廃線レポート 千頭森林鉄道 奥地攻略作戦 帰還編 第5回

公開日 2020.11.13
探索日 2010.05.06
所在地 静岡県川根本町

左岸林道26.0km付近 大展望林道、イロイロ見えた!


2010/5/6 7:32 《現在地》

寝水宿舎跡の探索を終え、左岸林道を再び日向分岐目指して歩き始めた。
するとすぐに大きな看板が路傍に立っているのを見つけた。

「天然林除伐施業試験地」
ここから登っていった標高1200m付近に、林業試験地があるらしい。
看板の内容に依れば、平成2(1990)年に千頭営林署が設定した試験地とのことで、一度皆伐した土地を自然に任せておき、生えてきた樹木の一部を選択的に伐採(除伐)して、再び有用広葉樹の森林へ戻す過程を試験する土地とのことだった。皆伐は昭和40年、試験的な除伐は昭和61年に行われ、平成2年から試験地として観察を続けているとあったが、既に見届ける者がいなくなってしまった懸念が強い。

平成16(2004)年に千頭森林管理署(旧千頭営林署で平成11年に改名)が解体され、静岡森林管理署に併合されたと同時に、千頭山国有林一帯での国有林経営は事実上終了し、奥地へ通じる唯一の道路である左岸林道も維持されなくなっている。
道がなくては最低限の管理すら難しいのは言うまでもない。そして、一度荒れ果てた道を元通りにするのは、時間の経過と共に難しくなっていく。わが国はもう二度と千頭山に手を入れる気がないのかと思ってしまうが、本当にそうなのかもしれない。



7:41 《現在地》《標高図》

道の状態がとても良い。既に最後の崩壊地を過ぎて現役区間に入ったのかも知れない。寝水宿舎跡からは、好調な路面を維持したまま500mほど前進している。そして、「25.5」キロポストを見たすぐ先で、進行方向の南側に大きく視界が開ける場面があった。

小根沢の対岸の高みを走る約6km先の左岸林道(直線距離約1.5km)が、目線よりもだいぶ高い位置に遠望された。
林道はあと2.5kmほどで小根沢を渡り、それから登り坂となって“峠”に挑む。峠といっても鞍部を越えるわけではなく、山腹の高い所を渡っていくのだが、ピークの標高1200mオーバーの辺りが、いまちょうど見えている。
この1200mという標高は、今回の探索の行程における最高到達高度でもあった。

右の奥に見える孤高の峰は、寸又川の右岸に聳える前黒法師岳(1943m)で、直線距離で約8.5km離れている。
背後が真っ白なのは青空が眩しくて白飛びしてしまったせいだが、そこにはもう背景となるような高山がないことも意味している。
また、ここからあの山頂までの距離とほぼ同じくらい離れた寸又川の谷底に、帰り着くべき寸又峡温泉(大間集落)がある。




7:47

麓に通じる南へ行きたいのに、地形と道はそれを許さない。
等高線に沿って、東あるいは東北東への大迂回が、小根沢を渡るまで続く。
この迂回の序盤は、小根沢と寸又川の合流が作り出す大空間が眼下にあるため、とても眺望に恵まれる。

前黒法師岳の西側に黒法師岳(2068m)があり、同山は南アルプス(赤石山脈)の主脈に属するのだが、
前黒法師と黒法師を結ぶ枝尾根を峠越えする、ひっかき傷のようなラインが見えた。
標高1700m付近の高所、直線距離で約9.5km離れた地点に“浮かぶ”ような道は、
南赤石林道である。




南赤石林道といってもピンと来る人は多くないだろうが、千頭森林鉄道や左岸林道とは関係浅からぬ道である。
私もそれが分かっているから、ここで初めて「見えた」瞬間は、とても興奮した。
少し説明しよう。

本編の超序盤である導入1で、今から2日前の早朝に左岸林道の入口ゲートを抜けたシーンがあったが、そこで【こんな林道標識】を見たことを思いだして欲しい。
実は、この寸又川左岸林道の現在の正式名は、「南赤石(寸又左岸)林道」といって、南赤石林道の一部を構成するものだ。

