小根沢製品事業所跡に後ろ髪を引かれる思いだったが、本当にゆっくりしている時間はないので、30分余りの滞在にけりを付けて歩き出した。間もなく「22.5」キロポストを通過し、それからすぐに小根沢橋が現われた。名前通り小根沢を渡る橋だ。
今朝、栃沢避難小屋を出発から、あと10分ほどで5時間になる。
全線廃道とはいえ、神経を使うほど突破が難しい場面はほとんどなかった。いくつかの小屋に立ち寄ったほかは、ひたすら砂利道とガレ場を歩き続けるだけの行程だった。しかし、非常な長さを感じた。
今日歩いた距離はまだ8kmほどであり、それに5時間近く掛かっているのは、道がどうこうというよりは、私自身の体力の限界に、かつて経験したことがないレベルで近づいていることによる、如何ともしがたい歩みの遅さが、理由の大半だったと思う。
しかし、未だ自転車到達までの行程の半分も来ていないというのが現実だった。自転車到達がゴールではないのに。まあ四の五の言っても仕方がない。とにかく歩き続ける以外に助かる道はない。
標高1060mに掛かる小根沢橋からの眺め。
大きな支流の谷底とは思えないほど明るい場所だ。山腹を横断するガレ場の連続が、そのまま川となったような景色で、これでは砂防ダムをいくら作ってもキリなどなさそうだ。
ここから約3km谷を下った標高800mに寸又川との合流地点がある。2日前はそこにある小根沢停車場跡で一夜を明かしている。
長い帰路も、ようやく探索初日分の回収に入ったことになる。
橋には銘板があり、昭和44年12月竣工と書かれていた。
前に銘板を見た橋は、9km手前の栃沢橋だったが、昭和48年12月竣工と書かれていた。
4年で9kmも林道が延びるというのは、現代ではまず考えられない早さだ。
10:14
小根沢を越えると、長い上り坂が始まった。
約4kmかけて160mくらい高度を上げるが、勾配は緩やかだ。だらだらと等高線を1本1本味わうように登っていく。
小根沢の前あたりから、私は整備区間に脱出する瞬間を今か今かと待っている。ずっと期待感を高めたまま。
バイクの轍があるくらいだから、そんなに遠くないところまで、初日に自転車で走ったような快走路が辿り着いているはずなのだ。
そう思いながら、小根沢から早くも約30分間、重い足を引きづっている。
この間に「21.5」キロポストも目撃したが、まだ“迎え”は来ない。
10:28 《現在地》
さらに15分後、再び激しくガレた谷を横断する場面があった。
今回は橋ではなく、ラクダのコブのように上下する2連続の洗い越しで沢を越える、なかなか豪快な風景だ。
なお、前回の写真からここまでの間には、「20.5」キロポストを通過した。
なぜか本来あるべきキロポストが、1枚おきに見つかる傾向が続いている。
しかし、いよいよ10キロ台突入が目前だ。昨日、林道を歩き始めた当初は30キロ台だったので、ずいぶん歩いてきたと思う。俺は頑張ってる。
この2連続洗い越しにも、前の砂防ダムで見たものと同じような、竣工年の分かる銘板が取り付けられていた。
一方は、「平成15年度」「災害復旧事業」「静岡森林管理署」「(株)柳澤組」。
他方には、「平成2年度」「災害復旧事業」「千頭営林署」「(株)柳澤組」。
共通する項目と異なる項目を見較べると、この林道の維持管理という仕事が、少なくとも誰を益していたかというのは見えてくる。
そして、ここで見た「平成15年度」は、砂防ダムで見た「平成14年度」を越えて、“最新”を塗り替えた。
遅くとも探索時点の7年前までは、起点から20kmも奥地のこの場所で、工事が続けられていたのだ。
10:44
そして、小根沢通過から1時間後、ついに記念すべきその瞬間が。
整備区間の復活……ではなく、
寸又川左岸林道の中間地点である20キロポストへの到達だ。
柴沢よりさらに奥深くにある40.6km地点が、左岸林道の終点である。
したがって中間地点にあたるキロポストは「20.0」。
その記念すべきキロポストは、この代わり映えのない路傍に突っ立っていた。
「20」という数字が、ここぞとばかりに躍っている。
これまでずっと付き合ってきた、錆色の「20.0」に加えて、上にある黄色い「20.0KM」も、すごく久々に見るが見覚えがあるぞ。
初日に走った左岸林道上では、このタイプのキロポストを何度も見ている。あの頃は「2.5」とか「4.5」とか、まだそういう控えめな数字だったが。
2種類目のキロポストの出現は、下界との繋がりをまた一つ獲得した気分を与えた。
そうそう、右の一番目立っている「20」は、これだけはキロポストではなく、制限速度の標識だ。
