡は、今はまだすぐ傍にあるが、ここを出ればお別れである。左岸林道は二度と接することはない。

写真の中の風景は、既に霞がかったような薄暮に包まれつつあるが、過去の暦を確認したところ、探索当日(2010/5/5)の静岡県の日の入りは18:35だった。現在時刻17:00は、日没まで1時間半の猶予があったはずだが、2000m級の山並みに囲まれた深い峡谷の日没はこんなに早い。

これから確実に薄暗くなっていくしかない世界に恐怖を感じた。
荷物を減らしたいというただ一つの理由から、敢えてテントを持たずに探索していた私だったから、どこかで屋根と壁のある場所を探して泊まらねばならないという焦りもあった。
幸い、この林道上には数キロごとに、避難可能な小屋があることを聞いてはいたが、自分の目で見ていないので、ここを出発することには、大海へ漕ぎ出す水夫の不安があった。



17:05 《現在地》

5分後、見覚えが有りすぎるデカリュックを発見。
私がそうしたのだが、道のまん中に堂々と転がっている姿を見ると、ちょっと笑えた。
普通、こんな広い道路のまん中に荷物を置き去りにしていくとか非常識なんだけど、この道ではそういうことが許されると思ったんだろうな。55分前の私は。

さて、こいつを背負ってからが、本番だ。
荷無しの状態は本当に爽快だったが、もうそんなハッピータイムは終わり、本来の苦しさが戻ってくることだろう。

よっこい………… ぐへぇ




デカリュックを背負い、今度こそこの場所に留まる理由はなくなった。
ここから先は、初めて歩く区間だ。

「よしっ!」のかけ声と共に気合いを入れ直し、ここから30km以上も続く林道の行く手に目を向けると、大きな土砂崩れの現場が見えていた。

驚きはしないが、恐怖した。
いったいこの道は、どれほど荒れていて、どれほどの時間と体力を奪われるのだろう。
実質的に、ほとんど選択の余地なく、この道で生還しなければならない状況だったから、これは真剣だった。
この崩壊が、あまり酷いものではないことを願いながら、ゆっくり歩き始めた。





ぐへぇ……

見えていた落石現場へ辿り着いてみると、その非情な奥行きの大きさが、私の表情を硬くさせた。

現在進行形で崩れ続けているらしき、暗灰色の崩壊現場。
磊磊たる崖錐によって路肩まで完全に埋もれているので、この足の踏み場のない所を慎重に歩いて行くしかない。
鈍足を強制される状況だった。

こういう踏破は、軌道跡で飽きるほどやったが、林道に来ても変わらないということか……。
元の道幅が広いのと、新しい分だけ、マシだろうとは思うが、釜ノ島を出てものの300mでこの有様というのは、本当に先が思いやされた。
やはり、柴沢を諦めたのは英断だったかも知れない。

3分ほどかけて、写真奥のカーブミラーが写っている所まで進んだが、そこから見た景色が、やばかった…。




17:14

ははは……

…………

無事に帰れますかねぇ、これ……。


もちろん、帰ったからこれを書いている訳だけど、この時の私は間違いなく恐怖した。



ちなみに現在地は、「目」のアイコンの辺りで、三角形の方向を見ている。

なので、このまま林道の下の方に視線を移動させていくと……



軌道跡が見える!ない! あるんだけど見えない!

あの果てしない平滑なガレ場は、第19回の15:37に遭遇・突破した崩壊地に他ならなかった。

したがって、矢印の辺りを軌道跡が横断しているし、実際に私も足跡を刻んだわけだが、何も見えなかった。

手前の森の中には、最後の隧道も隠されているのだが、同上。

何も知らない人がこの景色だけを見て、軌道跡の存在を知覚することは絶対に出来ないだろう。



17:17
とりあえず、路面の状況は一時的に回復した。
荒涼たる雰囲気はありつつも、普通に車で走れそうな状況となった。
しかし、直前に見た巨大な崩壊地が、これから間もなく現われるはず。
緊張が途切れない。