そして、同じように南赤石林道の名前を持つ道が、右図の通り、千頭山の各所に点在している。(図の青線がそれ。桃線は現在地からの“視線”を示す)
具体的には、足元の左岸林道の全線と、いま向かっている日向林道の終点付近より分岐している2本の短いピストン林道、それから今見えた前黒法師岳付近の林道が、南赤石林道の構成員である。
中でも、川根本町役場近くから43kmほども伸びて前黒法師岳へ達するピストン林道は、南赤石(南赤石)林道といって、南赤石林道の本線格の存在だ。

もうお分かりだと思うが、これらの異常に長すぎるピストン林道たちは全て、ひとつながりとなる構想を有している。
これらの林道が計画されたのは昭和30年代後半で、当時は東京営林局と長野営林局の垣根を越えて長野県(飯田市、旧遠山村)へ通じる、南アルプス縦断全長100kmに迫る本邦最大級林道兼産業道路兼赤石山脈中枢の山岳観光道路として構想された。鶏冠山と池口岳の間の標高2200m付近にトンネルを抜いて長野県側へ通じることが検討された。

千頭林鉄の時代の伐採地は谷に近いところが多かったが、昭和40年代からは林鉄に代わる林道を中腹や稜線付近に開設し、高地の未開発林の伐採を進めることになった。そのため左岸林道や南赤石林道が千頭営林署の手により猛烈な勢いで整備された。両者を合わせて1年で10km近くも開設された年があったほどだ。だが、50年代以降は国内林業の低迷や環境保護問題もあって(同時期には南アルプスを横断するもう一つの路線である南アルプススーパー林道が、メディアでもしばしば取り上げられた)、延伸が凍結されたまま今日に至る。
それでも、林道名に当時の偉大な構想の名残があるというわけだ。ちなみに、南赤石林道もご多分に漏れず放置されており、山犬段以北の20km以上が完全な廃道状態である。



7:49

まだ、整備区間には出ていなかった模様。(ガックシ…)


……何であろうと、歩き続けるだけだ。

歩き続けてさえいれば、間違いなくゴールは近づいてくる。

永久に繋がることはない前黒法師の終点を霞の向こうに見上げながら、私は私の終点を目指す。



7:52

これは反対に寸又川上流方向、踏み越えてきた方向の眺めだ。
左岸林道は8kmほど後方(直線距離で3.5km)まで見えていた。
あそこは昨日の17:50に、「果てしなく遠い!!!」って叫んだ場所だよ。ようするに釜ノ島の近く。
一晩明けてこれだけの距離を“帰って”きたことを、その頑張りを、俯瞰できる場面だった。



7:54

地形図上の標高点1107m付近より、対岸諸沢山(1750m)との間に横たわる寸又川を見下ろした。

谷底との比高は280m程度ある。路肩を一歩外れれば、すぐさまこの渓谷に落ち込む。

まるで鳥になって見下ろしたような高度感と俯角の強さに、険が満ちていた。



―千頭林鉄の眠る谷―

この谷底に、私が追い求め、命懸けで征服した軌道跡が眠っている。
ちょうど、昨日の7:31頃に探索した辺りである。
橋も隧道も、この俯瞰の中に眠る。私だけがそれを知っている。

望遠レンズでしこたま覗き込んでみたが、さすがに軌道跡は見えないようだ。
比高があるせいもあるが、この辺りの軌道跡は此岸にあるので、
角度的に樹木に邪魔されて見えにくい。もしも対岸だったら少しは見えたと思う。

それにしても、険しい谷によくぞこれだけ木々が繁茂しているものである。
木々の合間に岩場が見え隠れしており、監獄のように出入りを妨げている。



8:02 《現在地》

「25.0」キロポストも発見された。

どこからでもすばらしい眺めが得られた。

もう十分に谷を離れて高い所にいるが、行く手の道はさらに高い。
谷底に縛られ続けた林鉄に対して、林道は翼を解き放たれた存在だ。
にもかかわらず、林道が大車輪に活躍できる時間は、思いのほか短く終わってしまった。


つうかあそこ…

見えてね?