フォントといい、デザインといい、通常の道路標識とはあらゆるところが異質であり、本来のデザインを知らない誰かが伝聞をもとに想像で書いたみたいな雰囲気だ。一般道路から余りに遠い、閉鎖空間の凄みを感じた。
そして、標識柱が銀色に塗装された廃レールであるあたり、やっぱり千頭なんだなぁと(笑)。林鉄のイメージからは離れられない。
10:51
次第に高度を上げていく路上からは、小根沢の対岸に歩き終えた道がよく見えた。
そしてそこには、新緑の山を切り裂くように、落差200mはあろうかという巨大なガレ場が走っていた。あれは、本日8:35に通過したガレ場だろう。
路上からは、まさかあれほどの規模とは見通せなかったが、本当に凄まじいものがある。
しかし、まるっきり崩れっぱなしではなく、人が抗おうとした痕跡がありありと残っていた。
道からは見えないような高い位置にまで、何段もの治山工が設けられていた。だが、果たして崩壊を食い止めることは出来ているのかどうか……。おそらく、林道の維持と一緒に、見捨てられてしまったのだろう。
この左岸林道を崩壊から守るとしたら、昨今の幹線道路がそうであるように、危険箇所の全てに長大なトンネルを掘り抜けること以外にないだろう。
どれだけの予算が必要になるのか、見当も付かない。
10:55
「奥大井重要自然維持地域保安林整備事業」のあらましを解説する、巨大で外見にも気を遣った看板が現われた。
明らかに、ここで働く人たちへの内向きではなく、外から訪問する客への外向きのアイテムだ。こういうものが現れてきたのも、下界の近さを感じさせた。
この「奥大井重要(略)」という長たらしい事業名は、8:54に通過した平成14年度完成の【砂防ダム】の銘板に登場していた。わざわざ説明をくれるというのは、調べる手間が省けて助かる。せっかくの解説なので全文を書き出してみよう。東京営林局および、その仕事を受け継いだ関東森林管理局が、伝統ある千頭山国有林に対して積極的に行った、おそらく“最後の事業”のあらましは、以下の通りである。
奥大井重要自然維持地域保安林整備事業
千頭国有林の寸又川流域一帯は、良く保存された原生的な天然林から成る本州中部の典型的な森林の垂直分布が見られます。
この原生的な天然林を保存することにより、自然環境の維持、動植物の保護遺伝子資源の保存、学術研究などに役立てることを目的として林野庁は平成2年3月、この地域を『南アルプス南部光岳森林生態系保護地域』に設定しました。
このような自然の推移に委ねて保存する原生的な天然林は、周辺の森林が国土保全や水源かん養などの機能を十分に果たしていることにより保全されます。
このため、林野庁が行う治山事業においては、保護地域の周辺の森林について森林の機能を一層高めるために必要な森林整備を行い、地域一帯の総合的な機能の確保、増進を図ることを目的とした『重要自然維持地域保安林整備事業』を実施しています。
千頭営林署では、寸又川支流の小根沢から上流地域における水源かん養保安林整備事業の一環として『奥大井重要自然維持地域保安林整備事業』を実施することし、渓流や山の斜面を安定させるための治山設備の整備や自然林の造成などの森林の整備を行っています。
この長文を読むと、これまで延べ1週間ほどを千頭の山に過ごしただけの私でも、いろいろな感情が沸き起こってくる。
そこには紛れもない感動がある。
この地で戦前からずっと行われてきた国有林事業の支配者である彼らが、時代の変化のためにここで木を伐ることを止めてのち、最後に山の環境を良好に復元して次代へ渡すべく、危険極まりない治山事業を進めようとしたことは、ある意味最後の“親孝行”のように思われるのだ。
そもそも山が荒れたのは伐採や林道整備の結果ではないかという声があるだろう。あるいは、木を伐って採算が取れない山での苦し紛れな予算獲得手段ではないかという批判もあるかもしれない。仮にそういった後ろめたい面があったとしても、この山との関わりで生計を得てきた人々が、山を離れざるを得ない最後の時期に、こうした恩返し的な事業に精を出せたという事実は、温かいのではないか。
なお、この林野庁の重要自然維持地域保安林整備事業は、奥大井の他にも木曽や屋久島など全国の(林鉄で有名な)いくつかの林業地で平成15年頃まで行われた形跡があるが、その後は事業自体が終息したようで、現在も継続中の箇所はないようだ。
11:00
出発から6時間経過。
まだ上り続けている。さっき「19.5」キロポストを見た。
道の状況はこんな感じ。
……相変わらずだ。
まあ、もう全く難しい崩壊地はなく、ただ瓦礫が散乱しているだけなので心配はないのだが…。
思わせぶりになってからずいぶん経つが、ぜんぜん整備区間が来ないので、いい加減期待するのも飽いてきた。
11:01