17:19
始まった。
軌道跡で乗り越えた大崩壊の上部横断という、おそらくこれから何度かやらねばならないだろう難関、その第一弾が。

凄まじい迫真の荒涼感に、息が詰まり、冷や汗が垂れる。
いや、もう私の肌は埃に汚れきっていて、汗も滲むのを忘れていたかも知れないが。

崩壊一色に染まった景色の中に、かつてここが左岸林道だった名残のキロポストが、崖に転がされそうになりながら辛うじて踏ん張っていた。
錆びきった盤面に、「33.5」の数字。
デカリュック地点から、たった500m前進できたことを教えてくれた。



この繰返し現われるキロポストの数字は、私にとって生還へのカウントダウンにも等しい、とてもシンプルかつ絶対的な意味を持っていた。

私はこれから、数字が「13」くらいになるところまで、この左岸林道だけを、ひたすら歩いて進まねばならない。
単純にあと20km以上もあるが、この数字からは逃れられない。それこそ、昇天でもしない限り。
今まで、これほどの距離の林道を続けて「歩いた」経験はなかったと思う。2日間かけて進んで来た距離の遠さを、改めて思い知る。

そんな帰りの果てしなさを考えているうちに、この巨大な崩壊地は突破されていた。
基本的に、林道の幅は軌道跡より遙かに広いために、これほど派手に崩れていても、比較的に傾斜は緩やかで、正面突破が可能だった。

帰路にこの林道を選んだ理由の根幹にあったこの目論見が、おそらく外れていないと感じられたことは、予想以上の高頻度で現われた崩壊地の中で唯一手にできた、良いニュースだった。



17:24
この左岸林道は、昭和40年代の後半に建設されたというから、まだ築50年を経ていないはずだが(探索当時)、早くも山の斜面の中に溶け込みつつあった。
それだけならば、厳しい自然環境に取り残された林道の悲哀と感じられようが、罪深いことも指摘しなければなるまい。

それは、この林道の開設が引き起こした巨大な斜面崩壊に、自ら呑み込まれて消えようとしていたという、なんともウロボロス的な現実だ。

このことは、自然保護団体がしばしば指摘したような未来予測の危惧ではなく、林道開設前後の航空写真比較(←)によっても明確に窺い知れる事実だ。

不安定な斜面を撫で切りにした林道は、それが建設された時点で、谷底まで連なるような斜面崩壊をいくつも引き起こしていた。
軌道跡を壊滅的に荒廃させ、私を苦しめまくった真犯人は、どう考えてもこの林道である。今は、それに頼って、助かろうとしているわけだが…。



景色が、私の後ろで静かに閉じていく。

そんな感覚があった。

常人には辿り着き難い、秘奥の景色だった。
私如きでは、とても極めきれなかった、私の地力を遙かに上回る山岳世界の秘奥があった。

それが、閉じていく。
噛み合う歯車のような峡谷が、私の後退と共に奥から次第に塞がって、千頭国有林の名を代表する千頭山(写真左端のピーク)や、この水系の最も奥にある県境の主稜線(奥に霞む稜線、加加森山2419m)といった、麓からは決して見えない山々を、私から取り上げつつあった。

自らの勝ち取ったこの景色を、次第に手放していくのが名残惜しく、時間がないと焦る中にあっても、数度振り返って撮影した。




17:34 《現在地》

釜ノ島小屋前を出発してから約35分、約1km前進し、尾根の突端を回り込む大きなカーブに差し掛かった。
ここは軌道跡の探索時、原形を留めた吊橋を見つけたり、その少し前に隧道を潜ったりもした尾根だ。

路肩から下を覗くと、ほとんど垂直にも見えるような急斜面の下に、寸又川の流れが見えた。だが、その岸にあった軌道跡は木々に隠されて見えず、吊橋も同様だった。

ここまでずっと道は上り続けていたが、川は反対に下っている関係上、比高は既に100mを超えるまでに拡大していた。そして今後もこの数字が大きく減ることはない。
よって、軌道跡は林道からは見えないと結論づけても良さそうである。
実際に谷底を歩いた者だけが、その在処を知ることが出来る、そんなシビアな存在だった。