軌道跡が見えている!


位置的に、あそこは……

2日前の14:17頃に通過した、小根沢停車場の少し前あたりだ。

したがって、林道上のほぼ同じ地点から首を巡らせて見ることが出来る範囲に、
私の一昼夜が費やされたということになる。まあ半分は廃屋で寝ていたわけだが。

それにしても、軌道跡と左岸林道が、同じ斜面の上下に見えるこの風景は、貴重だと思う。
しかも、両者の比高は全線中でもあの場所が最大であり、400mにも達する。

この上下方向の隔絶の大きさも、本林鉄の探索を難しくしている大きな要因である。
見えてはいても、実際にあの場所に立つことがどれほど大変であったか……!




8:15

大根沢橋以来続いていた上り坂が終わり、下りに転じた。
道の泥濘んだところに見えるバイクのものらしき轍が、新しいような気がする。
もしこの見立てが正しければ、これ以降にバイクで越せない崩壊地はないということだが、期待していいのか。




「24.5」キロポストのあるカーブ辺りから、風景が変わってきた。
行く手に小根沢の谷が見通されるようになった。
名前は「小」根沢だが、道は「大」根沢以上に大きく迂回しており、この支流を巡り終えるのには、実に5km近くも歩かされることになる。

ここからも、凸凹の山腹を巡り巡って伸びていく道の線が飽きるほどよく見えた。
見える範囲に大きな崩壊はなさそうだが、距離自体が暴力である。



8:16 《現在地》

キロポストを過ぎて間もなく、大根沢以来となる避難小屋が現われた。
まだ小根沢を渡る地点まではだいぶあるが、小根沢避難小屋と呼んでおこう。

例によって解放されており、中を覗くと、これまたなんとも居心地の良さそうな部屋だった。
備品の充実もこれまで以上で、火を入れればすぐさま使えそうな薪ストーブをはじめ、ガスコンロ(ガスの供給は?)や、鍋ヤカンなどの調理器具、洗剤からサンダルまで常備されているとか……、もしここにインターネットの回線とカップラーメンの大量備蓄があったら、1ヶ月くらい籠もって「山行が」の集中執筆が出来そうな良環境ぶりだった。

「駅近700m」(※千頭森林鉄道小根沢停車場跡までの直線距離です。なお運行はしておりません)
「通りは目の前、アクセス良好」(※寸又左岸林道わき、なお車両の通行は出来ません)
「南向きのリビングではぽかぽかの日差しが感じられます」「外観おしゃれな山小屋風」「ペットに嬉しい」「昼夜を問わず自然音だけの環境」「賃料無料!」……etc
いやほんと、籠もってみたいと思う人は、案外多いのでは?




左岸林道(日向林道分岐)まで 残り11.5km



左岸林道24.5km付近 千頭森林鉄道奥地攻略、最後の発見


2010/5/6 8:35

小根沢避難小屋から500mばかり進んだところでは、久々に巨大なガレが道を横断していたが、踏み跡がとてもしっかりしていて、なんとも心強かった。
2.5kmほど手前にあった【大根沢の大崩壊】とは、もう全く状況が違っている。

進むにつれて着実に人の気配が濃くなっている。圧倒的孤立からの解放が、目に見えて近づいているのが分かる。
本当に嬉しい。
刻一刻と報われていく。
疲れた足の痛みは一時も離れないけれど、それでも気持ちはこの日の天気のように晴れやかだった。



8:42
500m刻みに置かれたキロポスト、「24.0」は見当たらなかったものの、「23.5」キロポストが現存していた。

そこを過ぎてすぐの路上に、写真の水溜まりがあった。
そしてここにも新しげなバイクの轍が刻まれていた。
間違いなく、最近ここまでバイクが入っていた。
もう安心して良いとはっきり分かった。