風景の高度感は、最高潮に達しつつある。
左岸林道の中間部における最高標高である海抜1200mに迫っている。谷底との比高は400mにも達しているのだから、この高度感は当然だ。
背後のひときわ高い峰は、前黒法師岳。
11:02 《現在地》
廃レールの電信柱がひときわ存在感を見せる、すばらしい展望地があった。
この場所から見下ろす山河には、昨日と今日の全行程が収まっていた。容易くな。
ちっぽけな行程だったなどと卑小化したくはないが、この眺めでは較べる相手が悪すぎた。
本当にとんでもなく遠くまで見えるのだが、帰宅後に地図ソフトの力を借りて検証してみたところ……
林道については、おおよそ12km後方、釜ノ島近くの尾根付近まで見えていた。
そこは昨日の17:50に路上から反対にこちら側を見晴らして、そこに今いる道を見付け、
「果てしなく遠い!!!」って絶叫したあたりに他ならない。向こうから見えるのだから、当然こっちからも見える。
そして背後の山々は、ついに辿り着けなかった柴沢より奥に聳える南アルプス主峰列、県境の峰々である。
柴沢を見下ろす位置にある、千頭の名を冠するそう高くない山も、背後の高峰のせいで存在感は皆無だが、
よく見ればちゃんと区別できる姿で見えた。おそらくこの辺りが、千頭山国有林のなかで千頭山が見える最も下界に近いところ。
昨日も夕暮れに同じ言葉を口にした気がするが……、
さらば千頭山。
そして、がんばってくれ、俺の足。
左岸林道(日向林道分岐)まで 残り8.5km
2010/5/6 11:10 《現在地》
出発から6時間あまりを経過し、今回の探索における最高到達高度である1200m付近まで上り詰めた。とりあえず左岸林道にいる限り、この先の行程に登りはほとんどないはずである。
寸又川の水面より400m以上高い位置を歩いているので、さすがに渓谷沿いのような崩壊地も少なくなり、道の荒廃も軽微であって、歩行の妨げには全くなっていない。
もはやこれは、単に長いだけの林道歩きだ。
道路状況的にはそう言って良さそうだが、それでも私の足はさほど速くはならなかった。こんな何の変哲もない道路上でも、頻繁に立ち止まって休んだ。とにかく疲れ切っていた。
現実としては、ここからまだ半日以上も探索を続けたという事実があり、それだけを見れば、この段階ではまだかなりの余力があったと思われるだろう。
だが、それは正しくない。
この日の後半戦は、自転車を足とした探索であったことを考慮すべきなのだ。徒歩と自転車では、疲労のペースも、疲労する部位も、相当違う。(特に当時の)私は自転車探索のエキスパートではあっても、これほど長い時間の歩行には慣れていなかった。そのことも、過去に経験したことがないほど消耗した原因だったろう。
この歩行の先には自転車が待っているということが、とても大きな心の支えになっていた。
11:13
路肩に立って見下ろした、寸又川の谷。
400mもの高さから見下ろす谷底に軌道跡はさすがに見えないが、位置的には、この真下の辺りに小根沢停車場があるはずだ。
また黙々と歩き続け、「18.5」キロポストを見てからまた歩くと、久々に(約6kmぶり)避難小屋が現われた。
中を覗いてみると、これまた居心地の良さそうな、家財道具付きの一軒家であった。
(カレンダーがあったが、何年のものなのかのチェックを忘れた。ただ、2000年代のものであること、8月のものであること、そして31日が日曜日であることなどが画像から見て取れ、探索(2010年)以前で該当する可能性があるのは2003年のみだった。つまり、平成15(2003)年8月まではカレンダーが更新されていたことが分かった。林道の補修が中断されたのは、この時期とみて良さそうだ。)
11:50 《現在地》
また歩き続けて、小屋から約30分、私は大樽沢に架かる橋に辿り着いた。
この間ずっと緩やかな下り坂で、路面状況は良かった。キロポストも「17.5」と「17.0」を相次いで見付けていた。
橋の袂から、地形図にない登山道が分かれていた。
入口に朽ちかけた木札があって、「大無間山登降口」「光岳登山口まで20.2km」と書かれている。
後者は、左岸林道を柴沢まで歩いた場合の距離だろう。登山を始めるまでに、こんなに林道を歩かされるとかマジでキツイなぁと他人事のように思った。
大樽沢を渡る橋は、規模が大きかった。
そして、支流の谷底にありながら、寸又川本流の谷まで見通すことが出来る見晴らしの地であった。
眼下の大樽沢に目を向けると、意外に水量があり、連瀑となって奔る白い流れが美しかった。
親柱の銘板によると、橋の名前は大垂沢橋とあって、大樽沢の字が違っていた。