この写真も同じカーブで撮影した。
正確には、カーブを曲がりきる出口の辺りだ。

ここを過ぎると進行方向が変わり、振り返っても二度と釜ノ島の奥に広がる景色を見られなくなる、そんな決別の場面だが、一方で進行方向には新たな景色が展開してくる。

(チェンジ後の画像)
正面の路肩から向いの山肌を観察すると、この道の続きが、目に見える等高線のように横断しているのが見えた。
完全に切断されるような崩壊地がなさそうでホッとしたが、同時に、その果てしない遠さに辟易もした。

しかも、これでもまだまだ大序盤、せいぜい1.5km先までが見えるに過ぎない。
あの道が見えなくなる尾根の向こう側で、ようやく、栃沢だ。
今日進みたいと思っている大根沢は、栃沢から更に一つ尾根を回った先である。
まだまだ歩みを緩めることは出来ないし、そもそも休める(宿れる)ような場所も現われていない。
ここでうっかり1時間経ってしまったら、なすすべもなく真っ暗闇に包まれるのだと思うと、怖くて仕方がなかった。




左岸林道31.0km付近 林鉄の荒廃を決定的にした林道


2010/5/5 17:38  酷い有様だ。

メンテナンスがされなくなってから、どれくらいの時間が経過しているのかは分からないが、とにかく道路上の法面が、軟体にでもなってしまったのかと思えるくらい、見渡す限り、崩壊していない場所がなかった。
道幅は広いのに、路肩まで目一杯障害物が散らばっている状況は、それだけ大きな回転力を持った転落物が多いことを示唆していて、すなわち落石を供給する斜面の尋常ではない高さを物語っていた。ここに安全な場所は全くないだろう。

道幅が広いために、軌道跡のように途絶している不安はほとんど感じないものの、楽に歩かせてくれないのである。
障害物がない平らな地面を歩行する労力が「1」だとすると、こういう瓦礫の上を歩くのは「3」は疲れる気がするし、時間も余計に掛かるのはいうまでもない。うっかり捻挫でもやらかしたら、こんな林道上で野たれ死ぬ恥辱もありえるだろう。とにかく、何が何でも、先を急がせてはくれなかった。
搾り取るつもりなのだ、一滴でも多くの汗を。



17:46

だんだん、写真を撮影する頻度が減ってきていた。
これは、前の写真から8分後の撮影である。
この間の風景の繋がりを記憶していないが、荒涼を絵に描いたような廃林道が続いていたのは間違いない。

次第に薄暗さを肌で感じるようになっているせいで、焦りが深まっていた。
釜ノ島を出てからまだ1〜2kmしか進めていないのに、時間は足早に過ぎているように感じられたし、宿れるような場面が全く見当たらない。というか、本当にそんな場所があるのかという不安もあった。

この3分後、黙々と歩き続ける私に、さらなる試練が加えられようとしていた。

それは、心を折ろうとする、恐ろしい試みだった。

大崩壊地?  そういう方向のものではなかった。





17:50 《現在地》

果てしなく遠い!!!

彼方の山に、辿るべき道の続きが見える!



6〜7km先の道が、霞んでいた。



いま見えている範囲を地図上に示せば、上図のようになる。

一番近くに見えているのは0.5km先、次は栃沢を越えた2.5km先、

さらに大根沢を越えた6.5km先と7km先が見えているのに留まらず、

夕霞の中でぼんやりとではあるが、なんと小根沢の向こうの12km先の道まで見えてしまっていた。

しかし、この見えている全てを辿りきってもなお、帰路の半分にも達していないという現実が……。



カシミール3Dで、眺望を確認したのが、この画像だ。

とりあえず今日は大根沢の周辺まで行きたいと思っているが、達成できても、明日は楽ではない。

そのことは、数字の上では分かっていたはずだが、改めて、視覚的に、ここで思い知らせられた。

この山からの生還は本当に遠い。あらゆる人里が、遠すぎた。




17:51

人が長距離を歩くよりないときに考えるのが、小さな一歩の積み重ねが、ゴールへ近づく唯一の手段であるということだ。そう考えることで、己を励まそうとする。
あまりに当たり前で、わざわざ口にしたり文章にする新しさはないが、本当にそれしかないという状況は、現代人が普通に生活する中で案外にないことかも知れなかった。