ついに生還への道筋が、はっきりと見えた。
そうなると人間は欲張りなもので、私の自転車がここにないことが恨めしく思われるのだった。それがあればどんなに楽だろうかと思ってしまう。

2日前の自転車デポ地点まで、まだ14kmくらいある。




8:53
次に見えてきたのは、大きな砂防ダムだった。

そういえば、砂防ダムという日本の山では全くありふれたものを、いつ以来見ていなかっただろう。そのことに、はっと気付かされた。
おそらく最後に見たのは、初日に自転車デポ地点から入渓した直後の「湯山発電所土砂留堰堤」以来であろう。
それより上流の本谷筋にも、見えた範囲の支流筋にも、堰堤は皆無で、自然のままの渓が延々と連なっていた。

砂防ダムの有無は、人の支配のバロメータであろう。
千頭山では、昭和20年代までの早い時期に奥地まで(林鉄を利用した)伐採が及んだが、治山的な仕事が行われた形跡は見られなかった。
木を伐られたこと以外のあらゆる大規模開発と無縁に過ごしてきたのが、砂防ダムと定住者を全く持たない、千頭山の奥地である。
しかも、車両を全く容れない隔絶ぶりは、今日いよいよ、明治以前の状況にまで戻ろうとしているのだ。




8:54 《現在地》

うおおおおっ! 新しいッ!

砂防ダムの今風な形状もそうだが、背後の治山工事現場は、どう見ても最近のものだ!

2日前に左岸林道の入口のゲートを潜ってから今まで目にした“全て”の中で、一番に新しいと思った。

これはいよいよ完全に、忘れられた廃道からの脱出が目の前まで迫っている感じだ。



小根沢の800mほど手前で道を横断する無名の谷に設置された巨大な砂防ダム群だ。道の上部に何段も折り重なるように建設されていた。
だが、既に土砂によって飽和しており、溢れた瓦礫が洗い越しとなった路上にまで厚く堆積してしまっていた。
このことから、まだ整備区間には入っていないと分かったが、急速に道の状況は改善しつつあり、もう荒廃の度合いについては全く心配していなかった。

そして私の目は、下から2段目の堰堤に取り付けられた銘板に注がれた。
そこには、「平成14年度」の文字! 超新しい!
探索は平成22(2010)年だったが、ほんの8年前まで、ここに山の仕事の賑わいがあったのだ。

銘板にはさらに、「奥大井重要自然維持地域保安林整備第3事業」や「第4号コンクリート谷留工」といった、この構造物の素性を示す内容を含んでいた。
私の心に響いたのは、事業主体者の表示が、「関東森林管理局 静岡森林管理署」になっていたことだ。
「東京営林局 千頭営林署」という名前をこれまで探索の道すがら何度も目にしてきたが、その後裔の活躍の証しを、ここではじめて目にした。

もっとも、そんな彼らも、この砂防ダムを完成させた僅か2年後には、千頭山での国有林事業から手を引いてしまった。彼ら以外に手掛け得る者は、皆無だというのに。



8:56
砂防ダムを背にして林道の進路に目を向けると、ここにも工事中に飯場でも作られていたのか、とても道幅が広くなっていた。

そこに、置き土産のようなドラム缶と……なんだこれ? なんか四角い箱状の物体が…。

これって……、もしや?




これは、索道のバケットに間違いない!

しかし、いつの時代のものなんだろう?
この手の土砂輸送用の索道は、かつて鉱石輸送の花形であり、大規模な工事現場でもしばしば利用された。
しかし、平成の砂防ダム工事現場とはいささか時代錯誤の感がある。
もしかしたら、この林道そのものの工事に関わる遺物なのかも知れない。小根沢停車場との間を結んでいた資材運搬索道だったとか…。



8:57

バケットを見た林道の山側に、建物を発見!