竣工年は昭和43年11月で、5.2km手前で渡った小根沢橋が44年12月竣工だったので、わずか1年でこの林道は5km以上も延びていたと判断できる。
それにしても、この大樽沢という地名には「帰ってこられたな」という感慨を強く持った。初日に初めて軌道跡に入ったのが、大樽沢停車場の近くであったし、はじめ氏と別行動を開始したのも、この谷が本流にぶつかったところに架かる鉄橋の近くだった。そこまで直線距離なら1.2kmくらいしか離れていないところまで戻ってきている。
12:03 「16.5」キロポストを越えてすぐ。
本当に豪快な林道だ。
規模はもちろん、風景の素晴らしさにおいても、本邦屈指の林道だと感じる。
オブローダーとしてではなく、一人の古典的林道ファンとして、これほどの道の廃絶は残念に思う。
12:06
この辺りは地盤的に相当崩れやすいのか、ずっと道の状況が良かったなかで久々に大きな崩壊地となっていた。
路肩から見下ろす崩壊地も大迫力で、谷底までの落差450mのピンボール台を思わせるような巨大ガリーになっていた。
12:13 「16.0」キロポストを過ぎて。
豪快な風景の連続で、寸又峡版“天空街道”という言葉が脳裏をよぎった。
しかし、歩き続ける私の心境は、天を羽ばたく開放感とは真逆で、砂漠を這う遭難者に近かった。
出発から7時間、遂に正午を回った。朝からこの道だけを14km歩いた。平均時速はたったの2km。のろまな歩み。
気は急くも、足がいうことをきかず、頻繁に歩みを止めては立ったまま休んだ。考え事をする時間はたくさんあった。
私の心は揺れていた。無想吊橋へ行くべきかどうかを、真剣に悩んでいた。
昨日の釜ノ島で苦渋の撤退決定を下したときは、終点を諦める代わりに、無想吊橋と決着しようと考えた。
だから、もしこのまま下山してしまえば、3日間に及ぶ探索の最も誇らしいはずの終段が、
少なからず敗北の色に染まる懸念が強くあった。二兎を追わなかったのに、一兎さえも得られない…。
とりあえず、自転車デポ地点に辿り着いたときが、決断の期限となる。もう少し考えたい。
(どういう決断をしたかは、読者は既にご存知だろうが)
12:18 《現在地》
「15.5」キロポスト地点から寸又川を眺望したところ、
遂に自転車デポ地点を視中に収めた!
寸又川の対岸に逆河内川の巨大な谷が開いており、その谷壁に刻まれた日向林道が見えた。
2日前、はじめ氏と共に自転車をデポしたのは、あの日向林道が寸又川を渡る橋の近くであり、
完全に目視される位置にあった。さすがに自転車は見えないが……帰って来たぞー!!
ここから自転車デポ地までは、直線距離はわずか1kmほどだった。ただし400mの比高を含む。
グライダーで滑空でもしたら、数分で辿り着ける位置関係なのだが、道を辿らざるを得ない私には、
なんとまだ8kmもの行程が残されていた。時速2kmでしか歩けていない私に、これは……きつい(涙)。
12:34 「15.0」キロポスト通過直後。
ほとんどうつむいて歩いていた私の前に、斜面崩壊現場が。
しっかりとした踏み跡が刻まれているので、何の問題もない。
ただただ道が長い。長いし、それ以上に、長く感じる状況にある。
探索中に、道の荒れ方よりも、距離そのものが最大の障害だと
感じたことは、後にも先にもこの時だけだったかも知れない。
12:38 《現在地》
うわあああああ!
出発から7時間38分目の突然な絶叫の理由が、奥に見えている。
千頭廃界からの生還!
廃なるものしか存在しない千頭の奥地から、2日ぶりに生還した!
オブローダーの敵だと思っていた土木作業車を、これほど親しく感じたことはない。
左岸林道14.7km地点付近。全線の半分にも満たない地点が、人の死守する最前線だった。
この少し手前にやや大きな崩壊地があったから、探索当時の静岡森林管理署は、
崩壊地直前のこの何の変哲もない地点を、林道維持の終点として扱っていたのだろうか。
(2020年現在はさらに後退し、左岸林道全線が荒廃しているという情報もある)
路面上には、つい今しがたまで路上整備が行われていた気配があったものの、
周囲に人の気配はなく静まりかえっている。昼休みで一旦現場を離れているのだろうか。
今は、千頭山から這い出してきた私の姿を、他人でもいいから、まず人に見て欲しかった。
それをすることで、生還の事実をより強固に世界へ固定できる気がしたから。
こうして、一旦は生還を確信できる状況を獲得した私だった。
だが、最後の最後に特大の落とし穴が待ち受けていようとは、
予想していなかった。
左岸林道(日向林道分岐)まで 残り1.9km
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