通常、多くのことには、対価を払うことで開かれる近道や、止めるという逃げ道が用意されているだろう。
登山でさえも、引き返すということが、普通は可能であるはずだ。
だが、こんなにも奥深い“行き止まりの山道”へ分け入ってしまった者の帰路には、逃げ道がない。
本当に、ただ黙々と、一歩一歩を重ね続けるより手がない。(軌道跡へ迂回することは、正直考えなかった)

道とも思えぬような崩壊地の傍らに現われたのは、32.5kmポストだった。
どうやら、33.0kmポストは見ずに通り過ぎてきたようだ。




17:52
32.5kmポストの数十メートル先は、山側だけでなく、路肩も大きく抉れたように崩れていて、将来に大きな不安を感じさせる場面だったが、あまり近づきたいと思えない縁に近づいて覗いてみると、そこには絶望的規模のガリーが口を開けていた。

おそらくこれは、第18回の14:05に見た崩壊地へ続いている。その比高はおおよそ170mに達する。

もうこんなものは林道にとって、死神の鎌を首に引っかけられているも同然である。
あと数回、この縁を大きく後退させる崩壊が起これば、路面は完全に失われ、やがてこのようなガリーを横断するか(極めて危険そうだ)、超絶高巻きするかでしか、超えることができなくことだろう。
2019年現在の再訪の妨げになっている可能性もある。




17:59 《現在地》

しばらく進むと、林道に入ってからは聞いていなかった、しかし少し前まではよく聞いていた音が、聞こえてきた。それは、滝の音である。すぐに音の正体は姿を見せた。
林道の法面に高い滝がかかっていた。本来、滝の水は林道の下を潜っていたのだろうが、その暗渠は大量の堆積物によって、路面もろとも埋没していた。そのため水は路上を流れていた。

ここで私は、水の補給をすべきか悩んだ。
レポート中ではあまり触れていないが、私は水と食料を必要としている。
幸い、食糧については残量に十分な余裕があったが(デカリュックの荷物の半分以上は食糧関係だった)、飲料は2日目からずっと現地補給(粉ポカリ)であった。本当なら煮沸してから利用すべきだろうが、伝統的に私はそれをしておらず、飲めそうだと思えば自由に補給して飲んでいた。

林道上では水を補給できる場所がかなり限られているはずで、ここでの補給を考えたが、荷物を最小限にしたいというジレンマもあったから、ここをスルーして栃沢で補給することにした。



林道を洗い越しした滝の水は、捻り込むような急峻の谷となって、寸又川の峡谷へ落ちていた。冷気を帯びていて不気味だった。

なお、この水の170m下にある景色も、私は知っている。
第18回の13:55に見上げた連瀑がそれである。

軌道は、この滝をささやかな木橋で渡っていたようだが、林道はその中腹を強引に土砂で埋立てて横断したようである。
当時のイケイケな林道作りにおいて、この滝を保存すべき風景とは、誰も見なさなかったのだろう。

由来不明ではあるが、グーグルマップはこの滝に「三昇の滝」という注記を付けている。




18:04 《現在地》

第18回の軌道跡の風景を、その170m上部で逆の順序で再体験するのが、この林道の歩行である。
しかし、これだけの高低差があれば、そこに全く関連性を感じられなかったとしてもおかしくないと思うが、実際そうはなっていなかった。

第18回を逆から辿れば、滝の次に現われるべきは……

そう……
13:51に遭遇した、【“圧巻の大崖壁”】に他ならない!

滝から150mほど進んだこの辺りが、林道があの大崖壁の上を横断する地点であり、林道も全くの無事では済まないだろうと、4時間前からおそれていたのであるが……、

道は無事に繋がっていた!