これまで林道沿いで出会った釜ノ島宿舎跡や寝水宿舎跡と同じく、林道時代に営林署で設置した拠点の一つで、最新の施業実施計画図だと、「事業所跡」と書かれている。

おそらく現役当時の施設名は、小根沢製品事業所だったろう。これまで見てきたのはいずれも「宿舎」だったが、ここは「事業所」という違いがある。
製品事業所は、工場機能を有する林業経営の現地拠点であり、おそらく単なる宿舎より格上の存在だ。

それだけに……




かつてはこんなに沢山の建物があって、賑わっていた! →

ちょうど現在地の路傍にも小さな建物があったようで、索道の基地であった可能性は小さくないと思う。
そして、現在の航空写真には、少なからぬ建物が廃墟状態で残っているのが写っている。

もし時間があったなら、これまでのように全ての建物を見て回ったと思うが、今は先を急ぎたいと思う。
生還という最低ラインの成果をほぼ確約された今、なすべきことの優先順位を、改めてシビアに考える必要がある。
小根沢事業所跡は、このまま通過することに決めた!




8:59 《現在地》

大根沢事業所の分岐地点に到達。
切り返すように左折すれば、ひと登りして事業所に達するが、この寄り道はしないことに決めた。ここで時間を使わず、無想吊橋再挑戦の可能性を繋ぎたい。

だが、通過しようとした私の決意を揺らがすように、寄り道せずに近づける建物が見えた。昭和51年の航空写真にも、林道沿いにもいくつもの建物が写っているが、その一つだろう。

……そしてこの建物が、大変な足止め要因になった…!




路傍に待ち受けていた建物は、一見して宿舎というよりも倉庫に近かった。
これまで見てきた建物と較べれば、いくらかは新しい感じはしたが、最近建てられたものではないだろう。
強く惹かれる要素はなかったが、わざわざ扉が開いたままになっていたことが、寄り道はしないと決めたばかりの気持ちを揺らがせた。

ちょっとだけ……… ね。

そうやって、中に入ってしまった私は、

囚われた。




9:00

ぉおーッ!!!

書庫だここ!

うおおおおお!!! やべええええええ!!!!!! いろいろあるぅ〜〜〜〜〜!!!!!! 
ここを立ち去ればもう二度と目にする機会はないだろう、昭和40〜50年代とかの業務資料が、段ボールいっぱいに詰まっているーーーーっ!!! この日誌のようなものは、図書館などで読める可能性は全くない。 うおおおおお、持ち帰りてぇーー! こっそり持ち帰って、じっくり精査してぇーーー!!!!!! しかし、この段ボール何箱分もの資料(しかも湿気っていてめっちゃ重い)を背負って下山することは不可能だった。



――20分後。

20分かけて、たったこれだけの資料をチョイスした。
持ち帰りたかったが、完全に廃屋とは断定できない状況なので、デジカメでページの内容を全て撮影してから元の山に戻しておくことに。
大急ぎで撮影開始!

――さらに10分後。

撮影終了!
本音を言えば、ここにもう一泊して、全ての段ボールを検めたかった。
なお、ここで拾った資料の内容も、本編の内容に組み込まれている。
もっとも、多くは昭和50年代の資料だったので、林鉄と関わる内容は少なかったわけだが、それでもこの予想外の遭遇は本日最大の興奮事になった。



9:33
……いやはや、本当に恐ろしい罠だった。
おかげで、事業所をスルーして得られるはずだった時間的なアドバンテージは完全に消失……どころか、30分も滞在する大遅延になってしまった。

しかもだよ。

私が入った書庫は、この建物全体のほんの4分の1くらいのスペースでしかなかったのである。
残りの4分の3は、いったいなんだ?
もう早く先へ進みたい気持ちが強いが、先へ進みながら、反対側へ回ってみよう。





これは……、車庫っぽいな。

林道沿いにあるということは、路上整備用の重機なんかを収めていたのだと思う。
シャッターが開いたままになっているので中が見えるが、車は残されていない。
残念なような、安心したような、奇妙な気分である。

皆様は、この車庫の姿を見て、何を思っただろうか。
何かに似ていると思った人はいないだろうか。
私は、これとよく似た車庫を見たことがある。
ただし、現実に見たわけではなく、次の写真(↓)を見たときの記憶が甦ったのだった。



『RM LIBRARY 96 大井川鐵道井川線』より転載


この写真は、昭和37年6月に千頭から大根沢まで千頭林鉄に乗車した橋本正夫氏が撮影したもので、『RM LIBRARY 96 大井川鐵道井川線』に掲載されている。(この場所は、探索初日の15:26に通過している)
橋本氏が小根沢で撮影して「駐泊所」と呼んだ建物の姿が、私が見た車庫とよく似ていると思った。この写真の記憶が甦った。

駐泊所とは何か。
国鉄が、機関区の下位にあたる設備を、そのように呼んでいた。
では機関区とは何かといえば、機関車の運転、運用、整備、保守にあたる現場機関だった。簡単に言えば、機関車の保管や整備を総合的に行う施設だ。
森林鉄道において、機関区や駐泊所といった用語の区別があったかは不明だが、ようは簡易な機関車の整備施設であろう。車庫も含むと思う。
橋本氏が撮影した小根沢の駐泊所にも、レールが引き込まれており、機関車が出入りしている。

林鉄の小根沢停車場跡から300mも高いところを通る林道上に、よく似た建物が見つかった。
もっとも、あくまで“似ているだけ”で、同一の建物の移設ではないと思う。
よく見ると、入口の幅が違う。

そもそも、機関車が入線した林鉄には、大抵このような形の駐泊所が拠点ごとに整備されていたので、当時としてはそこまで珍しい建物ではなかったはずだ。しかし、もし現存しているものがあるならば、それは貴重な存在だろう。私は見た記憶がない。




主なき車庫の内部に入ってみた。




……散らかっていた。

そして、薄暗い。

末期には車庫としては使われていなかったと思う。単なるガラクタ倉庫か?

なお、奥の壁で建物は仕切られていて、向こう側は既に見た書庫。仕切りの壁だけが新しい感じがする。



ん?



レール敷かれてるんだけど。

いやこれ、どういうことよ?!?!?!

なぜ、ここにレールが?

ここは左岸林道上だぞ!?




間違いなく、これはレール。

しかも、軌間は見慣れた林鉄のナロー。

車庫内の地面の踏み心地は砂地で、コンクリートではないと思う。
レールが床板に埋め込まれているわけではないはず。
普通に敷かれているっぽいが、どうやって固定しているのかは不明。


これではまるで…


小根沢停車所の駐泊所そのもの。




レールは、出入口の真下で終わっており、外へはほんの少しも出ていない。
そのことがまた、謎を深くしている。

なぜここにレールがあるのか?
一番シンプルな答えは、かつて林道にも部分的にレールが敷設されていたことがあり、その時に駐泊所として利用されたのがこの建物だという説だろう。

だが、そんなことが本当にあっただろうかといわれると、とても疑わしい。
林鉄の廃止と引き換えに整備されたのが左岸林道なのであるから、ここにレールを敷設する合理性は全くない。
仮に、工事用軌道のように使ったとしても、その駐泊所を今まで残しておく道理があるだろうか。さらに、レールを敷いたままにしておく道理は…。

あるいはこんな説も。
実はこの建物は本当に林鉄が利用していた駐泊所であって、林道整備時に車庫として移設した。
その時に改造し、建物の4分の1ほどを仕切って書庫にした。
レールはもはや必要なくなったが、何らかのメリットがあって残した。

それともこんな説。
千頭林鉄の廃止を惜しむ何者かが、ここに車両と駐泊所を移設して、林道上にまでレールを延ばして、保存運転を試みたことがあった。


探索から10年も経ったが、答えは不明のままである。




9:36

私にこの日最大の足止めを食らわせた、小根沢製品事業所跡の不思議な建物。

そしてこの遭遇が、一連の探索における、最後の千頭林鉄奥地本線に関わる発見となった。

まさか軌道跡を離れてなお、このようなレールを見ることになるとは思わなかった。




左岸林道(日向林道分岐)まで 残り10.0km