やはり路肩が欠け始めていて、将来が大いに危惧されるものの、この時点では、特別に苦労することなく、林道として横断することが出来た。

そのことに心底安堵しつつ見下ろした、路肩からの景色は、凄かった!!!





信じ難い見通しの良さで、
170mも下を流れる寸又川の水面がよく見えた。

軌道跡は、途中で斜度が変わる崖の影になって見えないが、有る。そのことを私だけが知っている。



先ほどの大崩壊も、この“超”大崩壊も、ともに林道を崩壊の頂点としていて、その崩れ方の規模からすれば、すぐに寸断されても不思議ではなさそうな林道が、今も上端として現存している。
林道に特別な補強があったようにも見えないのに、これは一見、不思議な現象のように思うかもしれない。
まるでそこに、林道を守る何らかの超然的意思が存在しているかのような…。

だが、これらの斜面崩壊、或いは山体崩壊の原因が、林道建設時のズリ落としや、その後の林道排土による林道下の植生崩壊にあったとすれば、林道上部と下部の崩壊が接続していない現状も、自然と納得できる。

事実、林道から見晴らす周囲の山には、林道周辺ほどに崩壊地は見当たらず、林道の開設が千頭山の怒れる地竜を呼び起こしてしまったことを示唆している。
こいつが再び鎮まる時がいつなのか、私には皆目見当も付かない…。




上の写真に描いた線は、この少し下流から始まる寸又峡の巨大な蛇行に沿って迂遠する、軌道跡のおおよその位置を示している。
直線距離僅か500mの間で、「▲」マークを付けた小山の周りに2.5kmも迂回する部分で、第16回から17回にかけて長々と探索したのであるが、周辺に多くの植林地を見た比較的穏やかな区間であった。

一方で林道は、釜ノ島から2km以上にわたって上り続け、約100mの高度を稼ぐことで、この面倒な迂回尾根の上をスムースに乗り越えることに成功している。
右の写真は、「▲」の小山の頭越しに臨まれる、寸又峡本流のV字スリットを見ている。
あの辺りまで行けば大根沢は目前だが、まずはその前に、栃沢を渡らねばならない。




18:11 《現在地》

釜ノ島小屋を出発して約70分後、2.5kmの地点にある、最初の峠(ピーク)に到達した。
この海抜1150m地点で、寸又川を大きく蛇行させている(前述した迂回)尾根の基部を越える。
ここを過ぎると道は少しだけ下りに転じ、栃沢を渡る橋までは残り700mである。

ここで一旦、進行度合いを数字として測るために時速の計算をしてみたのだが、それは時速2.1km少々というもので、林道歩きとしてはかなりの遅速だった。主に疲労が原因だろう。とはいえ、軌道跡を歩いている中で、これ以上のペースをたたき出した時間はなかったかも知れないとも思う。腐っても林道の方がマシだろう、たぶん。
林道の時速が分かったので、この調子で林道を進み続ければ……、続ければ………………、あと15時間くらいで林道の出口へ辿り着ける計算か……。
ちなみに今日の活動は6:00前から始めているから、約12時間経過したところだったりする。




時速の計算はまだしも、その先を計算するんじゃなかったぜ……。

ぶっちゃけ、終わってんなと思ったよ。
大丈夫なのか俺……?
明日、無想吊橋どころじゃないんじゃねーのか…。

正直、気持ちも疲れ果ててしまい、気を取り直してという気にもならなかったが、現実としてこの場所は、尾根の例に漏れず、眺めが宜しかった。

左は、振り返った風景。
30分ほど前に越えた尾根の山肌に、越えてきた道が鮮明に見えた。
あの裏側が釜ノ島だが、そこはもう夜の闇に閉ざされてしまったのではないかと思えるような、谷の深さだった。

右はこの先の風景。
栃沢と大根沢を隔てる尾根の山肌に、これから行く道が見えた。
所々、大きく崩れているのが、ここからも見えた…。




次回、否応なく夜を迎える。



自転車(大樽沢)まで あと19.5km